庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

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桑原村の北隣ですが旧足柄上郡。酒匂川沿いの集落。
イメージ 1後北条氏の時代、領主は北条幻庵でした。
ここも享保16年の酒匂川洪水で亡所になった村です。
中世も酒匂川は幾度となく荒れていたはずで、その度に被害を受けていては集落が維持できません。上流から出戸、西大井、鬼柳、桑原と続く酒匂川東岸の村は、直線的なラインで繋がっているので、そこが自然堤防のキワだったのではないかと思うのですが,現在は微高地になっている感じがしません。

所で洪水による流亡がどの程度の事態だったのか、鬼柳村ではなく他村の例になりますが、参考に見てみます。
宝永噴火の影響で川底が上がり洪水が増え、堤(堤防)が壊れた被害は足柄平野の各所で起きる>家や田畑が押し流され、泥に埋まってしまうと、村に住む事ができなくなる>他村の土地を借りて住み、田畑は旧地を再開発する。だいたいこの経緯をたどります。
速ければ2、3年で元に戻れますが、被害が大きかった村では寺も他村へ移り、明確な年数は不明ですが100年以上も戻れなかった村もあるようです。数年で戻れた村も、宿場に対する助郷(労働提供)がかなり長い期間免除されていますので、実質はともかく対外的に庚申塔を作ることはしにくかったかもしれません。

鬼柳村は風土記稿の時代47戸。朱印高369石。小名は永田と本田が記載されているものの、字としては残っていません。
鎮守は白山社。寺は曹洞宗の清源寺。阿弥陀堂が1つありました。
阿弥陀堂は清源寺持ちですが、場所は離れていて現在の鬼柳公民館になります。
現在、地神講は続いているが庚申講は聞いたこともないと数人の方から言われました。
なお、道祖神は集落内に4基が点在しています。

鬼柳公民館
イメージ 2石祠
紀年銘不明
中尊に「キリーク」銘の角石(何かの残欠)
中央遥拝の二猿。


地元ではこれが何か不明だそうです。
石祠内部のキリーク角石は阿弥陀堂の名残かもしれません。阿弥陀堂は地震で倒壊してしまい、公民館として建て直されたそうです。
風土記稿に掲載の宮は白山社のみ。山王社が記録されていれば、もうこれで間違いない所ですが…。
足柄平野に多い、溶岩のような穴の空いた風化をする石です。丁場の特定はできないそうですが、いわゆる伊豆石ではなく足柄山地から採れるとか。
この石祠と並ぶ同じように風化した駒形塔も同系の石材で、かろうじて万治2年の紀年銘は読み取れます。参考にした資料の1つに上記駒形塔も庚申塔としているものもありますが、「○(円寂)」の下に文字の痕跡が残る程度で、何のための石塔か不明なので断定はできないものの、取材結果も含めて庚申塔とは認め難い内容です。
https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38794530.html
鎌倉時代からあった集落で、吾妻鑑に鶴岡八幡の社領に寄付した記録があるそうです。
イメージ 1
風土記稿の時代50戸。朱印高619石。
鎮守は三島社。他に牛頭天王社(山王相殿)と神明社、稲荷社2つ。
寺は浄土宗の浄蓮寺。堂宇として薬師堂と十王堂。
小名は上、中、下。
ここも享保16年の洪水で亡所になった村の1つです。

山王が相殿だった牛頭天王社、神明社は明治以降どうなったのか不明。
稲荷は該当と思われる神社が現存。
薬師堂は所在地不明。十王堂は石原地蔵として残っています。

浄蓮寺は鎌倉時代末期、浄土宗鎮西派白旗流の高僧良誉定恵(定慧)が晩年に創建した寺で、多くの弟子を排出したことから桑原道場と呼ばれたようです。
「當時は八町の寺域」と風土記稿にありますので、村のほとんどが寺領だったのでしょう。また、子院(末寺?)も19院あり、足柄上郡・下郡に広がっていたようです。その後衰退したようですが、江戸時代になり立誉が中興(浄蓮寺2世。元和7年卒)。
余談ですが定恵は誉号を最初に使った僧侶だそうです。

庚申塔はこの浄蓮寺にしか残っていないようです。
集落内には6ヶ所に道祖神が残っています。


浄蓮寺
イメージ 2笠付三猿塔
寛文3年12月26日(庚申日)

