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伊勢原市、現存最古?の庚申塔。
伊勢原市下糟屋、粟窪。 東海大医学部付属病院へ登るためか、今も使われている道。 寛文2年4月。 資料では種字が5つ付いているとなっていましたが、ごらんの通り、現状では何がどうなっているのか判読できません。 神奈川県央に多い七沢石と思われ、ちょっとさわっただけで表面がボロっと落ちてしまう状態です。 不聞猿が付いている正面を無理矢理読んでみても、かろうじて「寛文二」が判る程度。種字は3つと下に漢字のような1文字にしか見えませんでした。 側面は人名&何か。 伊勢原市に現存が確認されている庚申塔約130~140基中、今の所これが最古になります。 2番目、3番目も寛文2年ですが、これが4月、続いて6月、11月です。 同年にまとまって造塔された事実は、なかなか面白い。 伊勢原の歴史を考えると、もう少し古いものがあっても不思議はありません。 伊勢原市を含む相模川西の県央エリアは、大きな修験寺院があったり、丹沢山系が修験道場となっていたため、相模国や武蔵国南部に庚申信仰を広めた主役の1系統がまちがいなくいました。 今の神奈川県エリアで庚申信仰が最初に広まった可能性もあるわけです。 以下はただの妄想遊びです。 実は、相模川西の県央エリア(愛川、厚木、伊勢原としておきます)の現存最古がこの寛文2年塔(1662)です。 厚木には石の塔を建てる以前のものとして庚申掛仏などが現存しており、それだと寛永9年(1632)。 この30年のタイムラグは、もしかすると江戸城と関係があるかもしれません。 神奈川西部と伊豆半島の石切丁場が本格的に開かれたのは江戸城建設に必要な石材需要が高まってからです。天下普請は慶長8年(1603)から始まり、wikipediaによれば万治3年(1660)に終えたとあります。 石材の本格需要がなくなった直後の寛文2年(1662)にいきなり3基登場したのは、墓石など、全部の石造物を調べる必要はありますが、偶然でもなさそうです。 さて、伊勢原ですが、ほとんどが七沢石のため、資料上で興味深い銘文を見つけて現地へ行っても、現状では完全に剥離していたり風化していたりで、残念なものばかり。 伊勢原市の庚申塔資料は主に「伊勢原の金石文/1972年」、「伊勢原の庚申塔/1980年」、「伊勢原市石造物調査報告書/2002年~継続中」になるようです。 昭和55年当時くらいまではしっかり読めたようですが、最新の報告書ではもう読めくなっており、銘文などに関しては古い資料から引いているものが多数。 この30年ほどで風化が急速に進んでいることが判ります。 この塔についても「金石文」なら詳細が判るかもしれません。 なお、伊勢原市は石造物の悉皆調査をやったことがなく、最新の報告書(現在3巻発刊)が初めての物になるそうで、過去の資料には未掲載だった庚申塔がいくつか追加されています。 もちろん、逸失しているものも少なくありませんが、私1人がちょっと廻っただけでも資料未掲載を数基は見つけており(全てボロ)、過去の資料より少なくとも10基くらいは追加になると思われます。 伊勢原市は大山参拝で賑わった土地であり、修験寺院も複数あり、石切丁場もあったことから、石造物の数は半端なものではありません。しかし七沢石が…ということで調査を担当している方は「調査が大変で最後の刊行がいつになるかは不明」とのことでした。 「そうでしょうね…」と相槌を打ってしまいました。 |
伊勢原市
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伊勢原市の資料に庚申の石祠として掲載されている3基です。 中央の正面と右側面。 寛文7年□□「庚申供養」。三面に猿。 側面にうっすら「大住」の文字が読み取れました(大住郡)。 追記..... 正面:龕上部に「真如法界」左右に「庚申供養」「為菩提也」 左側面:「相州大住郡 小稲葉三郷」(不見猿) 右側面:「敬白 三十二人」(不言猿) 裏面:「旹寛文七丁未歳 五月吉祥日」(不聞猿) 次に最初の写真向って右。 庚申銘(確認できず)。 三猿は無し。 文字がかすれていて庚申の文字は見つけられませんでした。 こちらも大住郡とありました。 気になるのは正面の龕の上に陽刻されているもの。 瑞雲に日輪と思われます。 追記.... 正面:「奉造立」「日光大菩薩」 左側面:旹寛文七丁未歳 五月吉祥日」 右側面:相州大住郡 小稲葉村 惣氏子」 裏面:「願主 敬白」 最後が最初の写真向って左。 三猿も庚申銘もなし。 こちらは「相州」と「小磯」が読み取れました。 おそらく3基とも「相州大住郡小磯村」でしょう。 龕の上に三日月の痕跡が見取れます。 左右の文字は判読できず。 追記.... 正面:「奉造立」「月光大菩薩」 左側面:「旹寛文七丁未歳 四月吉祥日」 右側面:相州大住郡 小稲葉村 惣氏子」 裏面:「願主 敬白」 左右の三日月の石祠は庚申銘も三猿も無いので、 普通なら庚申とは見なされません。 おそらく、三猿付きが中央で、左右に日輪と月輪があることで、 3つでワンセットと見なされたのでしょう。 あるいは何か伝承があるのかもしれませんが、資料には載っていませんでした。 なお、3つとも石祠内には何も無し。 もう少しはっきり銘文が読めれば悩むことも無いのですが、現状ではどうにも。 庚申石祠なのだろうなぁと、ぼんやり信じるしかないシロモノでした。 追記.... 中央上部に「真如法界」と入っているので、 大日如来の他受用身=薬師、左右の日光/月光とで薬師三尊なのかもしれません。 |




