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山北町の庚申講を調査し、講で使っている掛軸なども調べた報告書が「山北乃文化16号」に掲載されています。この情報はブナの森さんより頂きました。
調査者は岩本南花氏。素晴らしい調査で、山北町の講が使っていた庚申掛軸に小田原市浜町の宗福寺が配布していた木版刷りのものがあるなど、興味深い事が書かれています。その掛軸は宗福寺にも残っています。 当然ながら山北町の庚申塔も写真付で紹介されています。 その中に、山北町の石仏資料「山北の石造物」に庚申塔としては未掲載と思われるものが1基あります。 別の信仰物として掲載されている可能性はありますが未調査。 資料漏れの可能性もあるのでブログに書いておきます。 舟形合掌六臂(日月捧げ持ち) 寛延2年10月 「供養」 単体。 頭頂に蛇がとぐろを巻いている。 岩本氏は山北町の庚申塔をほぼ全て調査した上で庚申塔と判断していますし、私も青面金剛だろうと思いますが、庚申銘や眷属もいない(もしくは逸失)ので、青面金剛では無い可能性も残ります。 なお、小字馬場とされていますが、もしかすると鶴野開戸になるかもしれません 同所に神奈川では珍しい十三仏塔がありました。 左側面「水神」 背面「三宝大荒神」 天保5年8月□日 願主 □~□ 併設されていますが、設置場所としての意味を考えると首をかしげます。 昔は東海道沿いにあり、それが拡張工事で山裾の個人墓地入口へ移設されたのかもしれませんが、すぐ近くに小さな沢があるようで、元々この場所にあった可能性もあります。 また、背面に三宝大荒神とあるのが悩ましく、もしかすると舟形合掌六臂像は荒神かもしれません。 山北町は治水灌漑用水のため、町中に水路が廻らされていて、この場所も集落背後の山裾に取回された水路のさらに上になり、設置場所や庚申塔と思われる石塔も含め謎が残りました。 |
山北町
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都夫良野の地蔵堂は鐘ケ塚という430mほどの山の上。
地蔵堂の前の車道は、ほとんど車も人も通りませんが、昔はこの道が街道だったようで、新編相模国風土記稿にも都夫良野の地蔵堂は紹介されています。 峠のピークに位置するので、昔は眺望も良く富士山も見えたとか。 都夫良野集落からは少し離れた場所にポツンとあるのは、景観のせいか。 あるいは葬送に使われていたからか。 昭和の一時期、近くに火葬場があったようですが、もともとそういう場所だった可能性はあります。 庚申塔は2基。 享保6年6月 「奉祈念庚申祓□修□」 右側面 「願□此功徳 普□□□□ □等□□□ □共□佛□」 三面に猿。 右側面は回向文と思われます。 「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」。 回向文には 「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」 のバージョンもありますが、こちらは浄土宗、浄土真宗なので、庚申塔に使われていることはまず無いと思われます。 享保13年7月 「キリーク・サク・サ 奉供養山王権現」 都夫良野村 講中 八人 三面に猿。 右上手:宝珠/左上手:宝輪 合掌 右下手:矢逆さ持ち/左下手:弓 山北町で宝珠持ちとはっきり判る青面金剛は2基。 いずれも享保年間です。 住所は都夫良野ですが川沿いの集落「四軒屋」。 文字通り家が四軒しかありません。 路傍に2基。 左 自然石文字塔 安永8年9月「庚申供養塔」蓮中 七人。 右 自然石文字塔 安政7年2月「庚申供養塔」施主六人。 四軒屋なのに2年続けて造塔して奉納者が6人から7人に増えています。 不思議ですが、安永の頃は四軒ではなかったのか。 あるいは隣の六軒屋と合同だったのかは不明です。 隣の六軒屋にも資料上では庚申塔となっているものがあります。 紀年銘不明 「大宝山」 これを庚申塔としていました。 地元の方に取材してみましたが、伝承庚申塔でもないようですので、資料の間違いだと判断しました。 しかし、いったい何なのかはまったく判らず。 ついでなので六軒屋の石仏を。 左は出羽三山系の百番供養塔。 右は弁財天。 この2つを結ぶ細い山道には道標や馬頭もありました。往古はこの山道がメインの道だったと思われます。 集落で石仏を尋ねると道祖神を教えてくださいましたが、他は意識にないようで、やっと思い出してくださったのが「大宝山」塔がある場所の地蔵と百番供養でした。 |