正面「帰命無量壽覺」
左面
「天下和順日月清明風雨
 以時灾属不起國霊民□」
右面
「我建超世願心至無上道斯願不満足誓不成正覚
 我於無量劫不為大施主普□諸□若誓不成正覚
 我至成仏道□□超十方究意□所聞誓不成正覚
 □欲深正念浄恵修梵行志来上道為諸天人師
 神力演大光普照無際道消除三垢冥廣済衆厄難」
裏面
「右志意趣者為庚申供養今石塔造立奉二世安楽
 祈者也願者依此功徳現子孫繁昌當証法性常子宝
 黨□□也属指堂□□也若□者一寛之輩信□志
 嘗己□□味同仰利住梵局?乃至□□平等利益」
 信心施主相州足柄下郡桑原村中 敬白
三面に猿、裏面に二鶏。


正面に無量寿とありますので、無量寿経からの引用だと判ります。左面はその中の祝聖文と呼ばれる偈。右面も同じく四誓偈と呼ばれているもの。どちらも全文では無いようです。四誓偈は宗派によって呼び方が違うのか、同じ偈を重誓偈もしくは三誓偈としている所もあります。 右面最後の行だけで四誓偈としているサイトもありますが、この辺りはよく判りません(笑)。
この最後の行だけが刻まれた庚申塔もありますが、消除三垢冥は、貪欲(とんよくorどんよく=むさぼり求める欲)、瞋恚(しんいorしんに=怒り)、愚痴(愚癡ぐち=理に暗く無知)という3つの煩悩による冥(くら)さを消すという意味で、三尸の害を除ける庚申信仰と結びつきやすいからかもしれません(妄想です)。
裏面は講中が庚申塔を造立した趣意。


イメージ 3駒形剣人青面金剛
昭和8年3月
當寺廿二世廣譽代
奉納 心願成就 1名
邪鬼。

※銘文は裏面。

1名は22世の妻と同姓同名なので、住職夫婦が建立したことになるようです。
ここまでやっていたお寺さんですが、現在は庚申に関する事は何もやっていないとのこと。庚申信仰に限らないでしょうけれども、第二次大戦はダメージが大きかったと判ります。

桑原は、現在は終っているそうですが、戦時中まで庚申講が続いており「庚申連名ボ」という帳面が小田原市郷土資料館に展示されています。昭和18年の帳面で、2ヶ月置きに講を開いていたことがうかがえます。講員名に続いて「当り」と書いてあるので無尽かなにかをやっていたのかもしれません。

https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38783386.html

鴨宮649付近の道祖神場
頭部落ちの合掌猿像と思われます。
イメージ 1














享保十七天
上大井村


小田原市内に丸彫り猿像は酒匂と浜町宗福寺にもあります。
どちらも単体。山王社に奉納されていたとすると対だったのではないかと思いますが、なぜか単体でしか残っていません。

これも単体で、鴨宮村に2つあった山王社のどちらかに奉納されていたのかと思いきや、上大井村の銘がありました。
上大井村は現在の大井町上大井。実は上大井に庚申塔は見つけられていません。

イメージ 3上大井村には山王社があり、村の鎮守三島社(現・三島神社)の別当をしていた円泉坊(真言宗)の持ちでした。山王社は明治6年に三島神社へ合祀されており、跡地は三島神社近く。上大井と下大井の境付近の三角地あたりだったようですが、往時にどういう形だったのかは判らなくなっているそうです。現在は戻されたようで、風祭石のような石祠内に山王と書かれた木札があるのみ。以前は祭祀をしていたそうですが、それが庚申講だったのかどうかは地元の方も覚えていないそうです。猿像が奉納物だった可能性はあります。
でも、それが鴨居にある理由は見当がつきません。

この鴨居の道祖神場には名不詳の石祠が祠内に納められています。山王らしさはありませんが、仮にこれが鴨居村にあった山王社の1つだったとしても、この程度の規模の神社になぜ上大井村から奉納が?というわけで色々謎です。
https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38773868.html
イメージ 2

