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平塚市上吉沢、山入集落
平塚市の石仏調査報告書は新旧があり、新しい方には存在を知らなかった庚申塔がいくつか掲載されています。 山入集落には庚申塔が今まで報告されておらず、これも山王なのか庚申なのか微妙な所ですが、中尊は舟形の三猿塔。 石祠 紀年銘なし 銘文なし。 中尊 舟形三猿塔 同上。 山入集落上吉沢村に属していましたが、風土記稿には山王にしても庚申にしても、稲荷にしても記載がなく、天保年間の時点ですでに忘れ去られていたか、村民持ちは明細帳に記載していなかったようです。 集落の方も記憶に無いようなので、後者の個人祭祀かもしれません。 平塚市博物館はよく見つけたものです。 なお、山入集落の上方は茅ヶ崎市との境で、峠の尾根道を伝って大磯町の鷹取山まで車道が付いています。峠の向こう側は大磯町の黒岩や西久保集落。そちらにも紀年銘不明の猿が付いた石祠があります。 |
平塚市
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つい先日、改刻ネタを書いたばかりですが、その後、また同系に出会ってしまいました。
手水石の庚申塔。 元禄十丁丑 奉造立為庚申供養也 閏二月九日 手水石の庚申塔自体は珍しいようでそれほど珍しくもないのですが、平塚市ではおそらくこれ1基です。 気になるのは削られた跡。 何かの2尊が彫られていたように見えます。 岡崎神社は明治になるまで違う名前でした。 古くは「坂本山王大権現」と称し、大同2年(807)の創立と伝えられ、明治になってから日枝神社と改称、明治42年に近隣の神社を合祀して岡崎神社となりました。 明治政府の愚行については、いまさら書くことはありませんが、へぇ〜と思うのは「山王大権現」→「日枝」の改称がワンステップあった点。 山王権現の神使は猿。 庚申供養のものだし、削られたのは2猿ではないかいなと。 今でも日枝神社に猿はつきものですので、削らなくても?とも思いますが、社名に「大権現」がついていたのがまずかった。 山王権現の使いの猿はやっぱり削らなきゃいかんだろうと、当時の村民が考えたのでは。 などなど妄想が広がりましたが、縁起を読んでみたら、岡崎神社には山王神社が摂社としてあり、山王大権現として山王二十一社を祀っていると書いてありました。 7月28日は山王神社の祭祀をするそうです。 氏子さんがいたので、山王神社の祠内に猿の像や絵はありませんかと訊いてみましたが、無いというお返事でした。 妄想は見当違いなのか当たっているのか…(笑) |
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2013年3月あたりまで、東真土1-10の墓地に庚申塔が3基ありました。
墓地改修工事に伴い、廃棄されたそうです。 無くなった供養の意味で写真を。 茶色い竿の笠付塔が庚申塔です。 そういえば他の石仏はどうなったのだろう。 庚申塔だけ捨てられていたら、ちと悲しい。 笠付「庚申供養講中」 三面に猿 寛延元年12月 101cm この墓地には、これとは別の場所にも2基ありました。 おそらくまとめの石仏で、違う集落のものだったのでしょう。 この墓地は、廃寺になった東光寺の跡地に残っているもので、今は別のお寺さんが管理しています。 加えて、墓地にまとめられた石仏は、集落も絶えているに等しく、昔からの家も代替わりで石仏に対する興味は無くなっていたのでしょう。 お寺さんは、改修工事を担った業者さんにまかせたそうです。 「施主同行 元禄八亥天」 「奉造立庚申供養」 三猿 「二世安楽 十一月庚申日」 85cm 元禄8年11月の庚申日は2日ですが、2日とはせずに庚申日としている。 庚申の日を意識していたことがはっきり判る例として貴重なものでした。 村名なども彫ってありますが、東村?など以外は判読できず。 明和2年4月 108cm この墓地の近くには真土神社があり、そちらにも庚申塔があります。 真土神社に移すことはできなかったのだろうかと思わないでもないです。 もっとも、真土神社の石仏もだいぶボロボロで、古い資料には庚申塔3基となっていますが、新しい資料では内1基は逸失となっていますので、神社にとっても邪魔なものなのかもしれません。 文化財指定されていない石造物で、盗難以外の理由で消える場合、だいたい似たような最後を迎えるようです。 |
