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村の集落が大きく移転した清水新田
村の成り立ちは、慶安年間に飯田岡村の百姓喜左衛門が開墾したことに始まります。 風土記稿の表現を引用すると「河涯の廃地を開発」です。清水が湧き出たので清水新田となりました。 風土記稿の時代、14戸。朱印66石。実質は76石ほどあったようです。小名は硯石、上清水、下清水の3つ。現在使われている小字は北から順に硯石、若宮、中河原、狩川を渡って塚越、屋敷割、鹿畑(飛地)。 鎮守は若宮八幡社。寺は無しですが、飯田岡村に福田寺があります(真言宗)。 村ができた当所は硯石に鎮守があり、若宮に集落があったようです。場所柄、洪水被害は幾度となくあったようで、宝暦年間の洪水で鎮守は狩川を渡った府川村の借地に遷座(現在地)。文政6年の洪水後は、14戸中の5戸が穴部村に家を借りていたようです。 明治29年の地図だと若宮に小さな集落が描かれていますが、古くからの集落で、付近の道祖神場に石仏群が残っています。 ※双体道祖神、天神、地神、水神、馬頭。 空撮写真のエリアで、八幡神社や府川、穴部に挟まれた地域が清水新田になったのは比較的新しいのかもしれません。 八幡神社(水源地入口交差点の南西70m) 紀年銘不明 「□□□二世成願 □□□□」 三面に猿。 読めそうで読めない風化具合でほとんどお手上げです。目利きの人が読めば、銘文はもう少し明らかになるかもしれません。 近隣の他村を参考にすると元禄前後か。 清水新田は上下2組で講事をやっているようで、上下どちらかは不明ですが、庚申講は昭和60年頃までは2ヶ月に1度集まっていたようです。庚申掛軸は「摂州四天王寺庚申堂」銘の青面金剛と二童子、邪鬼付のものが確認できています。4月にリニューアルオープンした神奈川県立歴史博物館でも同じもの(鎌倉郡田谷村の掛軸)を見ました。大阪四天王寺庚申堂は、やはり人気があったことが判ります。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38870449.html |
小田原市
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中曽根村(なかぞね)の「曽根」地名は自然堤防の意味があるそうです。 酒匂川沿いなので違和感はありませんが、広い沖積平野の中でなぜここだけ、この名前?という疑問も。中曽根はとりたてて目立つ微高地ではありません。 目立たないという点では、資料を漁ってもこれといったトピックがありません。 風土記稿の時代、32戸。石高は朱印362石。割付高も江戸時代を通じてほぼ同じだったようです。 鎮守は稲荷社、同所に水神。他に太神宮もあり、両方とも現存しています。 鎮守の稲荷社は五社稲荷に改称していますが、なぜ五社になったのかは地元でもよく判っていないそうです。旧谷津村(現城山町)の大稲荷神社が十五座なので、本当は十五稲荷だったのでは、などの説もあるそうです。 空撮写真だと「中曽根」のちょっと左が五社稲荷の境内。 寺院は無し。道祖神場は2ヶ所。 貞享年間の村指出帳は360石で35戸。村役人が4戸で本百姓が12戸。他は無田17戸、伯楽1戸、定使1戸の構成でした。つまり本百姓クラスは16戸です。 神社は稲荷、水神、天照太神とありますので、天保期まで200年以上変わらなかったことが判ります。 五社稲荷神社 天和3年7月or10月 正面 「キャカラバア 光明真言梵字(と思われる)」蓮華紋 右側面 「ア」紀年銘 相列□□足柄下郡 成田庄中曽根村。 左側面 「アク?」施主名? 裏面 「アン? 為奉造立石塔一□庚申供養成」 かなり風化していて時間をかけて読みましたが間違っているかもしれません。 正面の薄い梵字群、特に3行になっている部分は部分的にしか読めておらず、線刻の蓮弁の上に乗る構図になっているので光明真言だろうと見当を付けただけです。 この部分を除いても密教系の内容です。 施主名がどうもはっきりしません。 彫られていたような気もするのですが、無いかも。 造立年と近い時代の史料がある、めったにない事例なので、16名とか12名だと嬉しいのですが。 庚申講に関する記録には出会えていませんし,氏子さんは庚申を全くご存知なかったので、関係は何も無いのかもしれませんが、4月の例祭日近くに訪問した際、幟にサルボボが飾られていました。 境内には他に堅牢地神、聖観音、常夜灯など。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38870296.html |
