庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

小田原市

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
荻窪村を含め、海沿いまでの範囲は村域が不明です。
イメージ 1






小田原市は明治以降、町村合併があり、村名が使われなくなっている所もあります。
荻窪村は蘆子村>足柄村と名前が変化し、昭和以降は細分化されて江戸時代にはなかった町名が付けられたため、村域が不明瞭になりました。
荻窪村は現在の荻窪に加え、扇町、栄町、城山、中町の一部も含んでいました。
小田原市全域の小字地図は、土地宝典以外にあります(一部を見たことはある)が、つてを頼って探しても出会えませんでした。土地宝典はともかく、小字地図は公開されても良いと思うのですが…。

風土記稿の時代、156軒。割付高は660石ほどだったようです。
荻窪村は大きな村域を持っていたのですが、郷土資料も史料も詳細なものに出会えていません。
小名は寺町、駒形、宮窪の3つ
明治地図で「荻窪」となっているあたりは小名「駒形」。地理院図の中央上部に「宮久保」。ここは久野村の集落と接しています。明治地図の右端に「寺町」。寺町は甲州道沿いなので、商家が多かったと思われます。

鎮守は市方権現社。他に宮は寺境内にあるものを含めて7社。
寺は17。宗派は多い順に曹洞宗6。日蓮宗5。浄土宗3。臨済宗2。真言宗1。
この内、現存を確認できているのは曹洞宗3。日蓮宗3。浄土宗1。臨済宗1。真言宗1。

荻窪村のトピックは荻窪用水らしく、これについての資料はいくつかあります。
風土記稿には湯本堰として掲載。
「一名手段堰と唱ふ。享和二年領主新に疎鑿せし所なり。湯本村温泉場の西北にて早川を堰入。入生田村に至て山腹を鑿空して水を通じ、風祭村より水野尾村に到る。水路凡二里。水野尾村にて二派となり、一は堤池田両新田及荻窪村に沃ぎ、一は板橋村に達す」。
もう少し足すと、酒匂川の堤防工事の経験があった大工、川口広蔵が荻窪村で水が少ないと聞いて工事に着手。それが天明2年(1782)。「山腹を鑿空」、つまりトンネルを掘って水路を通したほどの大工事で、20年を要し享和2年(1802)に完成したようです。実際には、これとは別に小田原藩が工事した溜池なども尾根筋に残っているので、事情はもう少し複雑なのかもしれません。
いずれにしても、これによって荻窪村は大きく変わったことでしょう。風土記稿の時代はそれから数十年経ているのですが、用水に関する記事はありません。村明細帳などが残っていれば、ほとんど畑だった農地が田に変わっていることが判ると思います。

庚申塔探索で歩いていると、結構な斜度のある山向うから水を引いていることが判って、ただただ驚きます。
今でも使われていて、むしろ水の豊かな土地のイメージすらあります。めだかの学校の歌のモデルになった(とされていた)ことを記念した水車小屋なども残っています。

小名「駒形」の庚申塔
荻窪1384付近、日透上人墓向い
イメージ 2駒形三猿塔
享保元年11月
「奉造立庚申塔」
敬白 同行 九人
三猿。

この場所が何なのかよく判りません。江戸時代からの道であろうバス通りから外れ、少し坂を上った場所。同所には念仏供養塔、双体道祖神、常夜灯残欠があり、向い側に日透の墓があります。
常夜灯があるので、何かの参詣道だったはずですが、明治地図でもこれといったランドマークは確認できません。
可能性としては道を登り切った場所に神社か、廃寺になった寺(日蓮宗)があったか、くらいです。

日透上人は不受布施派だったため処刑された伝承があるようです。不受布施派に対する幕府の締め付けは厳しく、寺が廃寺になった例もあるようですが、日透が住職をしていた浄永寺は板橋に現存しています。


小名「宮窪」の庚申塔
荻窪574付近、三社神社
イメージ 3笠付三猿塔
元禄7年12月。
「卍 造塔講中人徳功二世
 願攸迥志以供養庚申」
願主 敬白
村中 同行 8名
三面に猿。