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明治3年(1870)の文字塔。
特徴は庚申塔と地神塔のダブルネームであることと、 間もなく消えてしまうかもしれない点。 右側面:「地神塔」 左側面:「明治三庚午年四月吉日」「右 大山道」 神奈川では江戸中頃から地神信仰が始まり、江戸末から明治初期にかけて大流行しました。農村部なら当たり前でもありますが、庚申を行っていた講と同じメンバーだったことが多いようです。 大流行していた当時、全体的に庚申信仰は下火となっていたこともあり、地神信仰がそれに取って代わったらしく、庚申と地神が一緒に祀られ、祭祀する日は地神の祭日(春分や秋分)となっている例が複数確認できています。 総数がいくつあるのか見当もつきませんが、数千はあるでしょう。 不動や道祖神、庚申塔などが大山道標を兼ねていることも多々あります。 ところで、これが作られた明治3年は廃仏毀釈が吹き荒れていた頃。 道標の行き先「大山」も、神官に煽動された大衆が大挙して大山寺を壊しに行った時期。 地神も神の名はついているものの、神奈川の場合はほとんどが寺院と修験の主導によるもの。 庚申も平塚市域は猿田彦塔が少ないので神道系の庚申講ではなく仏教系がほとんどと考えられるので、この庚申塔は全てが仏教がらみ。 そんな時代によく作れたものです。 この庚申塔ですが、写真の通り倒されています。 地元の方によれば、昔は辻に立っていたそうですが、駐車場になった時に倒されて、以来そのままとのこと。 土地の売却話もあるらしく、そのうち無くなってしまうかもしれないとおっしゃっていました。 明治の狂気の時代をくぐり抜けたのと同様、しぶとく残ってくれることを期待しつつ、記録として残しておきます。 |
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寛文4年(1664)の烏八臼(うはっきゅう)付庚申塔。
292cmある大きな庚申塔。 三面に猿(正面は剥落)。 「□(烏八臼)夫鴻濛未判者心機浅然而色空無兮 暁玄以奥之后而有正有邪有善有悪出 這四利則心渕發動而彼我愈興矣 所以君臣絶道親子忘孝可謂人」 「身而不異千横所以天失時而 三災覆夭杢於是天帝悲是漏池於 玄機以滅於欲火焔即是庚申晨也 若人不這日為譱如山為其悪」 「則其悪以海故貴賤運四無量心擲 捨財寳遠立於四面率(者+見)以比因由 在世遯八難如意白在旧來渉苦 海沢登僄域者也」 「于時寛文四閼逢執徐暦折本吉辰 相陽大住郡八幡荘大神郷 比丘比丘尼優婆塞優婆夷 月舟野衲記」 なんのこっちゃ判りませんが(笑)、大雑把には三尸の虫が這い出て天帝に告げ口する逸話を具体的に説明し、それを防ぐためにこの塔を建てました、というような意味かと。 この庚申塔は願文の最初に烏八臼が付いています。 ちと見にくいですが八臼烏になっているようです。 烏八臼について語るような知識はありませんが、庚申塔に付いているのは珍しいです。 烏八臼は曹洞宗と浄土宗に多いようです。 願文の最後にある月舟は寄木神社から北へ200mほどにある曹洞宗真芳寺の十三世住職。 歴代住職墓に名が出ていました。 月舟松鶴和尚:元禄元年11月27日入寂。 ちなみに真芳寺は後北条氏一族が開基した寺で、往古は掘と土塁に囲まれた城砦寺院。寺域も広大だったようで、この庚申塔も元は寄木神社ではなく、旧寺域の端と思われる畑の隅に立っていたそうです。 |