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戦国の気配がだたよう村名「堀之内」村。
実際に発掘調査などがされているのかは不明ですが、古い空撮写真だと、方形居館"風"の集落になっていたことが判ります。 風土記稿の時代、30戸。石高はよく判りませんが、安政年間になると2組に分かれた記録があり、七太郎組が176石で14戸。組頭持が154戸で14戸。合計330石、28戸になります。風土記稿では江戸時代を通じてほぼ1給地なので分けている理由は不明です。 実は貞享年間の史料は「七郎左衛門分指出帳」となっており171石、12戸です。堀之内村の名主は古くから「七」のついた名前を使っているので、早い時期から2組だったのかもしれません。 風土記稿によると、文和年間(1352~1356)の洪水が原因で飯田岡村にあった若宮八幡が堀之内村へ遷座された記録があったようで、飯田岡村からの移住(といっても隣村ですが)があったのか。 鎮守は若宮八幡社。境内社に神明と山王。他に山神社、水神社がありました。若宮八幡社は若宮八幡宮として現存。境内摂社に山王社、神明社、山神社の3社が残っています。現在、山王社の祭祀を特にすることはなく、若宮八幡宮の祭祀に併せて3社まとめて拝む程度とのこと。 寺は浄土宗の光明寺のみ。薬師堂もあったようで、小字「薬師堂」も残ってはいますが堂宇は確認できていません。 若宮八幡宮 元禄3年11月15日(阿弥陀の縁日か) 「経曰 常以法音 覺諸世間 光明普照 無量佛土 一切世界 六種震動 総摂魔界 動魔宮殿 衆魔□怖 莫不帰伏」 「ナ・ム・ア・ミ・ダー・ブ・ダ(梵字)」 「経曰 壊裂魔網 解諸纏縛 超越聲聞 縁覺之地 得空無相 無願三昧」 相列足柄下郡 施主 堀ノ内村敬白 二鶏三猿。 確認できている範囲では、小田原市現存最古の青面金剛塔になります。 偈は仏説無量壽経のもの。同じ偈を使っている庚申塔は県内にあります。実際の意味とは異なるようですが、字面からして魔を払う感じがあるので、伝尸病を払うとされた青面金剛には合う印象です。 梵字は違うように見える部分もありますが、梵字による唱名と判断しました。 仏説無量壽経は浄土宗系で重視されている経典であることと、村内唯一の寺院光明寺が浄土宗なので、造立した講中も浄土宗が多かったのではないかと思います。 紀年銘の15日は阿弥陀の縁日でもあります(宗派によって違いはあるかも)。 ここまで浄土宗的なのに、阿弥陀主尊の庚申塔にしなかったのは何故か、という疑問も当然涌きます。小田原市内には阿弥陀主尊の庚申塔もあるので、想像するしかありません。 この青面金剛塔は前手が剣と宝輪持ちで、他は矛、宝棒、索などややイレギュラーな像容です。足柄平野では、元禄期は青面金剛が庚申の主尊と認識されていたが、まだ剣人や合掌などに固定される前だったのかもしれません。 番外 光明寺 参道に合掌八臂の十一面観音塔があり、これを勘違いしているような気がします。 風土記稿に、光明寺境内に観音堂があり、本尊は十一面観音とあります。 なお、地元の方々に庚申講について質問しましたが、全く心当たりが無いそうです。早い時期に終っているようです。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38861141.html |
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小台村に周囲を囲まれた新屋村(あらや)。
新しい感じの名前ですが、後北条の時代には存在していました。新屋の「あら」は荒れた土地の意味とする説もあるようです。 風土記稿の時代27戸。朱印高は174石。実質は235石ほどあったようです。 寺院は無かったようです。 小台村と入り組んだ土地で鎮守の構成も同じ。しかも近くなので混乱します。さらに新屋村や小台村と隣接する柳新田村の鎮守も稲荷。 小台の日枝神社、新屋の稲荷神社、柳新田稲荷神社の3つは祭祀日が同じのようで、4月の第一日曜に行くと一斉に祭をやっていて、徒歩で数分の距離がやけに賑やかです。 写真は新屋稲荷の山車。 新屋村は草分3家を中心とする集落が山王社を鎮守とし、江戸時代に入植してきた人々が鎮守としたのが稲荷社。