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鴨宮649付近の道祖神場 頭部落ちの合掌猿像と思われます。 享保十七天 上大井村。 小田原市内に丸彫り猿像は酒匂と浜町宗福寺にもあります。 どちらも単体。山王社に奉納されていたとすると対だったのではないかと思いますが、なぜか単体でしか残っていません。 これも単体で、鴨宮村に2つあった山王社のどちらかに奉納されていたのかと思いきや、上大井村の銘がありました。 上大井村は現在の大井町上大井。実は上大井に庚申塔は見つけられていません。 でも、それが鴨居にある理由は見当がつきません。 この鴨居の道祖神場には名不詳の石祠が祠内に納められています。山王らしさはありませんが、仮にこれが鴨居村にあった山王社の1つだったとしても、この程度の規模の神社になぜ上大井村から奉納が?というわけで色々謎です。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38773868.html |
小田原市
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成田で「なるだ」。鎌倉時代にはあった村だそうです。
風土記稿の時代98戸。朱印高1124石。 空撮写真の成願寺入口交差点から東成田交差点とつながるR718沿いが成田村の中心。 明治29年地図だと空撮写真の「成田西交差点」の西側に成田西という集落があり、別村のような配置になっています。 風土記稿の小名は下成田、大源寺、早川寺、南庭、中庭、北庭の6つ。 大源寺と早川寺(大昔に寺があった)はまとめて1つですが、南庭を除く小名4つに鎮守がありました。これらは現在、三島神社に合祀されているのかもしれません。 したがって、現在の三島神社にある庚申塔がどこの小名のものかは不明です。 小名大源寺と早川寺の鎮守だった三島社は別当が当山派修験の多寳寺でした。 他は下成田が諏訪社、中庭が市ノ宮社、北庭が第六天社。後者2社の別当も多寳寺。 寺は多寳寺と成願寺(曹洞宗)、米穀寺(時宗)。米穀寺は風土記稿の時点で無住。堂守に磐打(鉦を叩く念仏行者)がいただけでした。成願寺がある地域は小字「諏訪脇」なので、その一帯が下成田なのでしょう。 全くの余談ですが道祖神は6基残っています。 江戸時代、耕していたらクツワが出たので祠に納めて祀ったようですが、現在の石祠内には木札が納められているだけでした。 三島神社 紀年銘不明(資料によっては文化十二亥年) 「庚申塔」 2名? 石質の問題と、訪問するたびに日光の具合が悪く、紀年銘らしきものを見つけられていません。 庚申塔以外の文字は側面にある人名らしき2行のみではないかと思います。 成田村は享保19年の洪水で村毎「亡所」になった6村の1つ。残っているとすれば、他村同様、それ以前の庚申塔だろうと思っていましたが、文化12年だとすると、その点でイレギュラーなことになります。 ただ、表現は悪いですが文字の刻みが下手ですし、後年の再築の可能性はあります。それにしては人数が少ないですが。 同所には石祠残欠もしくは笠付残欠と、自然石の「建埴安神(=地神)」もあります。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38770194.html |
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村の半分が坂東観音霊場の五番札所、飯泉観音の寺町だった飯泉村。
風土記稿の時代は81軒。寺領が含まれているのかどうかは未調査ですが、朱印高931石。割付高はそれより多い時代もありましたが、宝永噴火以前の石高を440石とする資料もあります。 寺領以外の集落は寺の北側にまとまっていたようです。 宝永噴火後の享保19年に酒匂川の洪水があり、飯泉村を含む6村が「亡所」になり助郷ができなくなったため、それまで免除されていた他村に助郷が命じられるようになったことが複数の村の古文書に書かれています。 空撮写真でも判りますが、酒匂川の脇にありますので被害は相当大きかったでしょう。 他の村の記録では家が泥に埋まる程で、遠く離れた村へ集団避難したことが書かれています。 見つけられている庚申塔は飯泉観音の3基。 こちらについては既に書いていますので省略。 庚申銘のある梵鐘もあります(同上)。 村が亡所になるほどの被害があったので、これらも一度は川の泥に埋まっていたことがあるのでしょう。ただ、その割にという言い方も変ですが、飯泉観音の北側(集落)の旧道沿いには道祖神が10基前後も残っています。 余談ですが、酒匂村の庚申塔群がある場所が山王社跡だとすると、南蔵寺の持ちだったことになりますが、飯泉観音(勝福寺)は南蔵寺の本寺でした。 飯泉村の鎮守八幡神社は末社に山王があったようで、現在境内に残っている3基は山王との関係があるのかもしれません。飯泉は、現在も残っているのかは不明ですが、近年まで庚申講が続いていたようです。 これも以前に書いていますが、もう1基、延宝3年塔を記録している個人資料もあり、数回再訪して探していますが見つけられていません。 飯泉観音(勝福寺)には、とにかく石造物が多いので、見逃している可能性は充分にあります。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38765106.html |