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現在の住所で「岸」には今の所、7基の庚申塔が確認できています。
その内、河村城がある山塊の南側斜面中腹に集落がいくつかあり、 昔からの道沿いに庚申塔が残っています。 岸1948 地図で一番右。字越地。 文化6年11月 願主 越地講中 邪鬼 三猿 左上手:三叉戟、右上手:宝輪 右中手:宝棒、左中手:索 右下手:弓、左下手:矢、火焔光背。 古地図を見ると、ちょうど字「越地」の西谷戸入口と思われる場所に現存。 河村城への登り口でもあるので、江戸時代以前からの集落ではないかと思っています。 そこにある石仏群に庚申塔。 火焔輪の光背がついた庚申塔は山北町に2基あり、その1つ。 もう1基は大日如来座像で静岡県にも同じタイプがあります。 風化していて青面金剛の表情などははっきりしませんが、もしかするとこの庚申塔も静岡の影響があるかもしれません。 湯坂公民館 地図の中央。字湯坂。 文化4年正月 三猿。 風化で上手下手不明。 上の越地と同じ、文化年間の青面金剛。 風化していて判別しにくいですが、比較すると像容が違います。 山北町の庚申塔は、江戸中期以降になると、村毎に像容が違う傾向があります。 流れの石工が多かったからか、村ごとに宗教的な指導者が違っていたからか、など、想像はできますが答えは不明(笑) なお、湯坂公民館は廃寺になった曹洞宗寺院「休岩寺」の跡地。 寛文11年5月 正面 「バク 奉造立山王大権現為二世安楽也」 左面 「天長地久所願成就」 右面 「鐵囲砂界一等普□」 台石に三猿。 山北町には同年同月がもう1基あります。 これを含む2基が山北町現存最古の庚申塔。 江戸初期なので、作り自体はよく似たものが沢山あります。 珍しいのは「鐵囲砂界一等普□」。 須弥山の外側を鉄の山が囲っており、砂界(沙界)になっていると想像されていたようです。 堅固であり広大な世界=信仰世界の様子を表す、古くから使われている仏教熟語の1つのようですが、庚申塔に使われているのは初めて見ました。 岸3079付近 地図の右。字日向。 享保11年霜月 「祭願成就 □座□□」 三猿。 七沢石のような風化具合です。 七沢石は相模国外にも流通していたようですので、厚木から山北へ運ばれていても不思議はないものの、実は山北の青面金剛塔ではこれ1基です。 他は固い石材を使っています。 そして、山北町の紀年銘が判る青面金剛として現存最古。 他の青面金剛塔も享保年間が多いです。 この道沿いにある集落地は河川に沿った田畑から10m以上高い場所にあります。 集落自体の防御性もありますし、河村城へすぐ登れるので、根古屋的な集落=かなり古い集落だったのではないかと想像しています。 岸、浅間山山頂 安永5年8月 岸村 湯坂 世話人八郎右門 三十七人 三猿。 風土紀によると岸村は160戸あり小名が6つに分かれていました。上記5基の越地、湯坂、日向は小名です。小名の戸数は風土紀には未掲載ですが、37人となると全戸の可能性もありそうです。 不思議なのは小名湯坂の庚申塔はこれを含めて3基にもなる点。2基ある湯坂公民館は休岩寺跡地で、なぜこれだけ浅間山山頂にあるのか。 浅間山には江戸時代から浅間社があり、現在も大雑把に富士山の方向に拝む小祠が鎮座しています。今は違うでしょうけれども江戸時代は岸村の般若院が別当でした。休岩寺は曹洞宗。般若院は真言宗。 このあたりに別に置かれている理由があるような気もします。 |
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岸477付近
