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関ヶ原の合戦では、天下分け目というように、東西どちらが勝つか分からなかった。 もっとも、勝負など終わるまでわからないが。 確かなことは、この戦で勝ち残ったほうが生き残れるということだ。 そのため各家柄は親子兄弟で東西に分かれて戦った。どちらが倒れてもお家が残るように。 特に真田家は有名だ。兄貴が秀忠につき、親父と弟が石田治部についた。 あらかじめ作戦をねり、上田城侵攻を阻止した。 先鋒の兄を麓まで易々通し、秀忠本陣が出たところを叩く。退路を断って、足止めを食らわす。 おかげで秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。 一族で分かれたの下卒の者も同じだ。 忍者、いわゆる草とからっぱとかも東西に分かれたが、彼らのレベルになると、勝ち負けよりも穏便に事を済ませたいというのが第一だ。 ゆえに、探索行動中に相手方の草のものにあっても、チャンバラすることもなく、むしろ挨拶などかわして情報交換したくらいだ。 歴史の教科書にはこんな生き残りをかけた選択については書かれていない。
まあ、書いたところで教科書が厚くなるだけだが。 |
武士道
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上意による切腹時の介錯役は藩によって決まりがあったが、基本的に切腹者が指名できるものではない。 時には嫌いな奴が介錯することもある。 介錯を命ぜられた方も、迷惑な話だ。 首を打ち落とさず、前皮残して剣を引き抜く事は、非常に技術がいる。 出来て当たり前、仕損じれば恥となることから、誰もが嫌っただろう。 ある侍が切腹となった時、仲の悪い者が介錯役となった。 切腹する方も別の者を願ったが、決定は覆らない。 そこで介錯役が手紙を出した。「この度介錯役を仰せつかり、誠に名誉なことだ。この上は、見事に介錯するので安心して腹を切れ。」というのだ。 そのためか、この件は始末良く切腹が行われたという。 死ななければならないという極限状態と、訳も無く人を仕留めねばならない役務の接点は、互いの心しかないということだろうか。
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大木杢之助が嫁と喧嘩になった。嫁はもう米が無いと言うのだ。 大木は「米などどうにでもなる」と豪語し、刀を持って表へ出た。 おりしも、百姓が米俵を運んでいた。 大木は「わしが預かってやろう」と言うが、「これは年貢米で庄屋の所に運ぶ途中だ」とことわった。 大木は刀を抜き米を強奪したが、百姓が訴えでて、事件が発覚した。 大木の切腹が進言されたが、勝茂公は「大木は当家に功績がある。強盗を働くほど少ない禄を与えていたのは予の責任だから大木に罪無し。」として、大木を無罪にした。 強盗を働くということがまず面白い。誰かからもらうとか、借金するとかが先だろう。そんな奴だから戦働きも良かったのだろうか。
なんか理由つけて許してしまう殿様もどうだろうか。 |
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佐賀藩士が相撲取りに殴られる事件があった。 遺恨に思い、家に戻ってから組の者を同志に、復襲に行った。 まず、表から呼びかけ裏にも手を廻し、逃げる力士をなで斬りにし、例の相撲取りを討ち取った。 一味の藩士はそれぞれ組頭のあずかりとなったが切腹は必定である。 首謀者の藩士に親が面会に来て聞いた「とどめは刺したか?」「はい、刺しました」「だったらいい」 そんな会話を交わした。 後日切腹の日取りが決まり、組のものと寺で離反会(お別れ会)みたいなのをやった。 その席で例の藩士は、ふと箸を止めて考えた。芋を食おうとしたとき一口で食えるかどうかためらったというのだ。このような事では見事腹を切りおおせるか分からないと考えたのだ。 はたして切腹の始末は、実に見事な有様だったという。 これは明らかな私闘なので切腹は免れない。それを決意したことに敬意をはらうべきか。 一味の者も、覚悟して加担したわけだ。それだから「とどめは刺したか」と言う言葉に意味がある。 芋を食えるか食えないかで自らの勇気を試したわけではないだろうが、一挙手にいざという時の挙動が出るのだろうか。 いずれにしても、数人の命を懸けたこの事件は、武士道がかっこいい言葉だけではない事を生々しく表現している。
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勝茂公が江戸城にいるとき、隅櫓に巣くったカラスを鉄砲で撃てるかどうか大名たちが話していたが、勝茂公は「撃てる撃てないの話ではないだろう」とたしなめた。 江戸城に鉄砲を放てば謀反か戦になる。それを数人で話していたということになれば一揆を疑われることにもなる。 仮にどうなるかと空想はしても、言葉に出せないことがあり、その分別をつけなくてはならない。 思ったことを口に出して、それが仇となったケースは少なくない。
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