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酒匂堰と下菊川に挟まれた矢作村。
空撮写真だと矢作の西を流れている細い川が下菊川で、自然地形。 矢作の東を南北に流れているのが酒匂堰(さかわ・せき=用水路)。 後北条氏は小田原城下の上水を得るため、通称「小田原用水」と呼ばれている上水道を作っていますので、近いものは後北条時代からあったのでは、と思いますが、堰は神奈川では足柄平野でしか使わない呼び方のようで、小田原藩初代の大久保氏によるものとされています。 風土記稿の時代、31軒。朱印高215石、割付高240石ほど。 集落は菊川天満宮の辺りに固まっていたようです。 狭い地域に31軒の規模ですが、鎮守は浅間社と山王社の2つ。浅間社は中里村の鎮守でもあったようです。山王社の神体は延宝7年の石像で庚申塔。 こちらについてはすでに書いているので簡略。 寺院は浄土宗の春光院と真言宗の増福院(廃寺となり観音堂として現存)。 菊川天満宮は伝説に基づいて明治に創建されたようです。 郷土資料に、山王社神体の庚申塔は別にもう1基、春光院から浅間神社の間、道標と並んで庚申塔が1基あると書いています。道標は残っていますが単独で、記述が間違いでなければどこかへ移動してしまっているようです。 角柱 紀年銘不明 正面 右 大雄山 富士山 道 左 小田原 講元栄□ 人名? 左側面 左 東京道 □□ 講元坂東□□ 人名? 右側面 右 大山道 庚申銘は無いようで、ちゃんと読んでいませんが、道標自体は明治以降と思われます。たいした距離もないので寺社を含めてローラーをかけましたが見つからず。 近くに文字道祖神や堅牢地神と風化で何も読めない自然石が並んでいる場所はあります。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38765032.html |
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調査不足でネタがありません。 貞享2年の石高762石。 安政2年の割付高843石、朱印高803石、80軒。 風土記稿の天保期は78軒。 朱印高は年貢や助郷の対象になる公式石高。割付高は実質の実入り。 民戸が並ぶ地域は微高地で、酒匂川の洪水被害も田畑は壊滅的だったでしょうが、宅地被害はほとんどなかったのではないかと思われます。 風土記稿の小名は上鴨と下鴨。 空撮写真の真ん中を東西に走る道は江戸時代からのもので「巡礼街道」と呼ばれています。西隣にある飯泉観音への巡礼道で、国府津との間には鴨宮村しかありませんでした。 巡礼街道には大量の馬頭観音が集められている場所もあります。 巡礼街道の北、矢作村の隣で、ほぼ別村のような位置にあったのが上鴨。 現在の鴨宮駅周辺は下鴨。 鴨宮の地名由来になっている鎮守の賀茂神社は下鴨に現存しています。 割と豊かな村だったと思われますし、洪水被害も集落には無かったと思われるのに庚申塔は上鴨に1基のみ。村の中心だったはずの下鴨では見つけられていません。どこかに隠れているような気がします。 上鴨、下鴨のどちらかは不明ですが戦後になっても庚申講は続いていたようです。 鴨宮476日枝神社 貞享4年9月 「キリーク・サ・サク 奉造立山王大権現」 相列足柄下郡加茂宮□中 三猿。 独特な彫りの三猿です。 鴨宮村の上鴨の北端。神社裏手は崖。鴨宮村には村持ちの山王社が2つありました。その1つが日枝神社になったようです。 社殿内に浅間大神の自然石文字塔、何かの石祠と一緒に祀られていますが、覗き穴から確認できます。 本殿脇に唱名塔、堅牢地神、双体道祖神。 鴨宮村の寺院は浄土宗が2つありましたが、どちらも小さかったようで、本寺の春光院(矢作村)か、当山派修験の壽明院(賀茂社付近)の影響が考えられますが、堅牢地神があるので壽明院の関与の方がありうるような気がします。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38753181.html |




