庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

地神塔・社日塔など

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后土神は中国道教が発祥で、中国では今も祭祀されています。
日本(というより神奈川・都内)でも地神に分類されていますが、地神塔造立の主目的は作神(=農耕)と解説している書籍もあります。石仏調査をした先達が聞き取りをした上で地神(作神)の一種としたのでしょう。

しかし、中国においては墓所の鎮守(にも?)が主な役割のようです。
もちろんこれも地神の機能の1つではありますが、農耕とは少々意味合いが異なります。

数多くある神奈川の地神塔の中で例外と思われるものを2つ

横浜市中区大芝台、中華義荘
イメージ 1中華義荘は横浜中華街を中心とした華僑の人々の墓地で、観光地ではありません。

「本山后土之神」。

中国人墓地はいわゆる外国人墓地の中にありましたが、明治25年に分離独立の墓地となったそうです。この后土神塔はそれ以降の造立のようで、墓地の守護的な意味合いと思われますが、最高所にあります。

これを見てしまうと、地神ではあるが農耕とは完全に違うと身に染みます。
もしかしたら日本の后土神塔も、近くに埋墓もしくは参墓などがあったのではと思いたくなります。
が、そもそも后土神を神奈川に広めたのが、どこの誰なのか謎。

墓地つながりでは、まとまった中国人墓地は長崎の方がはるかに早く、慶長7年にはあったようです。その中国人墓地には「土神」と彫った后土神と同じ意味合いの石塔があり、商売繁昌の御利益もあるということから日本人墓地にも作られるようになったそうです。ただし墓地のみで農村部には無いようです。

横浜に外国人が住むようになったのは安政5年の通商条約以降で、直後あたりから外国人墓地が作られています。神奈川県内にある后土神塔の初出がそれ以降ならこの影響も考えられますが、安政5年以前のものもあります。



上記の后土神と似たような存在に土公神もあります。
土公神も道教由来で、中国では家を建てる際などに祭祀されることが多いようです。
こちらは比較的早い時期から日本に伝わっていたようで、陰陽道にも取り込まれ、春は竈、夏は門、秋は井戸、冬は庭の地中にいて、その時期に土公神の居場所となる土を掘り起こしてはいけないことになっていたようです。
社日塔のルーツはこのあたりでしょう。こちらは中国道教の祭祀からそれほど乖離していません。
この理解が誤りでなければ、確かに地神の一種ではあるが農耕の気配は少ない。

南足柄市向田361付近
イメージ 2舟形二臂立像
奉祭土公地神子孫長久祈所
元文五庚申天八月大吉日 遠藤氏


稲荷などを除く、神奈川の地神塔としては最古級のようです。
銘文だけで判断すると、作神ではなく土地そのものに対する祭祀目的です。
もちろん、地神信仰は土地全般にまつわる全てが対象であると見なせば問題はありませんが、単純にひとくくりにはできないかも…。

地神塔にはルーツすら不明な天社神とかもありますから、こんな細かいことは無視してもいいのかもしれませんが(笑)。





●正覚寺系地神塔
文献では正覚寺型に分類されることもあるタイプ。
正覚寺は横浜市都筑区茅ヶ崎にある真言宗寺院です。
こちらが御影を出していたかなどは調べていません。

イメージ 6イメージ 7





















左:横浜市都筑区茅ヶ崎東3-12-1正覚寺/文化13年(1816)。
右:伊勢原市東富岡357八幡神社/天保8年(1837)「地神尊」。

この2基が同じ系統で、神礼寺系とは異なると見なされるのは矛と花盛器の持ち手が違うからのようです。しかし正直よく判りません(笑)。
神礼寺は右手に矛/左手に花盛器。
正覚寺は右手に花盛器/左手に矛。
なお、正覚寺がある都筑区の地神掛軸は持ち手だけだと神礼寺系という謎なことになっています。
細かい話ですが、神奈川県内に現存する地神刻像塔より古い館林市茂林寺の元禄7年塔
、持ち手だけの分類だと正覚寺にある地神塔とほぼ同形です。

イメージ 1茅ヶ崎市田端1235/
安永3年(1774)「地神講中」。

地神研究の資料によるとこの安永3年塔は、神礼寺とも正覚寺とも違う系統と分類されています。

見た目で分類するのはなかなか難しそうです。
しかし明らかに違う地神刻像塔もあります。

女神像とされているもの。
堅牢地神は本来女神なので、こちらが正統なのかもしれません。









イメージ 2イメージ 3イメージ 4














左:横浜市緑区鴨居6西谷戸稲荷/享和3年(1803)「地神」。
中:横浜市瀬谷区下瀬谷1全通院/天明3年(1783)「堅牢□□」。
右:大和市上和田1168左馬神社/寛政3年(1791)「地神供養」。

