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1755年
宝暦5年9月 駒形、合掌万歳、三猿 台石に「地神尊」。 悩ましい台石です。 地神塔には刻像塔もあり、それが上に乗っていたのかもしれませんが、同所にそれらしき残骸はありません。 さすがに青面金剛を地神と奉っていたことはないと思うのですが、是非は不明です。 1756年 宝暦6年4月23日 笠付、合掌万歳、三猿 1766年 左/上粕屋 鉈切不動 右/串橋 雷電神社 明和3年4月21日 明和3年6月 笠付、合掌万歳、三猿 笠付、合掌万歳、三猿 この3基、似ているようで細かい部分が色々と違います。 1769年 明和6年3月 笠付、合掌万歳、三猿 道標 1771年 明和8年正月 笠付、合掌万歳、下部欠損 道標 1800年 寛政12年11月 笠付、合掌万歳、台石三猿 「奉建立庚申供養塔」 紀年銘不明 上欠板碑、合掌他不明、三猿 「奉造立庚申供□□□」 紀年銘不明 角柱、合掌六臂、単体 角柱の両面に刻像されており、その片方を青面金剛と見ているようです。 片面は蓮華らしきものを持っているので聖観音だと見当をつけられますが、肝心の青面金剛とされている像は、下草がキツかったこともあり、さっぱり判りませんでした。 一応,参考として。 悩ましい不明塔 日向 日向薬師 左/紀年銘無し 舟形、合掌六臂、単体 右/紀年銘無し 合掌六臂?、単体 理由は不明ですが、左は庚申とし、右は違うとされています。 数として充分とは言えませんが、伊勢原市内の青面金剛塔をこうやって並べてみると、享保4年以降は全て万歳型。 三猿は台石の場合もありますが、ほとんどは同じ竿石に青面金剛と三猿がついています。 日向薬師の2基は享保以前の感じがしないこともあって、両方とも違うのではないかと思えてなりません。 |
伊勢原市
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伊勢原市だけ見てもあまり意味はありませんが、数が少ないので傾向を調べるには手頃。ということで伊勢原市の青面金剛塔を年代順に並べてみます。
※未訪が1ヵ所あるので全てではありません。 ※表面完全剥離塔は参考にならないので除外。 1676年 延宝4年仲春 笠付、合掌六臂、三猿、二鶏 石材が近隣のもろいものではなく、小松石という話もあり、伊勢原市最古の青面金剛塔なのにかなり状態は良い。 1697年 左/小稲葉 安養寺 右/高森 歌川 元禄10年卯月 元禄10年閏8月 笠付、合掌六臂、邪鬼、三猿 笠落、合掌六臂、三猿(剥落) 「奉建立庚申供養」 「奉庚□供□□」 □□仲西講中 1698年 元禄11年10月 角柱、四臂、単体 「アーンク 奉造立庚申供養」 右上手は金剛杵、左上手は錫杖か。 伊勢原市どころか相模国全体でも異形の部類。 鉈切不動には役行者伝説があるので、修験の影響が濃い庚申塔と思われます。 1699年 元禄12年7月 角柱?、前手不明六臂、三猿?、蛇 「□□供養」 この風化状態が伊勢原市、厚木市、秦野市などの神奈川県央でよく見られる。 石質によるものなのでやむを得ませんが、山沿いの集落には自前の丁場を持つ所もあったそうで、職人が切出す丁場なら商品にならないような石も使っていたと思われます。 日向ではありませんが、伊勢原市内の集落で、石を彫る石工は集落に呼び寄せて作らせていたという証言も得ています。 この呼び寄せるやりかたは割と普通にあったようで、これを彫った石工は「長持ちせんだろう」と思いながら彫ったのかもしれません。 1719年 享保4年8月 櫛形、合掌万歳六臂、三猿 日月を捧げ持つタイプ(以下「万歳型」)の初出。 下平間には西ノ稲荷と東ノ稲荷があり、1年おきに祭祀を行う。 その両方に庚申塔(1基は文字塔)。 1721年 左/上粕屋 山王橋際 右/上谷 池田神社 享保6年6月 享保6年7月 角柱、合掌万歳六臂、三猿 角柱、合掌万歳六臂、三猿 「奉造立庚申供養□」道標 「庚申□□」 1726年 享保11年12月 角柱、合掌万歳六臂、三猿 「庚申供養」 高部屋神社には他に2基。 寛文7年「南無八幡大菩薩」「庚申供養」銘。 寛文9年「山王」銘の三猿塔。 どちらも興味深いものですが、残念ながら表面剥落と風化で文字は読めない状態。 余談ながら高部屋神社は丸山城の一部で、近隣では最高所となっています。 1728年 田中 耕雲寺 享保13年6月 笠付、合掌万歳六臂、3猿 「奉造立庚申供養」道標 1742年 寛保2年立夏 角柱、合掌万歳六臂、二鶏、三猿 ここまでの万歳型は肘がカクっと鋭角に折れていましたが、この青面金剛塔以降は柔らかい感じで曲がるようになります。 |
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伊勢原市で今の所、3番目に古いとされている庚申塔。
