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上煤ヶ谷 坂尻 山ノ神社の庚申塔
寛政元年3月 「庚申供養」 8名。 坂尻集落は煤ヶ谷村から宮ヶ瀬村への尾根伝い道につながる入口。 常夜灯の役目があったかもしれません。 対になっている灯籠は宝暦6年の「山神講中間六人」銘でした。 この尾根伝い道は途中で愛川町の半原方面へも分岐しており、そちらは半原街道と呼ばれることも。 享保19年6月16日 「奉造立庚申供養」 三猿部剥落。 紀年銘不明 三猿部のみ残る。 資料の以下は現存せず。 地蔵 宝暦9年9月13日 三猿。 上煤ヶ谷 法論堂の庚申塔 享保10年9月 左側面「ア 奉修庚申供養成就所」當村施主 同行八人敬白 右側面「如等取行 是菩薩道 漸々修字 悉當成仏」全□ 三猿。 隣の旧津久井郡にいくつか同タイプがあります。年代は津久井郡の方が延宝〜元禄で少し早い。 宮ケ瀬村への尾根伝い道を登って人家が消えた辺りの三叉路。直進すると宮ケ瀬、右へ下る(廃道)と法論堂集落~半原峠。現在は川沿いに県道が走っていますが、明治の地図だと川沿いには道が描かれておらず、あったとしてもかなり細かったと思われます。 愛川町の半原には江戸後期から生糸産業が興り、繭玉の供給地だった煤ヶ谷から荷駄馬を通す必要がありました。尾根伝いの道は天候に左右されにくく幅員も確保できるので、主要な道になったのでしょう。 文化4年4月 村 講中供養。 台石に三猿。 台石は陽石の台石にされています。 道路工事などでの移動ではない雰囲気の場所なので、倒れてバラバラになったことがあるのでしょう。 法論堂に記録されているのは以下の1基のみ。 角柱 合掌青面金剛 享保9年10月 「奉修庚申供養成就所」 當村施主同行八人 敬白 台石に三猿。 どうも2つの庚申塔の内容が混ざって記録されている感じです。山ノ神社に記録されている宝暦9年の地蔵、三猿塔も法論堂の享保10年塔を記録ミスしているのでは、という気がしています。 記録の場所は合っているのに、内容は違うケースが少なくありませんでした。 また、資料漏れもいくつかあり、現存総数が40を超えていても不思議はありません。 清川村では2018年に新しく村史を刊行するそうで、そちらに最新の石仏情報も掲載されるようです。 |
清川村
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