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市役所の東のワンブロックに池上の地名は残っています。
しかしながら、村だった時代は水田地帯だったようです。集落は現在の扇町1丁目界隈。風土記稿の時代30戸。割付高163石の小さな集落でした。 明治地図だと井細田村と1つのように見えますが、間に山王川(久野川)が流れていますので、川の西岸が池上村の集落だったのでしょう。 鎮守は稲荷社。 寺は眼蔵寺(曹洞宗)。 さらに、塚が3つあり、一ノ森〜三ノ森のうち、三ノ森の塚は「雑木の中に山王塔あり」と記されています。 池上99 正徳4年12月 正面 「卍 庚申供養塔」 右側面「長文」 左側面 紀年銘 石工山王原 助□ 基礎(反花座) 17名 敷茄子の三面に猿。 右側面の銘文については、以前に書いていますので省略します(以前とは異なる部分も出ていますが、書くのが面倒なので)。 基礎の17名はもっと詳細に調べられれば寺の名前が出ているような気もしていますが、草むしりをして少し掘らないと読み取れない状態です。そこまでやるなら許可が必要ですが、誰に許可を得れば良いのか…。 以前にも書きましたが銘文の作者は僧侶だろうと思います。眼蔵寺の名前か住僧の名前が入っているかもしれません。 ところで気になるのは設置場所です。 古道ではあるようですが、小田急線踏切の脇。交通の邪魔になりかねない様子で、おそらく江戸時代から変わっていません。しかし集落からはだいぶ離れていて、村の境目と言っても良い場所のようです。 風土記稿の三ノ森の山王塔が該当しているのではと妄想していますが、証拠は何もありません。 1960年代の空撮写真でも、もう宅地化されています。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39028383.html |
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谷津村の地名は残っていますが、江戸時代の村域はもっと広いものでした。 具体的にどのあたりまでが谷津村だったのかは調べ切れていません。 大雑把には小田原駅西側です。 現在の城山1丁目に谷津公民館がありますが、寺町の様相をなしている城山1~2丁目と3丁目の一部は谷津村でした。栄町や扇町の一部も入っていたようです。 風土記稿の時代18戸。割付高125石。 時代によっては21戸も見られますが、農村部としてはごく小規模で、これが現在の谷津地域になるのかもしれません。 谷津村は戦国時代の小田原城の惣構の中に入っていました。江戸時代になってからは寺と武家の屋敷が大半を占めていたようです。 村の鎮守は大稲荷社。谷津村および竹花町、須藤町、大工町の鎮守でもありました。 もう1つ村の氏神と記されている摩利支天社もありました。 風土記稿の記述を信じると、大稲荷社の創建は後北条氏時代ですが、江戸時代の藩主大久保氏が崇敬したのが貞享年間。現在地へは安永3年の遷座。摩利支天社は愛宕社の奧院とされており、愛宕社は天平宝字年間(760前後)、摩利支天社に安置されている秘仏は役小角作(7C後期)。つまり愛宕社が本来の鎮守で、大稲荷は江戸時代になってからの鎮守になるのでしょう。愛宕社は西口の目の前にある丘の上にありました。 余談ですが、大稲荷のスタートは修験堂。摩利支天社も役小角の名が出て来るので修験が関係していたのでしょう。 寺は16。曹洞宗8、浄土宗3、臨済宗2、黄檗宗1、真言宗1、浄土真宗1。 大稲荷神社 小田原の稲荷信仰の中心地のようなものなので、境内には大量の稲荷祠があります。他に、愛宕社、須藤町にあった錦織神社が遷座されています。 信仰範囲が広く、著名な神社でもあるので、境内にある庚申塔がどこの村のものかはっきりしません。とりあえず谷津村の庚申塔としておきます。 宝暦5年12月 7名 三猿。 境内の鬼門押さえの位置になるようです。大稲荷社は安永3年に現在地へ遷座していますが、当時からあったのなら祠が付いているような気もします。 神社様によると、戦後には既にあったらしく、昭和の頃までは大稲荷神社の例祭になると、大勢の人が庚申塔にも参拝していたそうです。 特に旧竹花町の人が多かったそうで、7名に見られる苗字も竹花町域にいるようですが、商店街のような所なので古い時代から同じ住民なのかは不明。 これがもし竹花町の庚申塔だとすると、城下町で甲州道沿いなので、設置場所は限られます。 