イメージ 5中と右のボロ塔は手に盛花器を持つ女神とされています。
鏡智院の御影が参考になります。


地神の掛軸だともっと多様になりますが著作権の問題で画像を貼れません。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/yhm_publicc/yhm.html
こちらの「館内の文化財」「キーワード」で地神と入れると掛軸を数点見る事ができます。
掛軸には武神や女神ではない鍬と槌を持つ神像があります。春秋社日祭文を書いているものもあり、社日塔と同じ5柱の名前があるので、神道系のものと思われます。





神奈川における作神の信仰は、稲荷は別にして、后土神、天社神、社稷神、土公神、社日塔、堅牢地神、地神文字塔、地神刻像塔などが、庚申信仰と入れ替わるように江戸の中後期から増え出し、明治初期あたりまで最盛期でした。
全く同じタイミングではありませんが、一気に色々な種類の作神信仰が登場して広まって行きます。
背景には新田開発などで耕地が増える→石高が増えて年貢も増える→実際には農業技術不足や天災などで、それほどの実りが得られない。といった切実な部分があるのかもしれませんが、験のある作神を求める人々に、神道、仏教の各派が応えようとした結果、まるで違うジャンルのように色々な名前の神が登場することになったのではないかと想像しています。
もっとも、これらのほとんどは地元ローカルであり、他国への広まりはないガラパゴスな信仰です。全国で見られる地神も、珍しい刻像塔が多種。
庚申塔の初期に主尊が定まっておらず、徐々に青面金剛に固定していった流れを彷彿とさせます。
もし明治政府が修験を禁止しなかったら、地神刻像塔はもっと細かく色々なタイプが作られていたかもしれません。
イメージ 8
横浜市青葉区しらとり台61神鳥前川神社
二十三夜講による堅牢地神塔。
主尊はおそらく二十三夜の勢至菩薩。
地神といっても文字塔だけで数種類あります。
地神、堅牢地神、地神大神etc。
作神信仰に注目したのは、作神のジャンルだけで多種多様な石塔があり、それが庚申塔の多様さの参考になると思ったからです。
地神の文字塔から宗派色を見いだすのは困難なので、刻像塔を紹介します。
本当は掛軸の方がもっと多種多様なのですが、画像の入手が困難なので手持ちの石造物写真で。

地神自体は、本来、女神だそうで、それがどういうわけか男神の武神スタイルになったものが多く見られます(多いというのは刻像塔の中での比較)。

●神礼寺系地神塔
神奈川(相模国)の藤沢、西俣野に神礼寺という当山派修験寺院がありました。
神礼寺は、同じ藤沢市内の遠藤にあった大験寺の触下(本末関係とは別の、行政単位内での上意下達や管理を受ける)で、この大験寺も地神信仰を布教していたそうです。
しかし、御影(仏像の版画)の普及具合から、神礼寺がとても熱心だったと考えられており、御影を忠実に再現している刻像塔がいくつか現存しています。
と、書いていますが、肝心の御影を探しても見つけられませんでした…orz。

イメージ 1イメージ 2























左:藤沢市柄沢511柄沢神社/文政13年(1830)。 
右:藤沢市藤沢2-4-7白旗神社/天保3年(1832)。



イメージ 3イメージ 4

















左:藤沢市藤沢92庚申堂/享和3年(1803)。  
右:鎌倉市玉縄2-527谷戸根地蔵堂/天保10年(1839)。


イメージ 5イメージ 6




















左:横浜市港南区上大岡西3-12-38鹿嶋神社/文政2年(1805)。
右:横浜市保土ヶ谷区仏向町237杉山神社跡/「斎上地神」文化9年(1812)。


イメージ 7イメージ 8
























左:綾瀬市上土棚南5-5/天保7年(1824)。
右:横浜市泉区和泉町506/文政12年(1829)。

いずれも資料では神礼寺型地神塔とされているものです。
右手に矛、左手に盛花器を持つ男神:武神像ですが、像容が微妙に異なりますので、当山派修験の寺院によって御影が異なっているのかもしれません。
明治に修験禁止となり大験寺も神礼寺も廃寺になっていますが、別当をしていた神社には庚申塔があります。

稲荷系:作神の3/5

あまり下手なことは書かない方が、と思いつつ、作神塔について俯瞰しようとすると避けて通れないのが稲荷です。

江戸の稲荷神社を調べた論文?を読んだことがあるのですが、祭祀の主目的は豊作や商売繁昌ではなく流行病の防止が最多だという結果だったように覚えています。
例を挙げますと、笠森(かさもり)稲荷などは「瘡守(かさもり)」で疱瘡除け、というわけです。

稲荷信仰はかなり早い時期に関東でも広がっているようで、江戸時代以前だそうです。
しかし稲荷は屋敷神のように家ごとで祀るようになったため、作神信仰(=ある程度の数が集まって祈願する講)の形になれなかった、とかなんとか。
※間違っているかもしれませんので鵜呑みにはしないで下さい。
稲荷は恐ろしく深いので本当は避けたい(笑)。