紀年銘不明 「庚申燈」 岸には山王社があったようで、そこへの常夜灯ではないかと思うのですが、肝心の山王社がどこにあるのか見つけられていないままです。 この山王社のご神体は円鏡で以下の銘文が彫られているようです。 「奉新建立山王七社之権現御正体一面 抃御社一宇 成就之所 寛永九壬申卯月吉祥日 相州足上郡川村郷、大願主岡部佐渡守吉秀敬白」。 ご神体を拝観することは叶わなくても、山王社の場所は確認しておきたいと思い、 資料には「岸 柏坂」とあったので「柏坂」をヒントに 地元の方数名に聞き取りをしたのですが、どなたもご存知ありませんでした。 柏坂は聞いたことがない、岸に神社はない、というお返事。 資料が間違えているのかと諦めたのですが、以下がありました。 岸1640般若院参道入口 全体写真手前 寛文11年5月 正面「ア・バン・ウーン 山王大権現」 右「庚申供養一結衆等」 左「天長地久五穀 成就萬民豊楽」 裏「柏坂 班目 □地 敬白」 三面に猿。 寛文11年5月の造立は山北町最古です。 ただし、同年同月が2基あります。 そして「柏坂」。 この庚申塔がある辺りが柏坂なのでしょう。 しかし目の前の家の方も、坂上のお寺さんも 「柏坂は聞いたことがない」と。 なぜ地元の方がご存知無いのか理解に苦しみます。 かなり古い小字以下の地名なのでしょう。 80は超しているであろう古老もご存知ありませんでした。 全体写真奧 元文5年11月 正面「ア・バン・ウーン 庚申供養」 右、紀年銘および「柏坂 十六人」 左「天地長久 □□ 圓萬」 三面に猿。 種字の「ア・バン・ウーン」は足柄平野の庚申塔にいくつか付いている種字です。 他県でも多数あるようですが難解な三尊種字。 アは胎蔵界大日如来の種字。 バンは金剛界大日如来の種字。 この両部(金・胎)は分けることができないという 宗教的な思想があり、両部をつなげる媒体のような存在がウーンで、この3つの種字がワンセットになると 「金胎不二」とか「両部不二」を表す意味になります。 修験か正規の宗派かは不明ですが、 密教性が濃い庚申塔です。 |
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山北町の城山といえば「河村城」。
もう1つ河村新城なんてのもあり、そちらにも庚申塔はありますが、メインのお城は"新"じゃない方です。 城の北側が小字「城山」と「梶山」「西梶山」。 昔から変わっていない道があり、200mも離れていない間隔で2基あります。 小字の中でさらに上中下に分かれているのかもしれません。 自然石文字塔 天保6年3月 「庚申塔」 小字西梶山の庚申塔。 素人の手掘りのような感じです。 地神塔や道祖神などと並んでいます。 西梶山集落の中心部あたりです。 なお、下の青面金剛のさらに東にも石仏群があり、常夜灯や堅牢地神塔が並んでいます。 両端の石仏群が「せーのかみ」に当たるのかもしれません。 両端の石仏群の中間あたりにある庚申塔。 合掌青面金剛 明和5年6月金日 台石に「庚申供養」 当□講中 一鶏、三猿 小字梶山の庚申塔。 場所としては、河村城へ登って大庭曲輪に出る山道の入口に当たりますが、集落内を東西に走る旧道として見ると、集落の中央部にあたる場所になります。 それにしても独特な像容。 弓矢を持つ下手が横へまっすぐ伸び、そこに蛇がグルグルに巻き付いています。 頭の蛇もソフトクリーム(笑) 耳が大きく三面と思ってしまいました。 同じ道沿いと言っても良い場所でもあるので、ついでに宮地の庚申塔。 享保5年6月24日(庚申日) 「天地長久五穀成就」 「郷中安穏」 施主 貳拾五人 邪鬼、二鶏(側面)、三猿(三面)。 資料では宮地に分類されていますが、正確な小字は「浅間山」になるようで、名前もよくわからない稲荷社に。 地番だと1065辺り。 路傍の入口にあたる場所に石仏群があります。 地元の人によると昔からあるとのことですが、梶山や西梶山が路傍にあるのに、なぜここだけ、という疑問は涌きます。 山北町で享保のわりに遊んだ感じがある庚申塔で、予算もたっぷり使っていそうです。施主25人とあるので、大きな講だったのでしょう。 |