風化がきつく、銘文は間違えている可能性があります。

この庚申塔は3年前まで荻窪583の「たかん堂」にありました。たかん堂は地蔵堂でしたが、宅地造成され、三社神社の境内へ移設されました。

こちらは庚申講は終っていましたが、近年まで青面金剛の掛軸は残っていました。もっとも集落の方々はそれが庚申の掛軸だとはご存知ありませんでしたが。

三社神社は風土記稿にありません。名前からして荻窪村にあった神社を合祀したことは判りますが、風土記稿を見ても1つが稲荷くらいしか見当がつきません。
そもそも、たかん堂も風土記稿では見当が付けられません。
もっと取材しておけば良かった(笑)。






小名「寺町」の庚申塔
扇町1-5大聖院
最初に、大聖院には5基の庚申塔があります。資料によっては6基としていますが、個人的には1基を除外しています。
この5基の内、施主が明確なものは2基あり、1基は他村なので別途ブログにします。
残る3基は施主不明。お寺様によると、無住に近い時代がしばらくあったようで、文書なども失われているため詳細は全く不明とのことです。庚申塔群が並んでいるのは不動堂の前で、その不動は大きくて立派なものなのですが、その由来も不明だそうです。
ただ、御檀家様は荻窪だけでなく海に近い方まで広がっているとのことで、実際に他村の庚申塔もありますし、荻窪村の講中によるものでは無い可能性も充分ありますが、とりあえず荻窪村に入れておきます。

古い順に。
イメージ 4自然板石文字塔
万治2年2月29日(庚申日)
「ケンウンラビア 為庚申供養也」
蓮弁線刻
5名。


真言宗寺院にあって違和感のない1基。
施主名部分が埋まっていますが姓名のようです。
荻窪村の名主の苗字などを調べ切れていませんが、5人というのは初期の庚申塔として良い感じの数。

スペースが余ったので。
大聖院の庚申塔から除外しているものは、智拳印の大日立像、元禄2年塔です。
銘文が剥落していて「元阿休庚□□〜」となっているので、庚申とする資料があります。しかし庚の前の部分からすると墓石ではないかと考えています。






イメージ 5舟形来迎院阿弥陀立像
延宝3年10月15日(阿弥陀の縁日か)
「キリーク 奉造立庚申供養各二世安楽」
願主敬白


小田原市内の庚申塔で阿弥陀の刻像を主尊とするのは、これ1基しか知りません(文字はある)。唱名塔は浄土宗寺院にあります。
そして、荻窪村にも浄土宗寺院はありました。
大聖院の庚申塔群の由来がはっきりしていないので想像ですが、複数宗派の村民が組んでいた講で、浄土宗檀家が多かった集落から持ち込まれたのかもしれません。

余談ながら荻窪村の浄土宗安楽寺(荒神山国土院)には荒神社があり、神体は鉄鏡で、荒神を鋳出したものです。風土記稿に絵図が出ています。
イメージ 6












イメージ 7舟形釈迦座像
延宝8年8月15日
「バク 奉造立庚申供養為二世安楽也」
衆中敬白。


良い顔をしていて好きな庚申塔です。

種字バクなので釈迦座像としておきます。釈迦主尊の庚申塔は個人的見解ではありますが小田原市内2基目。
釈迦が主尊となると、やはり禅宗の影響を考えたくなります。

ただのこじつけですが、荻窪村の臨済宗伝心庵には稲荷、天神と相殿の山王社が風土記稿に記録されています。祠が現存していたように記憶しています。







イメージ 8駒形剣人青面金剛
寛保2年□月(剥落)
「庚申 講中」
寺町 6名
邪鬼、1鶏、1猿。

寺町は荻窪村の小名。

大聖院は荻窪村に唯一の真言宗寺院でしたが、現在の荻窪とはだいぶ離れています。甲州道沿いの寺町は商家が多かったでしょう。

頭に巻き付く蛇がなかなかのボリューム。
イメージ 9ヒンズー教の行者が似たような髪型をしているのを思い出しました。
青面金剛の原形をシヴァ神とする説もありますが、この髪型は確かにっと頷かさせられます(笑)