東大竹、富士見塚としておきます。 住宅街の中に残る塚の上にありますが、夏はごらんの通り下草が元気で、上部にある庚申塔は見逃しやすいです。 資料には山王塚と記載されているはずですが、これは字名「山王塚」のこと。 東大竹には山王塚の名前がついた公園が別の場所があるため、地元の人が子供の頃に呼んでいた名称「富士見塚」にしました。 寛文2年11月 他は不明 現状では紀年銘不明です。白い苔を落して拓本を採れば読めるかもしれません。 この庚申塔がある「富士見塚」について隣家の方に訊いたところ、名前は知らないが遺跡だとおっしゃっていました。土地はすぐ近くにある自徳院の所有地で、訪問してみましたがお盆シーズンだったため法要があり遠慮しました。 檀家の方に訊いた所「子供の頃はよく登って遊んでいた。当時から庚申塔はあった。正式な名前は知らないが富士見塚と呼んでいた。塚の上から富士山が見えて、石の祠もあった」と教えて頂きました。 今も石祠は庚申塔の横にあります。 東大竹の高台は縄文の住居跡などが発掘されているほか、いわゆる古墳があるようで、それがこの場所なのかもしれません。 古代からずっと人が住み続けて来た土地で「ちょっと土を掘ると何か出て来る」のだそうです。 |
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伊勢原市で今の所、2番目に古いとされている庚申塔。
寛文2年6月2? 「奉造立庚申供養(一石塔?)」 「伊勢原の庚申塔」では「三ノ宮、中伯母様」と記載。 伯母様地区の高台、配水施設の近くにあります。 地元の人の話をまとめると、30年くらいまえからここにあるが、 それより以前はもう少し上の古戦場(?)あたりに塚があり、その上にあったとのこと。 完全に山中で、道がついていたとすると、隣の小さな集落への道か、あるいは尾根伝いに西の秦野方面へ行く道がついていたのかもしれません。 「最近までは猿もちゃんとしていたし、文字もはっきり読めたんだけどねぇ」とおっしゃっていましたが、その最近がいつのことなのか。 現状はかろうじて読み取れる程度です。 一応、車道に面してはいますが、農作業の軽トラがたまに通る程度の道。 それでも一気に風化が進んでしまうのにびっくりしました。 最近、この手の石造物を保護することができる塗料が開発されています。 塗ると表面がガラス質になるそうです。 しかし、塗る前に汚れをしっかり落しておく必要があるらしく、その清掃がちょっと面倒らしい。 この風化具合だと、下手に清掃すると石自体を痛めてしまいそうです。 |
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伊勢原市の庚申塔を全て見たわけではありませんが、
ちょっと悩むものがいくつかありました。 伊勢原市日向、浄発願寺奥院 「キリーク 當山中興十八世善明智眼文速阿大和尚」 文政5年7月18日 基礎に三猿が付いた卵塔です。 これを庚申塔として良いのかどうか。 基礎に銘がないか探しましたが、それらしきものは見当たりませんでした。 同様の例は鹿児島にもあるようです。 三猿については、天台の三諦を表現しているという説もありますが、浄発願寺が天台宗であることを考えると、そちらの関係で三猿が付いたのかと思えてなりません。 紀年銘無し、銘文無し 合掌で矛と宝輪と弓と矢を持つ単体。 宝戒坊は日向薬師で知られる古刹です。 参道には沢山の石仏があるのですが、その1つ。 青面金剛そっくりの単体で庚申銘がついていないのに、庚申塔とされている例は各所にありますが、はたしてこれは。 房総の鋸山にある日本寺には、同様の青面金剛そっくりの単体像がずらっとならんでおり「百体不動」と解説されています。 それはそれで不動とは違いすぎる像様なので疑問に思っていますが…。 大山、諏訪神社 奥に見える尖角柱は庚申塔です。 問題は手前の3基の中央。 「塞神三柱」 「明治四年睦月 改建」 「伊勢原の庚申塔」ではこれを庚申塔にしています。 理由として、平田篤胤が「庚申造立時に塞神三柱の御名を彫り付けを提言」したことを挙げていました。 東京や埼玉に改刻塔はあります。 この塞神塔には「改建」の銘が入っていますので、破却して作り直したのか。 大山に大規模な廃仏毀釈があった歴史も踏まえると、納得せざるを得ませんが、もやっとしているのは、後にある「庚申塔」を含め、大山地区に文字塔や三猿塔がいくつか残っている点と、他に塞神塔が伊勢原市には無さそうな点です。 「道祖□」 寛政4年 「申庚講」 三猿 隣に、風化剥離が進んだ三猿塔があり、てっきりそれのことかと思っていましたが、紀年銘が合わず、資料を見直して判ったもの。 猿は塔の下部、新しい剥落の跡(周囲は白い苔ですが、剥落部分だけ黒っぽい石の地が出ています)部分に1猿だけ残る写真が資料に出ていました。 文字の道祖神塔を庚申講が作っている例や、双体道祖神と思われる刻像塔に庚申供養と入ってる例はありますが、三猿がついているものには未だ出会ったことがなく、ちょっと残念でした。 しかし、これは庚申塔なのか道祖神塔なのか…。 |


