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秦野市の旧、峠村には双体道祖神を主尊とする庚申塔が2基あります。
明和九壬辰四月吉日 相州大住郡垰村仲間十一人 僧形の双体道祖神です。 全国がどういう傾向なのかは知りませんが、神奈川は僧形が古い形式だそうで、秦野市最古の双体道祖神(寛文9年)も僧形です。 もっともこの明和9年(1772)塔が古い部類になるのかとなると微妙ですが。 道祖神は紀年銘無しも少なくありませんし、正月のドンド焼き(左義長)の際に燃やす土地もあるそうで、そうなると消耗品で残りません。 寛文9年塔も造立年が判る中での最古ということでしょう。 寛政九丁巳十一月吉日 明和9年塔から25年後に作られています。 こちらは神官風でしょうか。 峠村の小字がどうなっているのか調べていませんが、戸数50あるかどうかの小さな集落に2基も双体道祖神を主尊とする庚申塔があるのは珍しいです。 この寛政9年塔と同所にある同じ像様、造立年の双体道祖神に「諸願成就 皆令満足」とだけ銘があります。 道祖神にこういう仏教的な文が入るのか?という疑問と、庚申縁起にこの文言が出て来るので、もう1基も庚申講による造立ではないかと想像しています。 峠集落には4基の庚申塔があり、他は明和6年の青面金剛塔、延享3年の文字塔。 造立年順に並べると 文字塔、青面金剛、双体道祖神(僧形)、双体道祖神(神官)となります。 集落には4つの小字があり、それぞれで庚申講があったのかもしれません。 どうして双体道祖神を庚申の主尊にしたのかは謎です。 神奈川にはおよそ3000基の道祖神が確認されていて、そのうち最多の自治体は秦野市。310基(ちなみに確認できた庚申塔は146基)あるその多さが理由の1つなのかもしれませんが、秦野市内には「道陸神」と「庚申塔」を一石に刻む併刻文字塔がある以外に類似例は無く、県内を見渡しても双体道祖神や道祖神文字塔を庚申講が建立した例はありますが、主尊としているのは、今の所、ここの2基しか出会えていません。 |
秦野市
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大秦町3-12寿徳寺
「○ 真如法界」 寛文元辛丑 閏8月□□ 肉眼では「○ 真如法界」と寛文元までしか読めません。 他は資料によります。 寿徳寺は曹洞宗。 ○は墓石や石碑に付いていたり、禅の書画などにも描かれている円相。 真如法界は○のキャプション(解説)のようなものかな思っています。 経典の偈やこういった仏教の教えを刻む庚申塔は初期のものが多いような気がします。 特にこの独特な形の三猿は神奈川ローカルで龍前院型と呼ばれるタイプで、明暦3年から寛文11年にかけての20年足らずの期間に19基あるとされているのですが、その中の1つにやはり「真如法界」銘の入っている庚申塔があります。 http://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/33027925.html もっともこれは龍前院なのか?と疑問に思っていますが。 なお、寿徳寺には他に角柱文字塔/庚申塔/文政5年正月、丸彫り半跏地蔵/庚申供養/享保10年3月22日塔があります。 |
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秦野市菖蒲
合掌青面金剛、日月捧げ持ち、三猿。 宝暦7年□月(中折れ修復) 「奉造立庚申供養塔」「菖蒲村連衆十人敬白」 127cm。 向って左にあるのは「天社神」、右は「道祖神」。 菖蒲の辻にあり、前には畑。 農作業をしていた80才くらいの方に「中央のは何でしょう」と質問してみた。 「千手観音という人がいるね」。 古老と呼んでもさしつかえないくらいの方の回答がこれでは、もう完全に庚申信仰が終わっていることが判ります。 試しに天社神についても訊いてみました。 「左側のは?」 「こうじんさんと呼んでいる」 「それは荒い神と書きますか?」 「字はわからんけど百姓の神様だよ」 春分や秋分の日あたりにお奉りしていたか問うと、「昔はやっていた」と。 民俗資料などを読むと、秦野ではまだ作神信仰が続いているように書かれていますが、どうやらそれも終わっている場所が出始めたようです。 「大東亜戦争に負けてから、そういうのは全部やらなくなった。俺が子供の頃の年寄り達は何もやらなくなったし、何も言わなくなっちゃった」 それでもぽつりぽつりと聞いた話を元にお返事して下さったわけです。 祭祀をまとめて社日にやっていたかも質問してみましたが、 それは別々だったそうで、想像するに天社神と庚申がごっちゃになっているため、 天社神を「こうじん」と呼んでいるのではないかと。 なお、道祖神は盗まれたそうで「元は立派なのだったが、作り直した」伝。 昭和と仰っていたので、石仏盗難が多かった50年代でしょう。 それにしても、青面金剛塔は最近折れたのを修復している感じで、以前は割と状態の良いものだったと思われるのですが、それは盗まれずに双体道祖神が盗まれたというあたり、庚申塔好きとしては嬉しいやら悔しいやら(笑)。 |
