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安倍首相の唐突な退陣。後継候補者が福田・麻生両氏に決定。この名前を見ていると、国会議員の約4割が二世・三世政治家。いまや政治家は世襲家業と化したと指摘されて久しいことを想起する。首相に限ってみても、安倍首相から十代遡れば羽田、小渕、小泉とこれまた4割。ことは自民党に限らないのもまた面白い。民主党の主力部分を構成している人には旧自民党員が多いから、といってしまえばそれまでだが、世襲議員が選ばれやすい選挙構造が存在している、ということだろう。それが後援会によって代表される地元組織と、議員ファミリーとの間に存在する人間的紐帯、あるいは vested interests(受益者集団) による、というのは最も解りやすい図式だろう。しかしそれが牢乎として抜きがたいものであるか、といえばそんなはずはない。「刺客」騒ぎのあった岐阜1区はその典型で、「世襲」野田聖子氏ではなく、佐藤ゆかり氏を推す地元支持者の存在は生きた証左であると言えるだろう。この選挙区が所謂「都市型」の無党派・浮動票依存のそれではないだけに、一層その象徴性は大きい。余談だが、「都市型」の代表的存在の世田谷を中心とした東京6区で、なんと自民党が二世候補者を公認しているのと好対称だろう。
世襲は悪いか
それでは世襲は悪か。世襲が出やすい、世襲以外は出にくい現状は変えた方が良いのか、という話になると歯切れが悪くならざるを得ない。「要は本人次第ですな」と言わざるを得ないようなところがあるのみならず、「出たい人より出したい人を」と目される人の多くは「その儀ばかりは」になりがちだからだ。特に比例区ではない選挙区からの立候補にはその傾向が強い。本来、小選挙区制というのは中央から指名された「落下傘」候補が出やすい制度のはずだ。話題になることの多い「チルドレン」にしても、おそらく中選挙区ではあり得なかった現象だろう。にもかかわらず家業政治家が多い、というのは単なる過渡期の現象であるというのを超えて、いくつかの含意があるように思われる。
田の草取り
ひとつは、代議士とは地元の利益代表という側面と、国政の舵取りと言う機能をどのあたりで妥協させ、共存させるか、という古典的な問題である。「大物」代議士ならばそれなりに平行して果たしうる二つの機能だが、「陣笠」クラスでは地元の陳情対応が主たる仕事にならざるを得ないという現実がある。それが地元後援者・その組織とどのような関係を生むか、想像に難くはない。田の草取りが政治活動の原点だと言われる所以であり、民主党代表の小沢代表が最も重視した戦略であるとも言われている。どれほど悪評高くとも、地方バラマキの味が忘れられないのは、基本にこれがあるからだ。これに対する妙薬は、地方分権と規制緩和しかない。口出しできる部分を極小化し、ばらまける源資をなくする他はないのだ。役人の天下り防止策とその意味では全く対策を同じくする。構造改革とは、為にする議論がいうように単なる市場原理主義や、ジャングルの論理を意味するのではない。
新しい器
その意味では、旧態依然たる論理構造を持つ「大物」がことあるごとに出現する自民党と、パブリックセクターを中心とした労働組合組織の影響から離れることのできない構成員を持つ民主党が、それぞれの「旧い」部分を脱皮して、新たな政党を創る、という意見には魅力がある。いわゆる大連立論はそれに向けての第一歩としての意味はあるかもしれない。しかし、同時にそれがいかに現実問題になるといかに困難か、というのを如実に示したのが今回の自民党総裁候補選びの一幕であったようにも思う。
地縁としがらみにとらわれることの最も少ない「チルドレン」たちが、その誕生のいきさつからして小泉氏を候補に推すべく尽力したのは理解できる。しかし、それが現実に無理だと判断された段階で、独自の候補擁立ができていれば、彼(女)たちの存在感は飛躍的に高まっていたように思われる。それができなかった理由がどこにあるのかを的確に分析することは筆者の能力を超えるが、千載一遇の機会であったように思われてならない。
願わくば、あの30人のグループが、別の機会に別の動きで新しい波を起こしてくれることを期待したい。
雄弁は金?
その問題とは別に、今回総裁選は改めてテレビの力を感じさせるものとなった。というより、公衆の面前で自分の意見をいかに説得力を持って述べるか、という、いわゆる public address (大衆に向けた演説)の能力が日本の政治家にも要求されるようになってきている、ということかもしれない。巧言令色鮮(すくなきかな)仁、というのがこれまでの伝統でさえあったのに比べると、こちらのほうは遅まきながらグローバル・スタンダードに近づいてきたのかもしれない。他方、大賢は愚に似たり、という東洋の伝統の中にわれわれが生きているのも事実だ。どこかのニュース番組のアンカーのような空疎な饒舌が求められている訳ではないことは明白なのだから、日本流の弁論術というのが、そのうち大学の科目になるのかもしれない。
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