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道端にぽつんと建っている石仏。 地蔵とか道祖神が有名だろうか。 実は種類が沢山あって、個々をちゃんと見ていくと、実に様々な情報が読み取れる。 このブログで、その面白さを伝えられればと思う。 例えばこの庚申塔。 塔の上部は「かのえさる」と表面に彫ってあり、 側面に造塔した年月日が彫ってある。 萬延元庚申歳 十二月吉日 写真で見えている部分は以上だが、反対側の側面や基部にはもっと他の情報が彫られている。 それに触れる前に、ここまでで判る情報を読み取ってみよう。 そもそも、なぜこれが庚申塔とわかるかというと、「かのえさる」と彫ってあるから。 「かのえさる」を漢字変換すると「庚申」。 これは干支で、十干、十二支の組み合わせが60あり、その1つということ。 萬延元年は1860年で、干支が庚申だった。 そして基部の三猿。 庚申塔には三猿が高い確率で登場するので、これも庚申塔だと判る材料。 一般的な三猿は不見、不言、不聞の格好をしているが、この庚申塔が珍しいのは、 着衣の猿が遊んでいる点だ。 調査報告書では「けん」という遊びとなっているが、これがどういう遊びか不明。 中央の猿が両手を耳の脇に立てているので狐の真似で、鳴き声から「けん」なのかと想像できるが詳細は判らない。 いずれにしても童遊びの1つだろう。 庚申塔の面白い所はこういう部分で、幕末の子供の遊びがこういう形で残されていることになる。 実は、この庚申塔の近隣には同種の踊る三猿が彫られたものが他にもあるが、それぞれ遊びの内容が異なっている。 三番叟という踊り、能狂言の踊りとされている。 庚申塔は時代が新しくなるにつれて文字塔が多くなる傾向があるが、 一方で定型パターンを無視した自由な彫刻も登場するようになっている。これは後者の一例。 さて、写真には写っていないが、この庚申塔の左側面には「相州愛甲郡 山際村下組」とあり、 基部の左右には発起人の名前が21名と、「講外」として1名が彫られている。 21名は同じ苗字を「同○○」としている場合と、同じ苗字を別にフルネームで出している場合があることから、 「同」は同じ家の父と子という推理ができ、それが正しければ家の数は17だったことになる。 また、講外の1名は「甘利」という姓で、愛甲郡で甘利となると、甲斐武田氏の流れでこの地に定着した 甘利氏の一族がいるため、武士の可能性も高い。 ここで「山際村下組」に着目。江戸時代、大きな村は上中下の組に分けて管轄されることがあったが、 地域によっては上組が幕領、下組が旗本領とされていたこともあった。 愛甲郡がどのパターンだったのかは判らない(調べても)が、もしかしたら甘利氏は山際村下組を領地にしており、 武士でありながら村の庚申講に顔を出していたのかもしれない。 この想像をさらに膨らませると、村の集まりに顔を出していた、まめな支配者像が浮かぶ。 ちなみに現代の厚木にはこの地を地盤にしている同姓の政治家もいる。 庚申塔を建てるのは庚申講だが、そのメンバーは同じ村落の家だったり、近隣の村の同じ宗派の家だったりと 地域で違いがあるが、この庚申塔は同じ村落のものと思われる。土地柄、100%農家だろう。 また、21名の名前は全て男性なので、男講だったことが判る。 講には色々あるが、男女混合の講はあまりない。山際村下組は男女別が基本だと想像できるので、 よく探せば女講が造塔した月待ち塔などが残っているかもしれない。 また、凝った庚申塔を建立するにはそれなりに金がかかるため、そこそこ裕福な組でもあったことが想像できる。 上にも書いたが、近隣に同種の庚申塔があることから、他の村や組と洒落た造塔を競い合っていた一面も伺える。 おそらく祭りなどでも同様の競い合いがあったのだろう。 1つの庚申塔から読み取れる(想像が大半w)情報は、このように実に多彩。
藩や村によってはゼロのこともあるが、沖縄を除く日本全国にはたいてい庚申塔が作られている。 庚申塔に限った話ではないが、そこに残されている情報はいわばタイムカプセル。 丁寧に読み取り、郷土史とからめながら調べて行くと、リアルな江戸時代が浮かび出て来る。 |
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