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参議院選挙で民主党が圧勝し、いわゆる「ねじれ」が発生したことによる最も大きな影響の一つは、竹中平蔵氏がGSECニュースレター(2007.10.1)で自民党と民主党のシンクタンク主催者との鼎談で語ってているように、日本にやっと根付きかかったかに思われた「官邸主導」の政策形成が、再び旧来の姿に戻らざるを得なくなったことだろう。けだし、官邸主導型というのは両院における与党多数を前提とうするからである。 官邸主導の政策形成対極にあるのは役人主導のそれである。両者の違いは、後者が既得権益を重視する現状維持、乃至は漸進改良型であるのに比して、前者はドラスティックな改革志向が可能である、というのが小泉改革時代の主な論調であったのは記憶に新しい。 もちろん官邸主導が保守的になることも、役人主導が革新的であることも理論的には可能である。それぞれの持つ危険性や陥り易い欠点もよく知られている。しかし、政治と選択は時間(あるいは時代)の関数という部分も大きく、その意味では、現在の日本において、日本のお役人(さらにいえばそれと癒着した族議員)と既得権益との蜜月関係は改めて指摘するまでもない。そのコンテクストにおける官邸主導の意味と機能が十分に開花しないままに終わらざるを得なかった、ということになる。 何処に行く?従来の役人主導型が、「ねじれ」と組み合わされると何が起こるだろうか。一つの可能性は方向性を喪失した手続きの重視、過程の透明化に過度の比重がかかることである。加点主義よりは無失点主義、前例尊重の瑣末主義。これが官僚主義の体質であることはよく知られているが、これが政党相互間のアラ探しと野合すると、惨澹たる事態が起こりかねない。「なぜ政治にそんなにオカネがかかるのか」という詮索よりは、1円から領収書を要求する方が大事になったり、政策の方向性や妥当性よりは、その財源手当の現実性の方が主な議論になる。価値観の相対性はなにも政治に限ったことではない。品行方正であれば腕はヤブだってかまわない、とか、何の意味もないプロジェクトでも、経理手続きや事務手続きがきちんとしていればそのほうが評価される、というのは決して絵空事ではない。もともと民主主義というのは手続きを重視するところがあるから、正義は常にこちらのほうに加担しがちなのだ。第二に、同じことを裏側から見ると、大同はどうでもよくて、小異の方が大事になる。これいついても詳論は要すまい。官庁相互間のいわゆる権限疑義を 思い起こせば足りる。かつて関門海峡の浚渫船(常時係留されて動かない)が船か産業機械かをめぐって(当時の)通産省と運輸省の間で大騒ぎになったときに、「一寸法師が乗ればお椀も船だ」と決着を付けた田中角栄氏のことなどが懐かしく思い起こされる。 官僚バッシングとかくこの種の議論の落ち着き先が官僚バッシングだというのも夙(つと)に経験するところである。主権者たる納税者の声は神の声で無謬なのだから、悪いのはあいつらで締め上げればよい、監督を厳しくすればよい。それが他ならぬ官僚制の論理そのものだ、と気づいてか気づかぬままか、臭いものに蓋をしても、臭いは元から絶たなければ真の解決にはならない。トカゲの尻尾きりで満足し、あるいは満足させられていたのではむしろ思うつぼなのに、である。なに、人の噂もなんとやら、しばらく頭を低くしていれば昔通りになる。その繰り返しが何度あったことだろう。現象に気を取られて、ことのそもそもに思いを致さないのでは再発は必至だし、それも計算に入っているという「悪い奴ら」だっっていない保証はないのである。臭いの根源善悪はともかく、役人の権力の源泉はオカネと無縁ではあり得ない。それが予算の支出権であれ、許認可権であれ、全ては税金を源資としたオカネの遣い勝手に関係する。自分の裁量によって自由になるオカネ(無駄遣いを含む)をそれこそ1円でも多くする「仕掛け」(多くの場合法律という形をとるが、それには限らない)作りが主要関心事になる。だから、徒に末端におけるオカネの使われ方に気を取られることなく、また、それをあげつらうことで満足するのではなく、「仕掛け」を変える、小泉流に言うと「ぶっこわす」のでなければ臭いの根源はなくならない。(不正摘発がどうでもよいなどと言っているのではない。念のため。)官邸主導による「仕掛け」の変革がしばらく望めないとすれば、与野党論戦の焦点が些末に陥らないような世論こそが必要になる。その意味では、先にも述べた(9月10日「ニ項対立」)が、民主党が無駄遣い根絶国会にしたいと言っているのは大正解だ。これを現象摘発に終わらせることなく、その「仕掛け」にまで踏み込んでほしいものだ。(入山 映) |
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2007年10月15日
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