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匹夫の勇 一人の成すを得ず 一人が死に物狂いで頑張っても、せいぜい一人が成し得る事ほどもできないだろう そんな意味だが 人を使うことは難しい そんなことを考えたところで、どうするわけでもないが 漢高祖劉邦が項羽を倒した後 何故、自分が天下を取れたか、家臣に聞いた そこで「主公は人をあなどりますが、功有れば惜しみなく褒美を与えます。項羽は人をいつくしみますが、人の功績を認めません。」と答えた 劉邦は「私がいくら頑張っても、兵法では張良にはかなわず、用兵では韓信にはかなわず、経理ではショウ何にはかなわない。これらの者を上手く使うことが出来たからだ。項羽はゲイ布一人使えなかった。」 なんていうか、劉邦自体が不思議な、いわゆるカリスマの持ち主なので、そんなものかなーって思ってしまうが、人間を見る目は有ったということかな。
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有職故実
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こんな解釈がどうなのか、自分にもわからないので、世に問うてみたい 某お茶のCM 有名な男女俳優を使い、京都の風情の中に茶のなごみを表現しているのか そんな中のワンシーン 寺の茶室から丸窓越しに秋の風景 1 女はそれを絵のようだと言い 2 住職はいつも同じではないと言う 3 男が「一期一会」と言うわけだが・・・ それぞれ悟りがあって良いから、これを間違いだとかは評価できない ただ、私の直感では 一瞬の姿を捉えたものが「絵画」であるならば この丸窓から見える景色は「絵」ではない 何故なら、今も動いて変化しているからだ 本当にその一瞬など捉えようも無い自然がそこにあり、それはこの世=宇宙の姿だ この変化する姿、定まりが無い景色を表現する言葉などない この世に不変の物など無いのだから、変化と言う言葉自体に意味が無い 変化とは不変があって初めて存在する あえて言えば、一瞬に対する対義語、時間の捉え方なのだろう この丸窓の景色を、私は「空一円相」と理解する 禅語であるが、解釈は様々あるだろう 丸のなかに見える自然の姿は、有無を超えた無の世界 有るとか無いとかいうものが存在しない無である 目に見えても、それは果たしてこの世に有るのか? 手に触れても、それは存在すると言えるのか? こういう疑問が、丸い窓から思い浮かんだ そして、その円の周りが見えていない私。
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なんかふと、渡哲也が父からもらった手紙のことを思い出した 手紙の内容は、詳しくは憶えていないが、要約すれば 「お前がしっかりしないなら、どうなろうと構わない。おれには恒彦がいるからそっちに期待する。」 というような内容だ これを見た当時、何という親かと、愕然としたが 今思えば、必死の言葉、決死の覚悟のような気がする この手紙を読んで、渡哲也は一流を目指したらしいが、 これを教育どうのこうのとは言いたくない 今現代に行われている、甘ちゃんを育てるだけの教育とは比較にならないからだ 心に響く言葉などいらない 腹の底に居ついて離れない気持ちこそ必要だ
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コーヒーをのもーかなーと インスタントの粉をカップに入れたとき カップの脇にちょっとこぼれてしまった それを流しに手で払ったとき、こんな話を思い出した 関白秀吉は、いまだなびかぬ北条を討つため、諸大名に陣振れを出したが、 伊達政宗はこれにすぐ応じなかった 秀吉が前年に出した「諸国総無事令」に反し、会津黒川城(会津若松城)の芦名と戦していたからだ。 戦後処理を終え、数ヶ月後に参陣、というより釈明のために秀吉のもとを訪れた 「早々の着陣、大儀である」とイヤミを言う秀吉におくさず 献上品の一つ、砂金を前に差し出した このさい、前に置いた三宝から砂金がこぼれ、畳に落ちてしまった 政宗は扇子を使って、落ちた差金を畳のヘリによけたのだ。 この行為が、秀吉の政宗に対する印象を決めたかどうかは定かでないが、北条攻めの遅参に対する処罰は無かった。 まあ、二人の英雄が相まみえた瞬間とでもいうのかなぁ。
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中国で地震があったようで、そうとうな被害が出ているもようです。 四川省といえば、三国志の舞台として有名ですが、四川料理とかも有名なわけです。 さて、地震研究家の話では、中国側よりもチベットのほうが被害甚大では?という話です。 この時期、中国は情報操作して、チベットの被害を隠蔽するのでしょう。 ますます国際非難が集中しそうです。
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