母なる川 石狩川の秋
秋分の日の23日、北海道の屋根大雪山系旭岳に初雪が降りました。
雪は紅葉のあとを追うように山から里に下りてきます。
その里は今が秋の真っ盛り、晴れた日は天がとても高く感じるときです。
先日、旭川郊外の神居古潭(かむいこたん)を訪れました。
大雪山に端を発する石狩川は、札幌の隣の石狩市で日本海に注がれる日本で3番目の長大河川ですが、途中の神居古潭で急に川幅が狭くなって、奇岩怪石の渓谷となります。
その激流と、吸い込まれるような水の青さから、アイヌの人はカムイコタン、魔神が住んでいるところとして恐れ敬いました。
そして数々の伝説を生む一方、格好の小説の舞台にもなりました。
明治後半、徳富蘆花が神居古潭の鉱泉宿に泊ったときの模様が、その著「熊の足跡」に面白く描かれています。
(カッコ内は筆者注)
汽車は隧道(トンネル)を出て、川を見下ろす高い崖上の停車場にとまった。 神居古潭である。
急に思い立って手荷物諸共あわてて汽車を降りた。
(余りにも急なため)茶店で人を雇うて、鶴子(同行した娘)と手荷物を負わせ、(対岸へいくため)急勾配の崖を下りた。
暗緑色の石狩川が汪々(おうおう)と流れて居る。
両岸から鐵線(はりがね)で吊ったあぶなげな假橋が川を跨げて居る。
橋の口に立札がある。 文言を讀めば曰く、五人以上同時に渡る可からず。
恐づ恐づ橋板を踏むと、足の底がふわりとして、一足毎に橋は左右に前後に上下に搖れる。(中略)
下の流れを見ぬ樣にして一息に渡つた。 橋の長さ二十四間。
渡り終つて一息ついて居ると炭俵を負うた若い女が山から下りて來た。
佇む余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼吊橋を渡つて往つた。
手荷物と娘をすべて人に託し、一人緊張してつり橋を渡る徳富蘆花のかたわらを、重い炭俵を負った若い女が身軽に渡っていく様が目に浮かぶようです。
つり橋は今でも同じ所にありますが、立派なつり橋・神居大橋となっていました。
けど中央に行くと少し揺れます。
よく見ると「一度に百人以上渡らないでください」と書いてありました。
そのつり橋から眺める石狩川の流れにびっくりです。
ゆったりと流れているではありませんか。
とても激流、急流ではありません。
川の色は水深が深いせいか、昔ながらの青緑です。
40数年前、東京の学生だった私は当地を訪れたことがあります。
そのときの激流をよく覚えています。
川も人間と同じく年をとると穏やかになるのでしょうか?
茶店でトウキビを買い求め、食べながら店の人に聞きました。
今年は雨が少なかったために水量が少ないとのことでした。
また流れ放題の昔の川と違ってダムや堰などができたため調整され、昔のような激流はあまり見られなくなったということでした。
ここで食べたトウキビが実に素朴でおいしいです。
札幌大通公園で食べる甘ったるさがありません。
おまけに1本150円、大通公園では300円です。やはり田舎はいいなあ。
茶店の年老いた女性は、沸騰した大鍋にしわがれた手で無造作に剥いたトウキビを入れ、柄杓で塩を一杯いれてふたを閉めていました。
徳富蘆花が下りた神居古潭の駅にはもう列車は通っていません。
複線化のために別なところに長いトンネルができ駅は廃屋となりました。
ただ、旧神居古潭駅は明治期の駅舎の雰囲気がよく出ているとして、文化財に指定され保存されていました。
旧構内には活躍した機関車D51が3両展示され、徳富蘆花が「隧道をでたら駅だった」というトンネルは、危険なため出入りが禁止されていました。
この神居古潭を一気に全国区に仕立てたのが連続テレビ小説「旅路」です。
神居古潭を舞台に風雪に耐え、希望に生きた鉄道職員一家の人生を描いた連ドラは、高い視聴率でお茶の間に入りこみました。
人生は旅路、夫婦は鉄路 と刻まれた平岩弓枝の碑が一角に立っていました。
しかし碑の一部ははがれ落ち、碑文は泥で汚れていました。
草ぼうぼうの中の碑は野垂れ死に寸前でした。
こういう碑はあまり見たことはありません。
どこが管理しているのだろう。
風雪に耐えても希望のない碑のように思えました。
この碑をみたら平岩弓枝さんもさぞ嘆くことでしょう。
人生は旅路、夫婦は鉄路、記念碑は末路でした。
神居古潭をちょっと下りますと深川という町に出ます。
道の駅の名前が「ライスランド」いうほど、米作を中心とした農業中心の中核都市です。
当時札幌から石狩川に沿って進められた開拓は次第に奥地に進みました。
原生林が徐々に切り開かれました。
その尖兵となったのが屯田兵です。
明治時代当地を訪れた北原白秋は屯田兵の労苦を思い
一已(いっちゃん)の 屯田兵の村ならし
ややに夕づく この瞰望(みおろし)を
と詠みました。
(一已は旧一已村のことで、その後深川市と合併。超難読地名のひとつです。)
その歌碑が高台の公園に建てられていました。
公園の眼下には黄金色の水田と、蛇のように大きくくねる石狩川がありました。
大地を這うようにして流れています。
石狩川がまさに北海道の母なる川を実感するところです。
北海道米、道産米はこれまでは冷めると味が落ちるとして、まずい米の代名詞でした。
ところが最近は「ほしのゆめ」「ななつぼし」などの主力銘柄は、新潟魚沼産の「こしひかり」に次ぐ高い評価を得るにまで至り、人気急上昇です。
この結果、北海道は新潟県を越して日本一のお米の生産地になりました。
江戸時代、大名の格付けは米の生産量が基準になっていました。
加賀100万石というのは100万石の米が取れる土地を領有しているということを意味しました。
ところが北海道はお米がとれませんでしたので、松前藩は1石ももらえませんでした。
徳川幕府は米に代わってアイヌと交易する交易権を松前藩に与え、松前藩は交易による利ざやで、藩を維持していました。
その北海道がいまや日本一のお米の生産地です。
蝦夷500万石?の大大名誕生というところでしょうか。
明治6年、札幌に近い島牧駅逓所(重要文化財)で中山久蔵が初めて北海道にもみをまいて以来、わずか130年でここまで成長しました。
それだけではありません。
北海道の米作が中国東北部の黒龍江省で普及して中国の農業を大きく支えています。
寒地稲作 この地に始まる。
戦後2代目の知事で権勢を振るった町村金吾(前外相信孝の父)直筆の碑が、中山久蔵の肖像とともに駅逓所に建てられています。
たゆまぬ品種改良、土壌改良の結晶といえる石狩平野の黄金色を、中山久蔵が生きていたらどう思うでしょうか。
文学碑を訪ねながら歴史に触れ、石狩川沿いの深まる秋を堪能しました。(望田 武司=寄稿)
望田 武司(もちだ・たけし)1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。
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