https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/39006116.html

古新宿町は現在の浜町4丁目界隈で海沿いです。
イメージ 1





















小田原39の穴部村から海沿いの間にはまだ複数の村があるのですが、庚申塔の所在地は穴部村の隣に位置する多古村の村域内なので、イレギュラー的に古新宿町を入れます。

非常にややこしいのですが、多古村の庚申塔は、もしかしたら、というものが久野にある以外に見つけられていません。

古新宿町は風土記稿の時代144戸。
もともとは新宿町と呼ばれていましたが、江戸時代前期、東海道が町の北に付け替えられ、その街道筋が新宿町になったので、古新宿町に変わりました。
風土記稿には漁者が住んでいて漁船46艘、廻船(600石)2艘と記しており、完全な漁村のような印象を受けますが、古い街道筋ですので商家もそれなりの数がいたはずです(廻船があるので大商人がいたはず)。
なお、貞享年間の史料では古新宿町の漁業水運関係者は73戸いたようです。
嘉永年間は廻船が1、橋船*が52。
*橋船は人や荷物の陸揚げに使う小船。

古新宿町には北條稲荷神社など面白い場所があります。

施主の背景はこれくらいにして、設置場所。
イメージ 2
















飯泉橋西の交差点から土手の車道下についている遊歩道を北西へ100mほど。地元で何と呼ばれているのか忘れましたが地蔵堂だったような気がします。

多古の小字「三丁河原」になる場所で、明治地図と現代地図を比較すると判りますが、現在の飯泉橋より北側に古い橋がかかっていました。
古くは飯泉橋西交差点あたりから北西へ曲り、飯泉方面へ渡っていたわけです。
この地蔵堂らしきものは古い橋の袂付近になると思われます。
イメージ 3

















「地蔵堂らしき」としているのは、地蔵ではなく伊豆型道祖神ではないかと考えているからですが、詳細は判りません。
水神が2基あるのは土手沿いなので理解できますが、なぜかここに古新宿町の庚申塔が紛れ込んでいます。

イメージ 4板碑三猿塔
延宝6年2月
「奉待御庚申 所願 成就」
古新宿町 講中 敬白
三猿。


土手や橋の整備には近郷諸村が金と人を出しますので、もしかすると古新宿町が深く関わっていたのかもしれません。

なお、台石は一具ではなく別のものと思われますが、この台石も面白いものです。
町田村2名、一丁田町1名、當所12名で、ほとんどが女性名です(利兵衛母、同内方など)。
當所がどこなのかは全く不明。もしこれが一具であり、當所が古新宿町だとすると小田原市内どころか神奈川県内でも珍しいものになりますが、念仏講あたりの石造物が以前はあったのでは、という気もします。
https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38980346.html
イメージ 5
穴部(あなべ)の村域は山を含んでいるのでもっと広いですが、中心部の地図を。
イメージ 2









東側に通る大雄山線に沿っているのは甲州道。
甲州道の東側に狩川が流れています。
甲州道の西側は穴部に限りませんが突然3mほど登る地形で、洪水被害を避けた結果だと思われますが、穴部村はその緩い斜面に展開しています。

風土記稿記載の小名は北窪、東窪、西窪、中窪。
現在の小字では西窪以外が残っています。

風土記稿の時代、115石、32戸。
小規模な村で、寺は無く、修験が2つあったのみ。
割付高は120石のはずですが、115石が実質だったようで、天保9年には90石になっています。
戸数は貞享年間だと22戸で、村役人と本百姓が13戸、水呑6戸、山伏2戸。いわゆる高持百姓は13戸だけ。全村で119人でした。
天保年間の戸数の内訳は不明ですが、修験は1だったり2だったりしています。

宮は貞享年間の史料だと「山神」、「うば神」、「さいノ神」となっていますが、風土記稿では「姥権現社」と「山神社」の2つ。「さいノ神」は道祖神のことです。
姥権現社は姥神社として現存。山神社は集落南の山が小字「山神堂」なので、そのあたりにあったと思われます。

修験は荒神山龍覚寺、秀宝院の2つがあり、共に当山派でした。2つの修験のうち龍覚寺は中窪界隈にあったようですが、痕跡は残ってないようです。
龍覚寺は大和永久寺の袈裟下。秀宝院は伊勢世義寺の袈裟下。
小田原の修験最大勢力は本山派で玉瀧坊が袈裟頭でしたが、当山派は中核になる寺院が無かったようです。

