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板橋村の続き 秋葉山量覚院の門前と境内の秋葉山神社には6基が確認できています。 神仏分離後は別の扱いですが、江戸時代は秋葉社と別当の関係でした。 秋葉社は江戸時代の小田原藩主大久保氏が信仰していたため、城主となった慶長元年に遠州の秋葉山三尺坊権現を勧請したのが始まり。 量覚院も同時に別当になったようです。 現在は修験宗ですが江戸時代は本山派でした。 余談ながら勧請当時の遠州の秋葉山は神官、曹洞宗、当山派の三体制だったようです。 村の鎮守は山角町の居神神社でしたが、藩主が勧請した神社ですし信徒・参拝者は多かったでしょう。門前や境内、神社にある庚申塔は板橋村のものではないかもしれませんが、施主の所在地がどこかを示す銘文は見つけられていません。 門前 延宝8年9月 「奉造立石塔」 敬白10名 三面に猿。 施主名は読みやすい状態。 この姓から調べると、施主は板橋村ではなさそうですが、それも現在のことで延宝当時にはどうだったのかは判るはずもありません。 宝永3年9月5日(庚申日) 「ア 奉造立庚申石塔」 敬白 7名。 施主名はほどんど読み取れませんが、延宝8年塔と同じ姓があるようにも見えます。 宝暦4年10月15日(庚申日) 「奉供養庚申塔」 12名。 こちらの施主名もだいぶ風化していますが、板橋村の名主と同じ姓が混ざっています。 境内 「庚申塔」 天保12年4月12日 「庚申塔」 あきば道 12名。 「ば」は「者」の草書体に濁点。 こちらの施主は読めますが、同じ読みで違う漢字も含めれば板橋にある姓がいくつか混ざっています。 秋葉社への道標になっているので、境内に持ち込まれたのは明らかです。 量覚院は東海道から引っ込んだ場所あるので、庚申塔は東海道の辻にあったのかもしれません。 「ア 奉供養庚申石塔」 元禄8年11月26日(甲申日) 敬白 9名。 こちらは門前の宝暦4年塔と同じ姓が見受けられます。 神社手前 板碑だったと思われますが銘は読み取れませんでした。 この他にも庚申塔があったという記録はありますが見つけられていません。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39073907.html |
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