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清川村の資料は字・小字で所在を表記していますので、それに従います。 地元でこういう区割りがあるのかは不明ですが、資料は煤ヶ谷村の南部を下煤ヶ谷、以下北へ向って中、上(北端)としています。 煤ヶ谷(すすがや)村は天保年間で283軒。 古くからある集落ですが、農地が多いとは言えない谷間。 林業をずっとやっていたようで、宮ケ瀬村と同様、江戸時代は御林の警衛によって、人馬の課役免除と月俸をもらっていました。 面積がさほど広くない割に人口が多く、寺院も6あり(過去)、文化面でも余裕を感られますので、山間の集落としては余裕があったのかもしれません。 石造物はとても多く(ほとんどが道祖神で次が馬頭)、庚申塔は資料から漏れているものもあります。中には大山道標もありますので、甲州街道から大山詣でをする人達がそれなりにいたのでしょう。 南隣が厚木市の七沢で、石造物はほとんどが七沢石と思われます。 丹沢山系を道場としていた八菅修験の行場がいくつかありました。 下煤ヶ谷 舟沢の庚申塔 寛政5年3月 「庚申供養」 講中 7名?(埋没) 台石に三猿。 現在は蓮久寺にありますが、もともとは集落内だったようです。 舟沢集落は、江戸時代も参詣者が多かった飯山観音から煤ヶ谷への入口に相当します。 下煤ヶ谷 御門の庚申塔 寛政6年8月 「庚申供養塔」 願主 下宮野村 講中 道標(右側面:此方 大山 せんげん 道/左側面:□〜□道) 台石に三猿。 資料の地図の場所と同所にあるのですが、記録されている内容とだいぶ違っていました。 笠付文字三猿塔 文化12年8月「庚申供養塔」 西国観音同行講中。 多少の間違いならともかく、かなり異なるので、違う庚申塔がどこかにあるのかもしれません。 下煤ヶ谷 金翅(こんじorきんし)前の庚申塔 紀年銘不明 「庚申塔」。 路傍の地蔵堂の脇にならぶ石仏群に。 ここから先の道は、ゴルフ場で途絶えるような感じになっていますが、往古は主な往還だったようで、こちら側には石仏が多いです。現在の県道64号にも道はありましたが、金翅を抜けるルートは南隣の七沢へ行くだけでなく、大山方面へ抜けるルートがあります。 下煤ヶ谷 金翅の庚申塔 元禄6年8月 「□□□庚申供養二世安□」 「□□行□菩薩道/□□□」 台石に奉納者名か 三面に猿。 花蔵院境内。花蔵院は風土記稿に「華蔵院」で掲載されている真言宗寺院。寺領が八石二斗ありました。現在は完全に途絶えていますが、寺の前を抜ける道が七沢方面への往還でした。庚申塔は往還にあったのではないかと思います。 銘文は表面の苔を掃除すればもっと読めると思いますが、表面がすでに浮いている状態で剥離しそうなため手をつけませんでした。 下煤ヶ谷 金翅沖の庚申塔 寛政3年4月 道標(ひだり せんげんみち) 三猿。 これも資料の地図とほぼ同所にありますが、記録されている内容と違っています。 笠付合掌青面金剛 文政5年7月道標(ひだりせんげんみち) 三猿。 庚申塔に残っている紀年銘は明瞭で、「文政五年七月」と読み間違える要素がありませんので、他にまだあるのかもしれません。 庚申塔は道標(左せんげんみち)と並んでいますが、この道も先は牛舎で立ち入り禁止です。 しかし、往古は七沢の鐘ケ嶽を経由する大山への山道が付いていたようです。道標になっている「せんげん」が富士山なのか、鐘ケ嶽のことなのかは不明ですが、消えた山道に文政5年塔が残っている可能性はあります。 |
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2015年02月12日
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