一番可能性が高いのは2つあった寺の境内社あたりですが、寺が残っていれば移す必要はありません。1つは現存しており、1つは廃寺ですがどちらも日蓮宗なので、廃寺になった寺のものは引き取っているはずです。 結局、よくわかりません。 参考 昭和14年4月 「奉斎 猿田彦大神 神秘 威力 神通 妙法」 1名。 大稲荷神社境内には道祖神塔もありますので、これも塞神の系統でしょう。 日蓮宗系の猿田彦ですが、谷津村に日蓮宗寺院はありませんでした。大稲荷社を鎮守としていた須藤町に寺はなく、竹花町には2つありました。 もっとも、村とちがって城下町の場合、寺と住民の関係はさほど濃くはないのであまり参考にはなりませんが。 おまけ。 大稲荷神社には錦織神社も合祀されています。 テニスの錦織選手の活躍で参拝者が増えているようですが、もともとは須藤町にあり、理由は不明ですが修験者が火定したのを祀ったという、壮絶な歴史を持ちます。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39028306.html |
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山王原村も村名が消えています。現在の東町1丁目と浜町4丁目あたり。
明治期と現在で流れがだいぶ違っていますが、地理院図で直線、明治地図でうねうね曲がりくねっているのが山王川(上流は久野川)です。 村の中心は山王川東岸でした。 戦国時代の小田原城は惣構という巨大な城域を持ち、堀や土塁の内側に城下町を取り込んでいました。 城の出入り口はいくつかありましたが、東海道の出入り口が山王口で、山王原村は山王口を出た所に位置していました。ここには山王曲輪があったそうです。 もっとも、戦国時代は山王原村ではなく、原方村だったようで、山王社があるので山王原村の名になったが、それは正保の頃からと風土記稿は書いています。 原方村の頃はほぼ原野のようなもので、江戸時代になって開墾がなされたようです。 余談になりますが、山王川の脇にある神社記号が山王社ですが、その北に西からの川があります。これは小田原城の堀から水を流す水路の名残だそうです。 風土記稿の時代、101戸。割付高は227石。 酒匂川の渡し役を勤めていましたが、半農半漁の村でした。 風土記稿掲載の宮は3。 1つは村の鎮守の山王社で、庚申、阿弥陀、釈迦、薬師を本社に安置していました。古くは海沿いの松林の中にあったが、巨波(津波か)のため慶長18年に遷座。 別当は宗福寺。 風土記稿には末社として太神宮龍神稲荷合社、疱瘡神、弁財天、秋葉があると書かれていますが、他資料だと、合社はそれぞれ単独で、山王権現と庚申は別に書かれており、庚申社が別途あったようになっています。 寺院は8。浄土宗2、日蓮宗2、修験2、曹洞宗1、臨済宗1。 宗福寺(曹洞宗) 山王社の別当をしていたからか、宗福寺は足柄平野どころか相模国南部の庚申信仰に影響を与えていたことが遺物から判明しています。 宗福寺発行の庚申掛軸を山北町の講中が使用していました。青面金剛主尊で宗福寺の銘が入っている版画です。また、現在確認できる宗福寺の掛軸には、山北町で使用されていた掛軸とは異なるバージョン(8神将入)ですが、それとよく似たものを三浦市の庚申講中が使用しています。これについては以前書きました。 また、小田原城内で展示されていた(現在の展示は未確認)山王の掛仏(「奉納山王権現」「相州東郡獺郷 西福寺」阿弥陀座像と中央遥拝の二猿、紀年銘不明)は宗福寺の所有ですが、施主は藤沢市獺郷にあった真言宗の西福寺(廃寺)となっています。この由来は宗福寺でも判らなくなっているとのこと。 残念ながら、現在は庚申に関することは何も行われておらず、記録も失われているようです。安政5年に火災、明治35年の小田原大海嘯(高潮)で被害があったそうです。 こういうお寺様なので、境内に4基ある庚申塔には他村のものが2基あります。 特定できないものは山王原村に入れておきます。 寛文7年10月 「イ 尽出輪廻生浄土」 願主山王原村 功徳主 敬白 7名 蓮葉蓮華、三猿。 種字イは、薬研彫で点を3つ付けてあるので「イ」としました。 偈は曹洞宗の諸行法の最後に唱える回向文の最後の行に出て来るもの。輪廻を出て浄土に生まれたい、という所でしょうか。 宗教色の強さを感じますが、三猿は板碑の縁にちょこんと腰掛け、蓮葉蓮華に足を乗せている愛敬のある姿。極楽にいるとか、仏教的な意味はあるのでしょうが、それなら三不猿である必要はなかったのでは、などと思ってしまいます。 紀年銘不明 邪鬼(三猿逸失か)。 現在の台石は後補で、一具の台石に三猿があったのでは、と想像しています。紀年銘などもそこにあったのかもしれません。 碑面を梨地に仕立てていて、髪の線も綺麗に残っていて、江戸後期の印象です。小田原っぽくない感じもします。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39023236.html |
