庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

小田原市

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江之浦村で小田原市は終了。南隣は真鶴になります。
イメージ 1










明治期の史料には、ミカン栽培と石が主要産業と書いてあります。
石は玄蕃石の名で出ていますが、詳細はよく判りません。総称としての小松石と同じと思われます。

風土記稿の時代、27戸。割付高43石。
嘉永年間28戸、166人。
明治初期で33戸、214人。漁船4。

イメージ 3宮は蔵王社(鎮守)、八王子社、山神社。
寺は曹洞宗の昌満寺。
堂は観音堂(天保期に焼失)。

これらの寺社堂の所在地は、蔵王社と八王子社が海沿い。観音堂は421番地にあったようですが、1960年代の空撮写真でも集落は確認できません。
この情報からだと、江之浦村の集落は熱海街道沿いで昌満寺がある集落を中心として、海沿い、尾根を1つ越えた川筋あたりにもあったと思われます。
現在の鎮守は大美和神社で蔵王も祀っていますが、由緒には無かったものの、海沿いから移設されているのかもしれません。
現在の中心となる集落から海沿いへは急斜面で行くのを止めましたが、これを書いていて、観音堂跡も含めて未調査エリアが随分あることに気がつきました。

写真は江之浦の「さいのかみ」にある石仏。


村のトピックとしては天正庵跡。
秀吉が千利休に作らせた茶室がありました。
小田原攻めの際に余裕を見せた、という所でしょうけれど、小田原城からは7km近くも離れていて、呼ばれた諸将は1日がかりだったのではと思ってしまいます。
全くの余談ですが、何かの小説で、ここで秀吉を接待した利休が意見めいたこと言い、それが原因で切腹につながったというストーリーがありました。小説ではありますが、跡地と景色を見てちょっと感傷的になりました(笑)。

相翁の松付近
イメージ 2板碑三猿塔
寛文2年10月20日(庚申日)
「種亮重罪五逆消滅
 一切無性即心成佛」
相模州足柄下郡早川庄江浦村
三猿。

偈は観音句「種種重罪 五逆消滅 自他平等 即心成仏」と似ています。

相翁松の場所は、一応、最大集落の外れになるようですが、ここの石碑は明治40年に建立されたものです。庚申塔と並んで石祠がありますので、もしかすると山神社なのかもしれません。また、村の南端の字小山王の高地に大松があり名勝だったようです。山王の名が付いていますし、こちらの方が可能性としては高いですが、相翁の松が該当しているのかどうかは不明。大美和神社の祭で地元の皆さんに質問してみましたが、伝承のようなものはご存知ありませんでした。


https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39095208.html


根府川石の丁場が多くあった根府川村。
イメージ 1







風土記稿の時代、41戸。割付高61石。
寛文11年は35戸で本百姓は18戸でした。
嘉永年間43戸、214人。
廻船も1艘記録されていますが、石の運搬に使われていたのかもしれません。

根府川石の丁場は米神村にもありますが、西の山で村の境あたりだと風土記稿にあります。空撮写真だと西の山中にそれらしきハゲ山が見て取れます。丁場は複数あり、そのうち3つは名主持ちだったようです。

緻密で堅牢な石質であり、剥落もせず碑石に使われていると風土記稿に書いてあります。
根府川で庚申塔を探した際、絶対に根府川石の板碑だろうと思っていましたが、見つけられたのは石祠型でした。

イメージ 2根府川には関東大震災と大雨による土砂災害で埋まってしまった釈迦堂がいまも半地下状態で残っていますが、急峻な土地なので路傍の石仏は流失している可能性が高いです。
寺社堂を一応探しましたが、沢山あっておかしくない伊豆型道祖神もほとんど見かけませんでした。

宮は鎮守の寺山権現社の他に、熊野社(末社に山王、乳母神、天王)、山神社。
寺は曹洞宗の岩泉寺(万治年間に流失して移設)。
堂は地蔵堂(現在は釈迦堂とされている)。


寺山神社
イメージ 3石祠
明治12年6月
「村内安全」
世話人柏木喜三郎
石工宮本助次郎
三猿。


伊豆型道祖神3基と一緒になっています。
以前にも書いていますが、祭の時に氏子衆に質問してみたものの、石祠も含めて道祖神という認識でした。
熊野社も鎮守だったようですが、どこにあるのか判りませんでした。明治の史料には出て来ないので、寺山神社に合祀されているとしたら、石祠が山王社なのかもしれません。
なお、根府川に庚申講は残っていません。
https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39095151.html
根府川石の丁場がある米神村(こめかみ)。
イメージ 1








風土記稿には、弘法大師が食事をとろうとしたが、火が使えず、生米を食べたことが地名の由来とあるが、論ずるに足らず、と書いてあります。

風土記稿の時代41戸。割付高67石。
嘉永年間だと45戸で242人。
村の産物はミカンと石。農業の間に漁業もやっており漁船は8。

イメージ 3宮は八幡社(鎮守)、山王社、山神社。
寺は真言宗の正寿院と日蓮宗の日迢寺(廃寺)。
このうち山王社は八幡神社境内にあります。木祠で木札が納められているだけでした。
向って左が山王社。

八幡神社境内には伊豆型道祖神が大量に集められています。

米神は既知の資料に庚申塔が無く、町内の寺社にもありませんでした。なぜ無いのか不思議だが、地勢として大雨などで土砂崩れがあった土地でもあるので、それで逸失しているのだろうと推測していました。