成田で「なるだ」。鎌倉時代にはあった村だそうです。
イメージ 1
風土記稿の時代98戸。朱印高1124石。
空撮写真の成願寺入口交差点から東成田交差点とつながるR718沿いが成田村の中心。
明治29年地図だと空撮写真の「成田西交差点」の西側に成田西という集落があり、別村のような配置になっています。
風土記稿の小名は下成田、大源寺、早川寺、南庭、中庭、北庭の6つ。
大源寺と早川寺(大昔に寺があった)はまとめて1つですが、南庭を除く小名4つに鎮守がありました。これらは現在、三島神社に合祀されているのかもしれません。
したがって、現在の三島神社にある庚申塔がどこの小名のものかは不明です。
小名大源寺と早川寺の鎮守だった三島社は別当が当山派修験の多寳寺でした。
他は下成田が諏訪社、中庭が市ノ宮社、北庭が第六天社。後者2社の別当も多寳寺。
寺は多寳寺と成願寺(曹洞宗)、米穀寺(時宗)。米穀寺は風土記稿の時点で無住。堂守に磐打(鉦を叩く念仏行者)がいただけでした。成願寺がある地域は小字「諏訪脇」なので、その一帯が下成田なのでしょう。

全くの余談ですが道祖神は6基残っています。

イメージ 3源頼朝の馬「猪駒」を埋めたとされる猪駒塚が風土記稿で紹介されていますが、それも豊川支所前交差点の南西部水田の中に残っていて良い風景(小字猪ノ駒)。
江戸時代、耕していたらクツワが出たので祠に納めて祀ったようですが、現在の石祠内には木札が納められているだけでした。






三島神社
イメージ 2自然石文字塔
紀年銘不明(資料によっては文化十二亥年)
「庚申塔」
2名?


石質の問題と、訪問するたびに日光の具合が悪く、紀年銘らしきものを見つけられていません。
庚申塔以外の文字は側面にある人名らしき2行のみではないかと思います。

成田村は享保19年の洪水で村毎「亡所」になった6村の1つ。残っているとすれば、他村同様、それ以前の庚申塔だろうと思っていましたが、文化12年だとすると、その点でイレギュラーなことになります。
ただ、表現は悪いですが文字の刻みが下手ですし、後年の再築の可能性はあります。それにしては人数が少ないですが。
同所には石祠残欠もしくは笠付残欠と、自然石の「建埴安神(=地神)」もあります。


https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38770194.html
村の半分が坂東観音霊場の五番札所、飯泉観音の寺町だった飯泉村。
イメージ 1
風土記稿の時代は81軒。寺領が含まれているのかどうかは未調査ですが、朱印高931石。割付高はそれより多い時代もありましたが、宝永噴火以前の石高を440石とする資料もあります。
寺領以外の集落は寺の北側にまとまっていたようです。
宝永噴火後の享保19年に酒匂川の洪水があり、飯泉村を含む6村が「亡所」になり助郷ができなくなったため、それまで免除されていた他村に助郷が命じられるようになったことが複数の村の古文書に書かれています。
空撮写真でも判りますが、酒匂川の脇にありますので被害は相当大きかったでしょう。
他の村の記録では家が泥に埋まる程で、遠く離れた村へ集団避難したことが書かれています。

見つけられている庚申塔は飯泉観音の3基。
イメージ 2
こちらについては既に書いていますので省略。
庚申銘のある梵鐘もあります(同上)。

村が亡所になるほどの被害があったので、これらも一度は川の泥に埋まっていたことがあるのでしょう。ただ、その割にという言い方も変ですが、飯泉観音の北側(集落)の旧道沿いには道祖神が10基前後も残っています。
余談ですが、酒匂村の庚申塔群がある場所が山王社跡だとすると、南蔵寺の持ちだったことになりますが、飯泉観音(勝福寺)は南蔵寺の本寺でした。
飯泉村の鎮守八幡神社は末社に山王があったようで、現在境内に残っている3基は山王との関係があるのかもしれません。飯泉は、現在も残っているのかは不明ですが、近年まで庚申講が続いていたようです。

これも以前に書いていますが、もう1基、延宝3年塔を記録している個人資料もあり、数回再訪して探していますが見つけられていません。
飯泉観音(勝福寺)には、とにかく石造物が多いので、見逃している可能性は充分にあります。
https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38765106.html
イメージ 3イメージ 4

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