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三猿塔ではなく、石祠の残欠で中尊の三猿のみ。
資料によると石祠に 右側面「寛文十庚戌 山王権現 十二月六吉日」 左側面「相州愛甲郡□□村 庚申待供養塔 三田村 施主六人 落合□□」 中尊に三猿だったようです 保管している方によると、元々は違う地所の斜面にあったが工事によって移設。 おそらく庚申塔マニアの先達諸氏が記録しているのは、この移設後のものだったと思われます。 その後、石祠が風化によって崩壊したため、お祓いして残った三猿部を庭に移したのだそうです。 石祠は山王と庚申の関係を表す、資料的に貴重な存在の1つでした。 古い資料には所在地「三田」のみで、随分探しましたが出会えず、「厚木の小祠・小堂」で現存が判明。住所も書かれていますが個人宅の庭にあるため、ブログでの記載は控えます。 三田は中津川による河岸段丘地形になっており、古くはその斜面にあったそうです。 現在は工場が建っている辺りだったそうで、空撮写真の変遷を見ると工場は斜面を切り開いて敷地を広げていることが判ります。旧所在地の斜面は消失しているのでしょう。 保管しておられるお宅では、これが何だったのか全く判らないそうですが、何かの日に手を合わせて拝むという話しだけは伝わっているそうです。 風土記稿によると三田村は163軒。かなり広範囲だったようで、石祠を祀った集落の小名は不明ですが、小字は道西と思われます。施主六人が近隣の小字まで含めた人数の可能性はありますが、個人的には道西の同姓の一族による講だったような気がします。 それにしても、三田も上依知も元々は斜面の森の中にあったわけで、斜面についた小路や階段を1つ1つチェックすれば、資料未掲載の石祠型はまだまだ見つかるでしょう。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/MYBLOG/write.html |
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2017年08月15日
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