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古くは大久保村と呼ばれていた板橋村。数が多いので2回に分けます。
東海道を横切る用水堀に板橋が架かっていたことから改名になったようです。 風土記稿の時代、136戸。割付416石。 寛文12年の史料では、前の石高が314石。今の石高491石となっていますので、江戸初期にかなりの開墾があったのでしょう。 寛文12年の村の構成は102戸で、本百姓50戸、名主2、柄在家21、柄在家茶屋11、石屋17、紺屋1となっています。 小田原城の上方(かみがた)側に板橋口がありましたし、東海道筋に家が並んでいると風土記稿にありますので、茶屋が多いのはうなづけます。 柄在家は土地を持たない、もしくは隷属の人々ですが、茶屋をやっている人達は家賃を払っている商売屋か雇われ店長のようなものだったと思われます。 石屋も多いですが、石屋の中には後北条時代からの石工で、小田原城の煙硝庫の石積みが見事だと家康に認められて関八州の石工棟梁になった石屋善左衛門も入っています。代々善左衛門を名乗り、幕末の江戸湾お台場建築にも名前が出ていますし、子孫は今もおられるようです。 差配が仕事ですので、善左衛門が作ったものはおそらく無いでしょうけれど、板橋村に石工が多い理由の1つではあります(丁場もありました)。 居神神社 明和3年12月 板橋村連中21名(姓のみ) 祷祀伴野新兵衛 三猿。 連名の施主は◯◯氏と姓のみで名がありません。 小田原では唯一の珍品です。1つは名主と同姓ですし、他に全国的に見ても珍しい姓があり、今も板橋におられます。 祷祀(とうし)は文字通り祈って祀ることなので、ただの世話役ではなく、伴野新兵衛が庚申講の主催者であり祭祀全般を仕切っていた印象です。残念ながらどういう人物だったのかは不明。宗教家ならそれらしい名を刻されるはずです。 居神神社の庚申塔は集められたもので、旧位置は不明。 霊寿院(曹洞宗) 「ヲン 三界萬霊塔」 寛永18年6月16日(庚申日) 銘文中に「伏□庚申結等」。 これについては以前に書いていますので銘文の詳細は省略。 郷土史家の調査によると、石段工事の際、石塔畑と呼んでいた30坪ほどの場所にあったものを移したそうです。 その際に、追刻がなされたと思われます。 なお、移設した際に地中から短刀が出土したそうです。 正徳元年□ 「奉造立庚申供養塔」 「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故應頂禮」 □真寺 □人寺 □徳寺 菊寳院 8名? 残念ながら、こちらは現存していません。 2016年7月、ブナの森さんに存在を教えて頂いて見に行きましたが、同年12月には無くなっていました。 寺の名前が気になる所ですが、読み取れた菊寳院は板橋村にあった当山派修験です。 風土紀の時代は無住になっていたようですが、正徳の頃はまだ山伏がいたことになります。 足柄平野に当山派は16ありました。 調査当時、無縁仏内にあって詳細に調べられなかったのが残念です。 量覚院の庚申塔は次回。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39073887.html |
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2018年08月21日
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