山王社は新屋稲荷神社に合祀されていますが、祭神に大山祇神は無く、佐田彦大神があるので、これが該当か。 余談ですが地図サイトだと小さな柳田新田稲荷は表示されますが、それより大きい新屋稲荷神社は表示されません。 郷土資料と神社にある縁起の内容は異なっていますが、大筋として、稲荷社を鎮守とした人々は小田原藩初代藩主の大久保氏とともに入植し、大久保氏の妻が帰依して小田原に呼び寄せた正恩寺(茶屋町。浄土真宗)を通じて京から稲荷を勧請したのだそうです。となると真宗門徒で庚申信仰などはやらなさそうで、山王社の氏子中だけがやっていたのかもしれませんが、その割に庚申塔は多く残っています。 新屋稲荷神社 万治元年霜月26日* 「 新屋村 結衆十一*人。 これは相模型板碑になるのかもしれません。 紀年銘は庚申日(27日)の前日で己未日。庚申の晩をどう解釈するかによるのでしょうが、前日から庚申待を始めて庚申の晩を不眠で過ごして朝を迎えると考えた講中もあったと思われ、希にですが己未日の庚申塔はあります。 人数は七人かもしれません。 紀年銘不明* 「奉建庚申供養□□」*。 庚申銘は正面。 風化が酷く、最初の訪問時は庚申塔と思えませんでした。実際、これを除外している資料もあります。 資料によって紀年銘は様々で、どれが正解か判断できていません。天和3年7月説、元禄4年6月説などがあります。 銘文も正面は梵字で裏面に「為奉造立石塔一基庚申供養」と読んでいる資料がありますが、これはおそらく間違いです。裏面に銘文は認められません。 元禄2年8月 「奉建立三尸待供養塔」* 裏面に梵字(ア・バン・ウンか) 三猿(三面)。 これも銘文は違う読みをしている資料があります。三尸待だとすると、割とレアなことになりますので、全く違うのかもしれません。 前の文字塔を天和3年として、古い順に紹介しています。前の庚申塔が元禄4年だとすると、この庚申塔の2年後の造塔となり、直近すぎると考えました。 享保12年3月 「奉建立庚申供養石塔□乗成弁処」 相列新屋村中 三猿。 塔〜以降は正確に判読できていません。 こういった荒れた碑面の採拓に慣れた人がやれば、ここにある4基の庚申塔の銘文は明らかになるかもしれませんが、現状ではかなり厳しいと感じます。 以上が全て山王社を鎮守とする集落によるものだとすると、少々多過ぎる気がします。 新屋の講中は上組と下組で、戦時中に色々な講をまとめたそうですが、庚申講の有無は不明。 道祖神は上と下に1基ずつ残っています。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38848504.html |
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以前、川東を書きました。川は酒匂川を中心に東西という意味で、川西は足柄山地や現在の小田原駅付近、伊豆半島まで含むようです。 しかし、石仏目線で区分けするとこの範囲は広過ぎるため、酒匂川と狩川に挟まれたエリアを川西中流部と仮称します(ちゃんとした分類があるかも)。 柳新田村 8戸 正保の検地帳には記載が無い村(新しい) 飯田岡村 52戸 庚申講はあった。馬頭観音を庚申塔とする資料はある。 蓮正寺村 61戸 この地域は庚申塔が残っている小台や新屋も含め記録に残っている水害があります。 宝永4年11月の富士山大噴火によって火山灰が河川に溜まり洪水が発生する。これが幾度も発生したため、酒匂川の流れを大きく変えていた時期がありました。 この流路変更によって発生した享保5年の水害を調査した資料があります。 図は砂防学会誌への報文(PDF)が公開されているのでそこから引用。 ※享保5年以降のもので、それ以前や流路が元に戻って以降のものではありません。 被害地域は庚申塔が残っている地域の方が多いのですが、一応、上記の3村は直撃です。 酷い所は4mほども堆積してしまったり、スコリア(小石の火山灰)が堆積した土地では天地返し(下の土を掘り出して堆積層と入れ替える大工事)をしたりで、数年は講事などやってる余裕はなかっただろうと思いますが、報文によると、3村のエリアで氾濫堆積物は無かったようです。 道祖神場や寺社は調べてみましたが、庚申塔らしきものは見つかりませんでした。 ←写真は飯田岡の庚申塔とされている馬頭観音。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38849081.html |