ところが、石造物の場合、こういうものがあります。
イメージ 1伊勢原市三ノ宮2137保国寺

前に狐があることからの推測ですが、いわゆる稲荷神だと思われます。
左手に持っているのは稲の束。
右手は鎌か杵のはずです。

この神像の名前は稲荷神でもあるし、
宇迦之御魂神豊宇気毘売命保食神大宣都比売神、若宇迦売神、御饌津神、倉稲魂命のどれかかもしれません。

イメージ 2














この石仏そのままの絵図も見た事があるのですが、うまく探せませんでした。

この石像は前振りで、本題はこちら。
イメージ 3イメージ 4























相模原市下溝1380
変形八角柱、寛政11年9月
「庚神」
「保食神」(うけもちのかみ)
「真津藤原政春」
「真津藤原霊神」

保食神は広範囲にとらえれば稲荷。そして八角形という変わった塔身と併せると、どうしても「社日塔(倉稲魂命)」を連想してしまいます。
藤原姓は神官の名前ではないかと考えています。
これに「庚神」庚申の神道系の名前が付いているのです。

これとは別に、稲荷神をwikipediaで調べると「佐田彦大神」=猿田彦も稲荷神の1つであると書いています。調べた範囲では猿田彦を作神として祀る例はあるようで、中には豊漁の神として祀る例もありました。
猿田彦は庚申の神道バージョンでもあり、かなり紛らわしいというより、もう区別不可能とも言えますが、神奈川にはこういう石塔があります。

イメージ 5伊勢原市大山908付近
六角柱塔、嘉永元年秋
「差累他毘己お保可微」
道標

さるたひこおほかみ=猿田彦大神。
道標になっているので道祖神かもしれませんし、年代的に庚申かもしれませんし、後に天社神塔があることから作神かもしれません。
あるいは全部ひっくるめたものかもしれません。

個人的には六角柱に注目しています。








妄想が広がりすぎていますが、この○角柱(5~8)は、六地蔵とか六観音塔の例はあるものの、あまり多くない形。
社日塔の影響があるのでは、と考えながら、以下のような例に出会うとますます妄想が広がります。

イメージ 6イメージ 7













イメージ 8









秦野市渋沢上2-2
天明3年10月
「庚申塔」
八角形の台石に三猿

庚申塔の台石に八角形は珍しいです。
そして、横には新しい「地神塔」。
集落内の狭い辻ですが、ずっと昔から場所が変わっていないのだそうです。

まとまりが無くてすみません。
混乱しているのが明白な内容ですが、とりあえず触れておかないと次の地神塔へ展開できないのでお許しください。
地神信仰もさらっと流す予定ですが、それでも色々ネタがありすぎてUPは未定です。

作神の一種、后土神。
イメージ 1后土(こうど)神は道教における地母神。
小田原市を流れる酒匂川が作った沖積平野の「足柄平野」は一面が水田でしたが、大雨になると洪水になっていたそうです。
后土神塔は足柄平野に集中しているとか。

中国には今も全く同じ文字が彫られた石碑があるようです。





后土神
イメージ 2后土神塔は相模川流域の農村部でも見ることができます。
全体の編年を作れば、伝播の流れが判るでしょう。
そこまで調べる余力は今の所ありませんが。

なお、后土神と似た名前として「土公神(どこう)」というのもあります。
見たことはあるのですが写真を撮っていないのでいずれ別の機会に。





















社日塔
イメージ 3イメージ 4イメージ 5
















社日塔は社日(春分、秋分の日)に祭祀を行う信仰に基づくものです。
主に五角柱に五柱の神名を刻むことが多く、六角柱のものもありますが、一面には願文などが彫られているようです。
神名は天照大神/少彦名命/大己貴命/埴安媛命/倉稲魂命となっています。
神名の内、倉稲魂命は蒼稲魂命、稲倉魂命と書くことも。

イメージ 6この社日信仰は大江匡弼(オオエ・タダスケ)という神仙道学者らしき人が天明元年(1781)に書いた「春秋社日醮儀」(しゅんじゅうしゃにちしょうぎ)から始まっているそうです。
「春秋社日醮儀」には、春秋の社日ごとに祭祀を行えば「天下泰平国家安寧五穀成熟萬穀豊饒家門繁昌子孫長久無病息災金銀米銭珍貨奇寳充満せんて掌をかえすより易い」とし、塚を作る際は東西南北で土の色を変えろとか、こういう形にしなさいとか、儀軌的な事が色々と書かれています。

庚申信仰も同じですが、暦がしっかりしていないとできない信仰ですので、江戸時代になって一般も自由に暦を購入できるようになったことが、信仰の広まりを支えるインフラになっていたのでしょう。
相模国は三島暦をずっと使っていました。

なお、驚くことに神奈川の社日塔は「春秋社日醮儀」が京で上梓されてから数年で造塔されているそうです。大江匡弼がどれくらい影響力のあった学者か知らないのですが、「春秋社日醮儀」を読んだ宗教家がすぐに持ち込んだのでしょう。
この伝播力の速さと広まり方は庚申信仰も同じだったのでは、と想像させてくれます。

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