ところがブナの森さんによって1基発見がありました。

米神12付近
イメージ 2舟形三猿塔
元禄7年10月
「ア 奉造立庚申供養為各二世安楽」
施主 相列 講中五十人 米神村 敬白
三猿。


元禄年間の史料に出会えていないため、当時の戸数は不明ですが、天保年間で41戸なので、元禄当時の全戸参加による庚申講だったと思われます。
石材は根府川系。

同所には安政10年の自然石称名塔、常夜灯残欠もあり、小規模ながら石垣が組まれた場所にあります。
江戸時代の熱海道から集落へ降りる道だったような感じですが、現在は薮となっていて、場所の意味を求めて近所の方に質問してみました。
しかし、存在をご存知無く、上へ登る旧道のはずだが、関東大震災で線路から上は土砂崩れのために地形が変わっているので、江戸時代にどういう場所だったのかはよく判らないとのことでした。

https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39095130.html
早川村の南隣になる石橋村。
イメージ 3








風土記稿には「熱海道南北に貫けり。路幅1間或は2間。この辺より以南は皆山腹を通ず。路嶮隘なり」とあり、産物はミカンと青芋(里芋)と書いてあります。

風土記稿の時代、37戸。割付高69石。漁船5。
他の時代も戸数は大差なく、嘉永年間は37戸で750人。橋船が3艘ありました。明治年間になると漁船は14になっています。

風土記稿の宮は子神社(鎮守)の他、山神社と道祖神社、稲荷社。
寺は宝寿寺(真言宗)。
堂は地蔵堂で本尊は石仏。
他史料では明治年間だと子ノ神社が鎮守とあり、それしか記載がありません。道祖神は別の場所にありますが、山神と稲荷は合祀されたと思われます。

石橋村のトピックは、なんといっても頼朝が挙兵して速攻で敗れた石橋山の合戦場があることでしょう。
挙兵というと平地でエイエイオー的なイメージがありましたが、こんな斜面の見通しの悪い場所だったのかと意外な印象だったのを覚えています。
石橋山の中腹にあたる現地には佐奈田霊社や文三塚が残っています。熱海古道だったようです。

集落は早川村に近い谷筋に展開。
崖下を通る熱海道沿いの北端、早川側に庚申塔

石橋バス停付近

イメージ 1駒形三猿塔
紀年銘不明
「庚申塔」
三猿
台石にも三猿。


土留めの金網の後ろにあるので見つけにくい。

現存する駒形塔はおそらく再築です。
台石が古くからあった庚申塔の名残でしょう。
崖下にあるため旧塔は土砂に流されたのかもしれません。
台石も完全に埋まっています。











イメージ 2櫛形三猿塔
明治21年12月
「庚申塔」
三猿。

これも再築ではないか、という気がします。

余談ながら石橋の道祖神祠は熱海道の南端にあります。
主要街道の出入り口を庚申と道祖神が護っていたことになるのかも。
※宝寿寺や子神社にも信仰がらみの石造物はあります。




https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39093622.html
早川村南部。
庚申塔があるあたりは西組になるようです。
西組には戦前まで庚申講が続いていたようです。

地蔵堂(紀伊神社手前)裏
外観では判りませんが、庚申塔があるのは地蔵堂の敷地内になるようです。
各種資料には紀伊神社参道、もしくは紀伊神社手前と書かれています。
この地蔵堂は紀伊神社の隣にある正蔵寺の境外堂宇です。

イメージ 1舟形合掌青面金剛
享保15年10月25日(庚申日)。
「奉祥庚申供養」
施主同行□七人
単体。


□七人の□部分は「念」「全」「含」などに見えます。「念」なら27人と読むべきかもしれませんが、人数が多過ぎます。

庚申塔の残り方から推測すると、西組には複数の講があったと思われます。
















イメージ 2角柱三猿塔
寛延3年11月21日(庚申日)
「アーンク 奉造立庚申塔」
台石に三猿。


この三猿はもしかすると青面金剛塔の台石だったのかもしれません。















イメージ 6角柱三猿塔
安永5年10月22日(庚申日)
「アーンク 奉待庚申供養塔」
三猿。


地蔵堂にある3基はいずれも庚申日を選んでいますが、隣接する正蔵寺境内の3基はその限りではありません。
西組の中に2つ以上の講があり、1つは地蔵堂、1つは境内と分けて移設?した可能性はありますが、まったく違う理由かもしれません。















正蔵寺
正蔵寺は真言宗。早川観音の真福寺の末寺になります。墓地内に常夜灯があり、大型石祠の後ろに石仏群。
正蔵寺訪問時は無住と言われた記憶があるのですが、住職はおられるそうです。
墓地内なので訪問時は一言断りを入れるべきでしょう。

イメージ 3駒形三猿塔
宝永3年11月6日(庚申日)
「ア 庚申供養塔」
4名
三猿。


庚申塔がある場所は、本堂が昔あった場所、という話しを現地で得ていますが、本寺の真福寺様も檀家衆も石祠が何かなどはご存知ありませんでした。

















イメージ 4駒形三猿塔
享保10年9月4日
「ア 為庚申供養菩提也」
施主六人
三猿。


意味の判らない造立年月日です。4日は阿閦如来の縁日ですが、正蔵寺本尊(不動)や庚申とは関係ありません。














イメージ 5櫛形三猿塔
宝暦8年10月
ウン? アーンク 奉造立庚申供養塔」
三猿。


正蔵寺の3基は各種資料には漏れています。
地蔵堂が正蔵寺の境外堂だと判っていたので、念のため訪問したところ、墓地内に気になる石祠が見えたので出会えました。
今年の6月頃、小田原市立歴史資料館主催の石仏調査で見つけられています。
これを見つけるくらいなので、今後の調査に期待しています。







https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39093535.html

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