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鍋島家は外様大名である。関ヶ原で西軍に所属したからである。 しかしその後の論功行賞では、肥前を安堵され、特にペナルティーは無い。 これは直茂公と徳川家康の間にある関係があったからだ。 西軍参陣を決めたのは息子の勝茂公だった。石田冶部の懇願に負けてのことだ。 これを知った直茂公はすぐさま勝茂公を叱り、家康のもとに謝罪に行った。 家康は「かつて鍋島殿と約束した事を私が違えることはありません。」と言ってとがめなかった。 約束とは何か? 次回更新 まあ、直茂公に恩があったのよね。
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武士道
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安土桃山時代の部隊編成は、鉄砲のほか長槍、馬、徒、弓などに分けて構成するのが一般的だ。 これに対して肥前では、部隊が地域単位で編成されている。つまり一つの部隊がばらばらの武装で集まっているというのだ。その中でも一応鉄砲などはまとまっていただろうが、こうした戦法は少々珍しい。 九州征伐の折、参陣した肥前軍が槍、鉄砲などばらばらで見苦しく行進していたので、前田玄以(だったかな?)が「見苦しいので注意してきましょう」と秀吉に言った。
秀吉は「彼らは九州の槍突きである。あのようにしてこれまで戦を勝ち抜いてきたのだから、改めることなど無い。」と言ったそうだ。 現地調達の得意な秀吉らしいというか、したたかだね。 |
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龍造寺隆信の家臣であった直茂公は、いわゆる家老職であるが、江戸幕藩体制における仕置家老とは違う。 龍造寺家中でも明確に家老とされているのは、大木氏、百武氏などの「竜造寺四天王」といわれる家柄が主だ。かれらは連名で花押することにより、知行を仕置きできる。「花押衆」(かきばんしゅう)ともいった。 これに比べ、直茂公は自分一人の花押で知行を仕置きできた。他の家老よりも権限が強いということだ。 それは筑後の領国経営を任されていたことからも分かる。 筑後は肥前と肥後、日向などの中間地点にあたり、常に戦が絶えない土地だ。そのため在地の武士団(兵農未分離なので侍と百姓を兼務)は外からの領主に対してなびかない。 直茂公はこの地を穏やかに統治した。 ちなみに、秀吉から肥後を与えられた佐々成正は、地元の猛反発に合い、西国大名の加勢で反乱鎮圧したが、責任から切腹した。もっとも秀吉はこうなることを知っていたのでは? 直茂公無しに龍造寺家は成り立たなかったのだ。
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「佐賀人の通ったあとは草木もはえぬ」 という言葉を聞いたことがあるだろう。 佐賀の人が草木を引っこ抜いて歩いてるというわけではない。 葉隠に「親も討たれよ子も討たれよ、討たれれば乗り越え乗り越え斬り進め」とある。 戦の目的は勝利である。しかし武士の目的は討ち死にだ。 生きようと思えばたちどころに殺される。死ぬほう死ぬほうと進めばこそ、そこに勝利があったのだろう。 ただこれは、やみくもに死ねといっているのではない。主君を守るために犬死しろということなのだが、このへんの感覚が現代人ではいまいち理解できない。
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軍法とはいわゆる兵法・作戦みたいなものだ。 鍋島藩には軍法がない。上下が団結して切り崩す事が重要だとしている。あれこれ作戦を練って策に溺れるよりは、単純明快に兵士が理解できることの方がはるかに重要だ。 主君にだけは口伝の兵法があるらしい。 葉隠には、単に形式ばった上下関係ではなく、ガチンコで渡り合う侍同士の関係が書かれている。 朝鮮役で、直茂公が高台から陣中を視察していた時、母衣武者隊(背中に風呂敷状の布を付け、馬で走ると風を受けて膨らむ特殊部隊)が暑さで母衣を脱いでいた。直茂公は「陣中で物の具を解くとはなんたることだ。誰が始めた事か調べよ。」と怒って言った。調査役が母衣武者隊を取り調べると、皆なんと答えようか悩んだが、「全員が目と目をにらんで一度にパッと脱いだ。」と答えた。これを聞いた直茂公は「にくいやつめ。」と言ってとがめなかった。 なんというのかなー。こういうの。真っ先に突撃する特殊部隊が、これほど息が合って統制が取れていると言うんだから、直茂公もむやみに腹を切らせるわけにはいかなかったんだろうね。母衣武者隊に座布団一枚。もっとも直茂公は、誰がこう言い出したか大体知ってたみたいだけど。
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