夕張倒産 (上)
夕張市が倒産しました。
今後、会社の民事再生法に当たる財政再建団体の指定を申請し、国や道の厳しい監視の下で再建が図られることになります。
石炭の町からメロンと観光・映画の町に華麗に転身したかのように見えていた夕張市でしたが、内情は厳しかったようです。
何よりも驚いたのは積もり積もった借金がなんと632億円。前代未聞の巨額、総務省も口あんぐりです。
この数字を見せつけられて、これまで何をしていたの、市は?市議会は?と多くの方が思ったことでしょう。
夕張市の人口は6700世帯、1万3000人。1人当たりの借金は480万円、1世帯あたりでざっと1000万円です。
会社経営ならいざ知らず、一般家庭でこれだけの借金をしていたら首は回らず夜逃げしたくなります。
これから市営住宅・ゴミ・水道などの公共料金、各種施設の使用料の引き上げは避けられず、住民は夕張から逃げていくのではないかと懸念されます。
夕張市には 石炭の歴史村 という観光レジャー施設があります。(写真右)
この中の各種レジャー施設が実は金食い虫で、倒産の主な病原菌でした。
レジャー施設の閉鎖が取りざたされている中、このままですと、日本では貴重な石炭博物館までおかしくなるのではないかと危惧しました。
一度は見ておきたかっただけに先日、石炭の歴史村を訪れました。
地底の職場
札幌から高速で1時間半、雨の降る夕張市に入りますと、まず目に付くのは夕張メロンのビニールハウスに続いて立派なサッカー場、天然芝の野球場などのハコ物の多さです。
市街地に入りますと一転してシャッターが閉められ、閉店した店がやたらと目立つ寂しい商店街です。
石炭博物館では、採炭技術の変遷・厳しい状況の中での労働と生活・そして炭鉱事故・閉山など、日本の石炭産業が歩んだ歴史が写真や当時、使用していた道具などでわかるようになっています。
圧巻はエレベーターで下降し、現実に使われていた坑内に入ったときです。
空知の旧産炭地にはあちこちに資料館はありますが、坑内まで入れる施設があるのはここだけです。
ヘッドライトをつけて中に入りました。
坑内はとても狭く、絶えず危険にさらされながら顔を真っ黒にして働いていたヤマの男の職場がありました。
1日8時間労働の3交代でした。
坑口からエレベーター、人炭車などで掘削地点まで到着するのに片道1時間かかるほどの深部採掘です。
往復2時間に食事休憩1時間ですので実働5時間です。
坑内での食事は弁当の蓋を全部開けず、箸をつける部分だけを開けて食べている写真がありました。
白いご飯が粉塵でふりかけのように黒くなるのを防ぐためだそうです。
火気厳禁の職場です。
フラッシュをたくことができないだけに貴重な写真だそうです。
坑内から上がるとまずフロに入りますが、大浴槽の湯は黒く汚れていました。
石炭産業にかかわった労働者の迫力がじかに伝わります。
「夕張、食うばり、飲むばかり、ドンとくれば死ぬばかり」
元炭鉱マンのガイドが炭鉱マンの生活と気持ちを自嘲気味に話して笑わせました。
石炭発見
夕張の郊外に夕張川が流れています。
川床がむき出しで薄い板が幾重にも重なって見える所がありました。
岩盤は石炭層で砂層の部分が洗われて侵食され、見事な造形美となっています。(写真右)
千畳敷 、通称「鬼の洗濯岩」と言われているそうです。
実はこの地が北海道の石炭のスタート地点です。
明治6年アイヌの先導で夕張川を上ったアメリカの地質学者 ライマン が、岩肌と黒い川の色を見て上流には石炭があることを確信しました。
いまでこそ紅葉の名所で多くの観光客が訪れ、立派な橋ができて眺望は最高ですが、当時よくぞこの山奥まで入ったものだと思います。
その数年後、近くに高さ24尺もある石炭の 大露頭 (現、天然記念物・写真左)がライマンの弟子の日本人技師によって発見され、石炭の採掘が始まりました。
富国強兵・殖産興業の牽引役として、夕張から小樽・室蘭へと線路が敷かれ全国に石炭が運ばれました。
日本で鉄道が敷かれたのは、新橋・大阪に次いで、札幌―手宮(現、小樽)が三番目(明治13年)で、その2年後、原生林を通って幌内炭鉱(夕張の隣の現、三笠市)までつなげました。
明治新政府がいかに石炭を重視していたかわかります。
黒いダイヤ
戦後になって石炭は日本の復興のエネルギー源として大量生産が求められました。
手掘りから、簡単な工具・空気圧搾機・そして大型機による削り取りと、技術も進むにつれ石炭は深部にまで掘り進められました。
全盛だった昭和35年には夕張だけで炭鉱が24もあり、市の人口は12万人にまで膨れ上がりました。
石炭は 黒いダイヤ といわれ、もてはやされました。
とくに夕張はエネルギーが高い 目無炭 (めなしたん)という筋目のない最良の石炭が採れました。(写真右)
炭鉱マンが住む炭住、通称ハーモニカ長屋は段々畑のように山の上に向かってどんどん作られました。
炭住では電気水道などはすべて無料で、夜は電気が消えることなく、見上げる夜景は函館山よりきれいだったと懐かしむ人もいます。
映画が街の人の楽しみで、全盛期、夕張に10館以上の映画館があったということです。
これが後の「映画で街づくり」のバックグラウンドとなります。
しかし昭和40年代に入ると主要なエネルギーは石炭から石油に代わり、悲惨な炭鉱事故が閉山を早めました。
平成2年、最後まで残っていた三菱南大夕張鉱が閉山し、夕張から炭鉱はすべて消えました。
兜町でスミ産業ともてはやされていた炭鉱は次第に隅に追いやられ、北炭が倒産して完全に隅からも姿を消しました。
石炭とともに発展してきた町だけに、閉山すると人口は激減、わずか半世紀で全盛期の十分の一にまで減ってしまいました。
夕張は石炭とともに栄え、石炭とともに廃れました。ほぼ100年ダイナミックに生き、そして終わりました。
風化する石炭
2年前、石炭の産地だった空知の炭鉱跡地を見て回ったことがありました。
案内してくれた元小学校の校長が「いまの子供たちは石炭が燃える石だということを知らないんです」と言っていました。
そして石炭に火をつけると目を輝かせて見入るということです。
旧産炭地の子供たちの話です。
年配者には懐かしいだるまストーブなどが博物館に並んでいました。
石炭は急速に風化されています。
旧産炭地の赤平に 住友赤平鉱 の立て坑が残っています。
最新鋭のエレベーターを持っていた東洋一の立坑でしたが、閉山となっては何の役にも立ちません。
比較的保存状態の良いこの立坑を産業遺産として残そうと関係者はがんばっています。
けど大きな建物です。固定資産税だけでも大変です。
おまけに絶えず地下からガスが沸いてくるしろもの、保守するのも大変です。
近い将来、近代日本を支えたエネルギーの象徴として文化財に指定され、ゆくゆくは法隆寺五重塔より高い立坑は国宝に指定されることでしょう。
文化庁の打診もすでにあると聞いています。
それまで維持され、残すことができるのでしょうか。 (望田 武司=寄稿)
※夕張倒産(下)に続く
望田 武司(もちだ・たけし)1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。
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