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網一色村も村名が消えています。現在の東町4、5丁目界隈が村域でした。
東海道で酒匂川の西岸にあった村であり、範囲はさほど広くなかったようです。 風土記稿の時代は53戸。割付高は199石のはずですが、史料によってバラバラです。 地理院図で寺が4つ固まっている場所は、隣の山王原村との境界。地図上で東から2番目の東町3-12-28にある呑海寺は網一色村ですが、3番目の東町3-9-12にある弘経寺は山王原村です。 風土記稿によれば、後北条氏の時代は「商売軒を連ね頗繁栄たりしなり」だったようです。 江戸時代の酒匂川は橋が架かっていなかったので、その川越役を勤める村で、川会所もありました。当然、水流が激しければ足止めになりますので、宿も多かったでしょう。川会所は西隣の山王原村と交替で勤めていたようです。 また、網一色村は地引網を発明した村だとも書いてあります。そのため、古くは一色村だったが、網の名が付け足されたそうです。漁師村かと思いきや、嘉永年間だと船が無いと記録されています。 村の鎮守は御霊八幡宮。外に新田義貞の首を埋めたという新田社がありました。 どちらも現存しており、御霊八幡は網一色八幡神社になっています。 寺は臨済宗の呑海寺と日蓮宗の常剱寺。 網一色八幡神社 延宝2年7月 「奉供養庚申□之願主□□功徳□□□也 施主 敬白」 右側面 「□□□□□□ 福聚海無量」 左側面 「□□□□□□ □頭□□者念佛之所」 両側面に蓮葉蓮華 正面に1猿。 銘文をちゃんと読めていません。 福聚海無量だけはっきり読めたため、具一切功徳〜から始まる普門品偈の定型文が入っているのだろうと、たかをくくっていました。しかし、改めて見直すと、どうも違うようです。 再訪する機会があったら見直します。 |
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町田村は村名が消えています。
現在の寿町3丁目界隈が町田村域。久野村から流れ、相模湾に注ぐ山王川の東岸に開けていた村でした。 村の中央部の辻を南北(斜めですが)に通っているの道(井細田道)は、東海道から甲州道へショートカットできるルートでした。 ちょっと判りにくいですが、明治地図で「寺町(荻窪村)」が甲州道沿いで、「町」の辺りから東へ蛇行しながら流れているのが現在の山王川。井細田道沿いに流れているのは、今は暗渠になっているようで不詳ですが、酒匂川からの用水路のようです。 割付高は403石。風土記稿の時代、27戸。 村の史料をみつけていませんが、ほとんどが水田だったでしょう。 宮は鎮守の山神社のみ。 寺は曹洞宗の願成寺。 修験が2つ、宝寿院と角養院があり、どちらも当山派。 山神社の別当は修験の宝寿院だったので、同所にあったかもしれません。山神社の位置が往古と同じだとすれば、明治地図だと井細田道沿いの北西で集落が終る辺りです。 山神社 寿町3-4町田公民館 寛文8年10月6日 「廣信供養」 相州足柄下郡町田村 7名 不言、不聞の二猿。 山神社は昭和23年に稲荷と合祀する形で再建されましたが、旧位置のままなのかどうかは不明。 狭い境内に、力石と双体道祖神がありますが、庚申塔も含めて往古のままだとすれば、当山派修験の影響下にあったことになります。 そもそも平野部に山神社があるのが不思議ですが、風土記稿の願成寺の犒には、古くは久野村だったような記述があります。 久野村から出た人が開墾して町田村になったのかもしれません。 施主は苗字がついている感じですが、正確に判読できず。 町田村は宅地化が進んでいて、公民館にいる方々に幾度か質問していますが、利用者に古い住民はいらっしゃらないそうです。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39012164.html |




