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宮ケ瀬村 北・久保之坂・馬場・川前(上村・和田)
丹沢山系は御林(おはやし:幕府の林奉行管轄)で、宮ケ瀬村はその管理を請負い、人馬の課役免除と月俸(扶持)を貰っていました。 火災が多かった江戸は木材需要が多かったので、割と重要な仕事だったのでしょう。 生活がどんな感じだったのかは不明ですが、お金のかかっていそうな庚申塔がいくつかあります。もっともこれは宮ケ瀬村の北側にある旧津久井郡の石造物も同様ですが…。 戸数が多かったのは宮ケ瀬村南側になり、石造物もこちらが多くありました。 「字」は他に「南」もありますが、庚申塔はありません。 宮ケ瀬村 北集落の庚申塔 宝暦13年季春 三猿。 どこにあったのか不明ですが、空撮写真にある白くて太い県道は、江戸時代には無かったようで、北集落の石仏は集落内の細い道沿いにありました。 昭和6年7月 「猿田彦命」 施主 井上猪之助 もう1基、記録はあるのですが見つけられなかったもの。 舟形合掌青面金剛 正徳元年9月 「奉造立庚申供養所願成辨所」 施主七人敬白、三猿。 これも集落内の道沿いに記録されています。 宮ケ瀬村 久保之坂・馬場集落の庚申塔 安永7年 三猿。 記録がなくてどこにあったのか不明。 文久3年暢月(11月の異称) 「庚申塔」 南北馬場講中。 南北馬場は3つの字です。 南集落は「北」「馬場」と南下して突き当たったあたりの集落です。 久保之坂に並んでいた石仏群にありました。 宮ケ瀬村 川前集落(上村・和田)の庚申塔 元禄16年□ 「奉造立庚申供養為二世安楽」 三猿。 最も南にあった庚申塔。 煤ヶ谷村へ行く最後の橋のたもとにあったようです。 安永3年初冬 台石に「供養塔」 二鶏三猿。 これも同所に並んでいたようです。 なお、宮ケ瀬村の石造物については、それだけをまとめ、清川村全体の石造物資料から漏れているものも掲載されているそうです。 清川村の図書館で存在を知りましたが、内容を精査する時間がなく、「石像群舎」にあるものとの対比をしませんでした。 |
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2015年02月11日
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清川村は1956年に煤ヶ谷(すすがや)村と宮ケ瀬村が合併してできた新しい村。 しかし宮ケ瀬村は1969年に始まったダム計画により水没。 大半の住民は厚木市へ移住しました。 宮ケ瀬村にあった石仏は、一部を除いて宮ケ瀬の高台に残る住宅地にある「宮ケ瀬石造群安置舎」に集められています。 立ち入れない小屋の中にあるので、写真は悪いですし、紀年銘や銘文、眷属などは間違えている可能性があります。 水没してしまった村の字別にまとめられていますが、撮影時、あまりそこを意識していなかったので、所在地も間違えている可能性があります。 新編相模国風土記稿の天保年間、宮ケ瀬村は83軒。 内訳は不明ですが、落合集落はその内、20軒足らずのようです。 宮ケ瀬村 落合 地理が全く判らないので、国土地理院サイトから1970年代の空撮写真を。 宮ケ瀬村の北部が字「落合」の集落です。 川を挟んだ南が前落合、北が向落合。 向落合は急斜地に民家が立ち並び、集落内から坂を登り詰め1.5kmほど行くと現在の相模原市緑区鳥屋の集落。 鳥屋集落には獣による作物被害を抑えるためのシシ堀がありますので、向落合も被害はあったかもしれませんが、畑は前落合に多かったようです。 明治の地図では落合集落上流の河原に水田のマークが出ています。 落合集落は宮ケ瀬村の中心でもある他の集落と離れていて、間に人家は無かったようで、距離も2.5kmは離れていました。鳥屋村の方が距離は近いです。 宮ケ瀬村 落合/向落合の庚申塔 宝暦13年4月 石工直右門 三猿。 落合の庚申塔はこれ1基です。 詳細な場所ははっきりしませんが、向落合集落の北側路傍に石仏群があり、その中にあったようです。 空撮写真でも判りますが、家は向落合の方が多いですし、 明治の地図でも割合は同様です。 なお、宮ケ瀬の全体は以下。 左側が1970年代、右側が2007年。 判りにくいですが昔の集落は完全に水没しています。 落合集落は1970の左上、川が合流している辺り。 2007年空撮写真の「+」がある部分は1970に南側集落の北端にあった橋の位置。 ここから落合集落の間は民家がありません。 2007写真の橋、西側に現在の町(小中学校も)があり、そこに石仏群があります。 |
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