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釈迦も孔子も信玄も、当家に仕えたためしは無い 葉隠にこう書かれているわけだが、 釈迦=仏教 孔子=儒教 信玄=甲州流軍学 のこと。 これらいずれも鍋島家には無用ということだ 他の流儀や教えなど、武士道というひとつの思想でことたりる。 むしろ、武士には他の宗教を信じる余裕など無いのだろう 一心に主君を頼みに働くことが、侍の仕事である しかし ここまで言うとは大したものだ
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武士道
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直茂公が、最近の若い者は鉄砲の調練がなっていないから、稽古せよといったので、勝茂公が号令して鉄砲の練習が行われた。 次々に鉄砲を撃つ中、大木杢之助は空に向けて放った。 土壇で役人が、弾無し、と言うと「弾など有ろうはずも無い。しかし昔からおかしな癖で、敵の胴中は外したことがない。その証拠に大殿様が生きておじゃるわ。」と言った。 奉行は怒って勝茂公に切腹させるよう進言した。 しかし勝茂公は、大木の組頭を処罰せよと言った。 奉行は、無礼なのは大木ですから、大木に腹を切らせるべきです、と言ったが、勝茂公は、 「かの者は、当家の古参の家臣である。鉄砲調練は若者の為に催したのだ。そのような場に歴戦の者を連れ出すとは無礼な話だ。だから、彼を連れ出した組頭を処罰せよ。」 と言って、責任者を処罰した。 物事が行われる目的をよく理解すべきといったところだろうか。ただこの侍は、かなりの曲者で、葉隠の常連なのだが。
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とうとう白虎隊について書くことにした。 白虎隊と合気道は会津つながりでもある。西郷頼母が武田総角に大東流を伝え、それが翁先生に伝わった、とまあ、大雑把に言うとそうなる。もっとも、白虎隊が大東流など習えるはずもなかったが。 結論から言うと、教育は恐ろしい。少年達は、あんなふうな武士道ならぬ「武家社会」の教育を受けたがため、悲惨な状況に自ら陥ってしまった。 当時の侍は、戦がいかなるものか誰も知らない。戦国の世はとうの昔、武家の有職故実には通じても、戦の殺し合いについては素人だった。せいぜい先祖から伝え聞いた戦の有様程度で、そのほとんどは、江戸中期ぐらいの軍記物とか小説の類をうのみにしている。 勇ましく鑓一筋で斬り込んで行くのが兵法ではない。勘違いだ。 少年達は死に様をあれこれ考えた。犬死したくないと。有意義な死に方を求めた。その結果が自刃だが、はたして意味があったろうか。 これまで何度か言ってきたが、武士道とは死ぬことである。特別なやり方があるわけでもない。ただ死ぬことだ。犬死である。死に何かの意味を求め、死ぬことで後に何らかの結果を残そうとするなら、死そのものよりも、死んで果たそうとした目的がクローズアップされる。その結果、目的がなされたかどうかで、死んだことが正解かどうか評価される。あてがはずれれば、まさしく無駄死にだ。 結果も何も求めない「犬死」こそが死そのものをクローズアップさせる。 白虎隊の死に様はかっこ良かったか。アイドルグループが演じていたから、そこそこ様にはなっていたが、かっこいいかどうかなんて何の意味も無い。少年たちがなぜ無駄に死ななければならなかったか、その残酷さと悲惨さがテレビでは演出されていなかった。 想像もしなかった凄惨な殺し合いの末、よりどころを失った少年たちが混乱状態の中で自害しか選択肢を持たなかったことは、彼らが生きるための教育を受けなかったということだろう。 腹を切って責任をはたせるものではない。腹などいつでも切れる。死ぬ前に果たすべきことがあるだろう。 全体的に会津戦争を評価すると、官軍には、会津を同盟藩から切り離し、会津の中で殲滅するという目的が見えるが、会津藩には戦の目的が見えない。何をどう攻略するのか、作戦が見えなかった。
仮に官軍を退けてどうするのか、天皇はゆるしてくれるのか、はたまた将軍を返り咲かせるのか、我が天下を取るのか。 |
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白隠禅師とは静岡の禅僧である。西国大名は参勤交代のおり、この寺を訪れたと言う。 ある時、彦根藩の織田信成という侍が訪れた。白隠禅師に「地獄はどこにあるのか、極楽はどこにあるのか」と聞いた。白隠禅師はお茶を勧めるばかりで相手にしなかった。織田は「どうして答えてくれないのか」と聞くと白隠は「それではあなたは何者か」と聞き返した。「私は武士だ」と答えると、白隠は「地獄極楽のありかを聞くとは腰抜け武士だ」と言った。怒った織田は刀を抜き、白隠を追いかけた。白隠は振り返って「それが地獄だ。」と一喝した。われに返った織田は「おかげで心がスッキリしました。」というと、白隠は「それが極楽だ。」と言った。 俺は宗教をとりわけ信じているわけではないが、禅には生きている人間くささがある。もっとも、生きているから考えもするし悩みもする。
死んだ先の地獄極楽には興味が無い。死んでから見ればいいだけのことだ。 それよりも、今直面している人生を地獄にするか極楽にするかが最大の興味だろう。 |
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葉隠に「赤穂浪士の討ち入りは、長崎喧嘩を真似たものだ。しかし彼らは重大なミスを犯した。主君が仇を受けたらすぐさま討ち入らなかったこと。それと、吉良討ち入り後にすぐ腹を切らなかったことだ。」とある。 長崎喧嘩とは 長崎で佐賀藩士が起こした騒動 すれ違いざまに、杖の泥が跳ねたとかで喧嘩になり、散々殴られて帰ってくると、組の者を連れて仕返しに行ったと言う話し。 まあ、赤穂浪士の話は諸説あるが、俺の考えを言っておく。 まず彼らは、一族が後々生き残るため、用意周到にことを進め、赤穂の名前を世に残そうとしたこと。 ただこれは、歴史的価値としてはいいが、当時の残された家族らはそんなに威張れたことだったろうか。 第二に、討ち入りのその場で切腹しなかった。仕官の口でも待っていたからだろうか。優れた侍をアピールしたが、どこの藩も相手にしなかったということかな。
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