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北矢名、谷村
合掌六臂、邪鬼、三猿、二鶏 「奉造立庚申供養塔」 「谷村講中」 日輪と月輪、鶏は側面。 講中と講員の名は背面。 地域的には隣の伊勢原市にごく近いというより、伊勢原市でもおかしくないような場所ですが、不思議なことに、とたんに状態の良い青面金剛塔が登場します。 側面に日月があるのは、ごく稀にありますが、久々に見たので堪能。 立ち去りかけて妙な違和感が。 辻にあるのですが、村の中を向く設置。 左の道は1件の民家があって、そこで終了。 右の道は畑でした。 近所のお宅で質問してみましたが、 昔から辻にある。 辻から左右の道より上(山)には昔から家はない。 無理に進めば弘法山にあがることはできるが正式なルートではない。 なぜ辻にあるのかは知らない。 とのこと。 集落のはずれの辻ではありますが、先に畑しかないのでは道切になっていません。 違和感の原因はこれでした。 後で1970年代の航空写真を確認してみましたが、確かにずっと農地だったようです。 庚申塔の場所は左の白地図で右下にある「57.42」となっている辻。 右の航空写真は同所の1970年代のもの(現在も大差ありませんが)。 ますます意味が判らなくなりましたが、山を越えた場所に矢倉沢往還が通っていた善波峠があるのに気がついて、道標の意味があったのではと妄想しました。 庚申塔の日輪がついている側(右)を進むと善波峠=矢倉沢往還。 月輪がついている側(左)を進むと弘法山という山越えになりますが、江戸時代の宿場で十日市場が立っていた、現在の秦野市本町あたりへ直線的に行くことができます。 今は使われなくなっただけで、享保年間の頃は重要なルートだったのでは。 と思いつつ、もう1つの可能性も。 現在は微妙に方位がずれているのですが、青面金剛を拝むと相模国の御岳「大山」か「弘法山」を拝むことにもなります。 地元のお宅で質問した際はそこまで頭が廻らなかったのが、ちと心残り(笑)。 |
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把握している範囲で秦野市に石祠型の庚申塔は4基。
見た目だけだとさほど面白くもありませんが並べてみます。 1645年 今泉、一色の宮 正保2年(以下不明) 石祠内石板「ウーン 奉造立山王宮 庚申一結衆 為二世安楽」 秦野市最古のようですが、紀年銘がどこにあるのか判りませんでした。 石板は中央に「ウーン 奉造立山王宮」 左側に「庚申一結衆」、右側に「為二世安楽」 石板が残っていてくれて良かったです。 石祠型庚申塔はこの後しばらく登場せず、寛文の一時期に集中して登場。 そして寛文以降はなくなります。 1669年 南矢名、龍法寺 寛文9年4月吉日 二猿 だいぶ前から破損していたようで、資料でも割れた函の左右に二猿がついた写真がありました。 現状はさらに破損が進み、やっと猿をみつけてこれが該当だと判明。 残欠を探すと「四月吉日」と「己天」の部分だけがありました。 1670年 寛文10年□月朔日 相州大住郡千村之郷 二猿 銘文らしいものはありません。 石祠の場合、こういうケースによく出会いますが、内部に木札か何かが納められていたような気がします。 庚申ではない石祠だとたまに見ることがあります。 1671年 渋沢、渋沢 寛文11年雪月(11月?) 「奉山王権現宮難前々在 風当□却間今般為庚申 供養与 十八人之 善男子□ 造□人 如此現上善□□ 来昴成結果自然者也」 二猿 いまいち意味が判りませんが、山王権現宮が以前あったが風で壊れたので、庚申供養として作り直した、とかいうことなのでしょうか。 正保2年塔でも山王宮を庚申講が作っていますが、よく言われる「山王信仰は庚申信仰に深い関係がある」というのはこういう銘文があるからでしょう。 石祠型の庚申塔は神奈川の場合、境川以西に比較的多い特徴があります。 単純に分けると相模国ということになり(三浦半島は除く)、武蔵国エリアになると、ちょっとうろ覚えですが5基以下です。 武蔵国エリアに住んでいるので、石祠型の庚申塔を見るとなぜか嬉しくなります。 |
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