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龍造寺隆信が屋敷で酒を飲んでいると、暗い庭の片隅に誰かいるようだ。人をやって調べると、直茂公が鎧を着て槍を持って立っていた。何をしているかとたずねると、戦に備えて警護していると言った。見れば雪が体に降り積もっている。隆信公はいたく感動し、一緒に部屋で飲もうと言った。直茂公はあまりの寒さに、手がかじかんで槍を放せなかった。 《ん〜 なんていうのかな〜 こういうの まじめで真剣なんだろうね 戦に備えるのであれば、何か別のやりかたがあるとは思うが 結局寒くて動けなかったんじゃない 彼のストイックな一面かな》
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武士道
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浪人と言うと、お役に就かずぷらぷらとしているごろつきとか、悪事を働いて隠れている侍とか、やくざの用心棒とかを連想するが、本来そうではない。中にはチンピラみたいのもいたかもしれないが、浪人は武家社会の一業務とも言える。 基本的に彼らは、特定の役職と主君を持たない侍だが、所領を持ったり家臣がいたりして、まったく文無しのリストラ浪人ではない。 ところが江戸時代になると、武士は、それぞれの大名とかに就職したわけだが、侍そのものはあまり生産性が無く、鎖国もしていたので、外貨を稼ぐなんてことも無い。田畑は限られていて、藩の収入はだいたい決まっている。そのなかで侍を雇うのは限度がある。藩主は全ての家臣に禄や知行を与えることはできない。 必然的に、知行を与えて役につける侍と、無役で浪人する者に別れる。藩によってやり方はあろうが、肥前では浪人のローテーションを組んでいたのではないだろうか。役に就く番と浪人の番があり、何年かすると役に取り立てられるとか。明確なスケジュールではなく、藩主の腹づもりでそういう人事異動があったように思える。 勝茂公は、浪人に決まった家臣を夜屋敷の庭に呼び、「浪人させたので、おおっぴらには言えないが、しばらく辛抱すれば役にも就けるだろうから耐えてくれ。」と言葉をかけた。呼ばれた者は皆涙を流した。 《なんていうのかな〜 こういうの 人心掌握のパフォーマンスではなく、かといって哀れみとかなぐさめではないよなー 藩主としての家臣に対する接し方かな 上下の枠を越えているわけではないが、家臣は皆直臣であり旗本(将軍家じゃないけど)だといった気概かな》
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武術をやる者は基本的に酒を飲むべきではない。 酔っ払ってチャンバラはできない。 勝茂公は毎晩酒を飲んだ。その後酔いが醒めるまでお伽衆と話をしてから寝た。 寝る前には必ず褌を締め直し、長脇差を抜いて眉間に立て、それから寝た。 武士の覚悟というものだろうか。それにしても、葉隠の中にあっては幾分綺麗ごとにも思える。
まあ、殿様だからね。 |
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直茂公に比べると、勝茂公は話が分かり易い。 あるとき、罪人を引っ立てる役人が、刀の拵えに小柄・笄など付けていた。 直茂公は「罪人が逃げたとき、小柄・笄を付けていると抜き打ちできないから外すように」と言った。 これを聞いていた勝茂公は、小柄・笄をはずす事にした。 勝茂公は、常に斬り習うことが大事と考え、藩主にして罪人の斬首をしていた。 時には罪人10名ほど一列にして、次々首を刎ねたこともある。 腕前はいかほどかと言うと、あるとき、罪人の縄を解き、「ここから逃げられたら無罪にしてやる」といったことがある。逃げようとした罪人を抜き打ちに切り殺した。 チャンバラには自信があったのかもね。
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秀吉の死後、天下は誰が見ても徳川のものだった。あえて戦するなど考えられないわけだが、京都奉行職らは心安くはなかった。 そこにつけ、ある憶測が飛び交った。 天下を確実に取るため、家康が京都奉行職達(石田冶部ら)を皆殺しにするというものだ。そこで石田方は先手を打って家康を暗殺するという噂も出た。当の本人らの知らぬことだ。 何者かに付けられた石田三成は、家康の廓に逃げ込んだこともある。 こうした戦々恐々とした状態で、家康は暗殺の兵が来るという情報が届いたため、すぐに屋敷に逃げ帰った。 屋敷に着くと、すでに鉄砲隊が取り囲んでいたが、話を聞くと、家康の急を聞きつけた直茂公がいち早く屋敷を警護していたのだ。 これには家康もいたく感動した。 直茂公は「当家は徳川殿と命運を共にします。」と告げ、固い関係を築いたのだ。 このため、関ヶ原後も肥前を安堵され、外様でも新陰流を許されたのだ。
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