隣村に穴部新田がありますが、穴部村と直接的な関わりはなく、中曽根村の村民が河原地を開墾したもの。


姥神社
イメージ 1笠付剣人青面金剛塔
明和4年8月
穴部村 高巌 他に25名
三猿。


この規模の村の庚申塔としては立派で、使っている石が良いのか状態も良好。隣にある十一面観音も良い出来でした。

興味深いのは施主です。高厳は2つあった修験のどちらかか。
残る25名は姓名が記されているのですが、貞享年間の高持百姓13戸と比較すると数が多過ぎます。
天保年間で32戸に増えていますし、貞享と明和では大雑把に80年(天保期で160年)あるので、構成が大きく変わった可能性はあるものの、水呑が本百姓になるにはかなり大変です。高持が分家して25戸に増えたのか、13戸の戸主と嫡子による講だったのか、正解はもっと別なのか謎のままです。

https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38980258.html
小名宮下は現存してませんが、久野村の惣鎮守「神山神社」の「下」という意味で「宮下」だと思われます。
イメージ 1






明治の地図では「神山前」になっている集落と同義だろうと思います。
神山神社は久野村、池上村、荻窪村の惣鎮守でもあったようで、南に隣接する荻窪村の小字も「宮久保」になっています。
神山神社は江戸時代から神職がおり、風土記稿にはフルネームが書いてあります。
現在の神山神社のすぐ近くに御子孫がおられるようです。

また、小名宮下とは違いますが、空撮写真の右上、久野川の対岸に数軒ある場所は小字川縁で、ここに薬師堂と別当の修験来光寺がありました。
現在は薬師堂だけ残っています。

神山神社

イメージ 2笠付三猿塔
□□年5月
正面
「□□〜〜□三哉□
 六財永遷五風随筋□十両□天
 熟業世覚昇楽麻曼延」
左面
「按三屍身中之災覧也其屍
 窺罪至庚申日誥上帝
 其夜大眠不能之故傳□
 □三守三屍伏七守三屍減」
右面

「奥久野神山禅家□當之□民
 於之青面?帝于此□□□午五月四
 覚偈中七守之會随□偈誉就
 祭需銘曰而銘曰保壽山僧石門□□記正□」
三面に猿。


かなり強引に読んでいます。
資料によっては正面の1行目に庚申銘があるとしているものもありますが、とても読み切れませんでした。
比較的文字がよく残っているのは左面。
右面はなんとか読める部分と全く無理な部分が混在しています。特に2行目には紀年銘が入っているような感じです。
最後の行の読みが正しければ、星山の保寿寺の僧侶が関与していたことになりますが、自信はありません。

参考
イメージ 3舟形、双体合掌僧形像
紀年銘不明
「幸神 猿田彦命」

初見時、この銘文を見てドキッとしました(笑)。
小田原の道祖神の中には木祠の中に猿田彦銘の札が納められている道祖神(というより塞神)がいくつかありますので、「幸神」は「さいのかみ」と読むのだと思われます。
純粋な道祖神でしょう。

神山神社の氏子役員さんに、庚申について質問しましたが、何もご存知なく、何か知っているとしたらと教えられたのが風土紀掲載の神職と同姓でした。




久野214角
イメージ 4笠付文字塔
正徳4年11月22日(庚申日)
「奉守庚申 願以此功徳普及於一切 我等興衆生 皆共成佛道 □□□」。


こちらもだいぶ風化していますが、銘は定型文なので、だいたい合っていると思います。
紀年銘は正徳四甲午と十一月廿二日と読みました。他資料は享保や不明としています。
場所の意味がよく判りませんが、隣に馬頭らしき合掌立像と並んでいて、尾根の上へ登る道との分岐になっている場所です。

これで久野村の庚申塔は終了です。
小名「北久保」に石仏群はありますが、庚申塔を見つけられませんでした。


なお、しばらくブログを書けなくなるかもしれません。
小田原が終るまでパソコンが持てばいいのですが。
https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38977106.html
星山は小さな集落で10戸無かったと思われます。
イメージ 1









小さな集落ですが寺が2つあります。
他にはこれといったネタがありません(笑)。
路傍の石仏もほとんど無く、道祖神が1基あるくらい。

2つの寺はどちらも総世寺末の曹洞宗寺院。
総世寺8世が開山したのが保壽寺(保寿寺)。9世開山が星山寺。
集落の規模と墓の規模が合いませんので、久野の他の小名にも檀家がいるはずです。

保寿寺
イメージ 2笠付三猿塔
元禄5年8月?
「奉修庚申供養」
施主六人
三面に猿。

風化がきつく、正直、銘文はちゃんと判読できていませんので、もっと銘文が入っているかもしれません。

これが星山の庚申塔なら、全戸参加の庚申講になるはずですが、他の小名から持ち込まれた可能性もあります。


















これだけで終るのも、さみしいので近隣のネタを。
気になった馬頭観音群です(記事の内容的に住所は伏せます)。

イメージ 3川沿いの祠の中に櫛形、自然板石、丸石などの文字塔と刻像塔が1基。
詳細に調べていませんが文字塔は大正、昭和。







イメージ 4こちらも川沿い。
中央の大きな馬頭文字碑の廻りにあるのも馬頭観音の文字塔と刻像塔。
文字塔は明治以降でした。






イメージ 5大型石祠内の刻像馬頭を青面金剛とする資料がありました。
自然板石の文字塔は昭和がほとんど。
これも川沿いです。






イメージ 6中央の刻像塔は天明7年。馬頭銘がありませんが、上に宝馬が乗っているような感じです。
五輪塔と背後の塚から考えると、上の3ヶ所とは意味合いが違うかもしれません。



最後を除く川沿いの3ヶ所が江戸時代からの場所であれば馬捨場跡でしょう。
詳細を知りませんが、都内荒川区の例では「川沿いの秣場(まぐさ・ば)に馬捨場が設けられ、その場で解体。皮などが製品に利用された。生類憐みの令では、その後の埋葬が求められた」とあります。
具体的に書いてありませんが、皮を製品化したのは長吏の職人。領主が違っていてもこういったシステムはだいたい同じです。
村には定使という、村の雑事をこなす雇われ人がいました(村によっては村民が担当)。推測ですが、馬が死ぬと定使が長吏へ連絡をしていたのだろうと思います。
馬捨て場に馬が埋葬されているかどうかは勉強不足でよく判りませんが、他県では埋めていたという話しを聞いています。もっとも、これは昭和の証言で、江戸時代も同様だったのかどうかは不明。また明治以降、全国的に馬の数はかなり増えますので、場所が不足したでしょうし火葬もあったのではないかと想像しています。

なお、他にも馬頭群がある場所はありますが、明治以降になると事情が大きく変わり、長吏の特権は無くなった上に、馬頭観音塔があってもただの供養塔群であるケースが出てきます。
明治以降、村落で馬の飼育頭数が飛躍的に増大しました。軍馬需要やロジスティクスでの馬利用があったからです。1基や2基だけの場合、中には寺の墓地の個人墓域に馬頭がまざっていることもありますし、個人宅の庭や門前にあることもあります。特殊な例では馬が増えたことによって、草競馬が各地で行われており、そのスタートラインなどに馬頭観音塔が建立されている事例もあります。

余談ついでに秣(まぐさ)について。秣は田畑の肥料、寒さ防止、燃料、牛馬の飼料などに使われるので村の生活にとっては欠かせません。村によって様々で、山が無い土地では河原や田畑の畔から刈り取っていましたし、それでも不足する所では他村へ代金を払って刈取りに行っていました。山もたいていは領主持ちなので、秣のために運上を支払っています。
山は燃料の薪取にも利用されていますが、面白いのは倒幕寸前に領主が村へ山を売り払っているケースがある点です。特に幕末から現金収入の糧として人気がでた養蚕をやっていた地域では、明治政府になった時、山の樹々を伐採している最中で(桑を植樹するためと思われる)、政府へ村持ちの山になっていると訴え出て、認められるまで伐採を中断している事例などもあります。
https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38976485.html


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事