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西栢山の南隣、小台(こだい)。この辺りは小さな村の土地が入り組んでいます。
この一帯は西の苅川と東の酒匂川が合流して狭り始める土地なので、水害は幾度となくあったはずですし、土地としても他の村より遅く開発されたと思われます。 その中で小台村は比較的古くからあったようで、名前からも判るとおり、自然堤防的な微高地にできた村なのでしょう。 空撮写真の中央部は新屋村です。複雑な入り組み方の理由は、おそらくですが、後代になって耕作に適さなかった土地を開墾して出来た村があるからでしょう。もちろん他にも理由は色々考えられます。村の明細帳などを見ると、江戸時代の早い時期から田畑や屋敷地の土地の値段が書かれています。借金の担保が土地だったからです。足柄平野の年貢は金納が多かったようで、原則は定額なので凶作だと大変です。 他にも博打のカタに、という例もあるようです。博打は人気があって、講事の際にやっていた話を県内各地で聞いています。 博打の民俗を調べた資料があったら読んでみたい(笑)。 風土記稿の時代は24戸。朱印高312石。実質は350石前後あったようです。 風土記稿に小名の情報は未記載ですが、村の鎮守が山王社と稲荷社の2つ記録されていますので、集落も2つはあったと思われます。2基残る道祖神は上と下と呼ばれていますが、民俗資料によると庭(集落)としては東、西、上の3つになるようです。聞き取りをしていないため、いいかげんな推測ですが、東と上が古そうです(古い空撮写真で民家の濃い所が上(小字荒井島)と東(小字屋敷添)。現代の「小台」とある所から南に伸びている辺りが西庭ではないかと推測(小字は寺ノ前と土肥島)。 山王社は日枝神社として現存。稲荷社は不明。 唯一の寺は浄土宗の蓮乗寺(小字寺ノ下は旧所在地)。 小台村も水害があり、蓮乗寺は正徳2年の洪水で現在地へ移りましたが、墓地は旧位置のまま(小字寺ノ下)。苅川のすぐ近くに残っています。 日枝神社 元文元年9月 「奉造立青面金剛」 6名 三猿。 日枝神社は上庭になります。小字だと荒井島。民俗資料だと上庭に庚申塔が2基となっており、上庭の庚申講中が2基造立したような記述です。 しかし古い空撮写真と小字の位置関係からすると、上庭は6~7戸ほどしかありません。 この庚申塔は上庭のもので、山王社を鎮守としていた集落の庚申塔のような気がします。 上庭は戦中の物資不足が原因で、多くの講を1つにまとめ、昭和後半頃までは宿番の家で祭祀を続けていたようです。その中に庚申講もありました。 元文元年暮秋(9月) 「青面金剛尊」 「庚申石塔」 10名。 こちらは東庭か。小字だと「屋敷添」の庚申塔かもしれません。古い空撮写真だと集落の戸数も10戸ほどになりそうです。 元文元年9月に2基造られたのは興味深い所です。2つの講中が同時期に造塔したわけで、元禄期の史料は見つけていませんが両方で16という数字は元禄当時の小台村の本百姓全戸だったかもしれません。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38837172.html |
小田原市
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二宮尊徳の出生地である栢山(かやま)村。大きく東西に分かれていました。 空撮写真でも判りますが面積が広く、元禄年間に東栢山と西栢山に分かれたそうです。風土記稿は1村として扱っていますが、天保より後の安政年間でも栢山村の石高を2つの組に分けて記録している史料があります。 1960年代の空撮写真でも完全に別の村と言ってさしつかえないほど離れた2つの集落が確認できます。 古老によると、戦後まもなく、子供の頃は距離も離れているし遊びに行く事はなかったとか。 風土記稿の時代、121戸で朱印高982石。実質は1200石を超えていたようで、安政年間の史料だと2つある組は62戸で755石、55戸で495石となっています(計117戸、1250石)。 栢山村の東西どちらかは不明ですが、ここも正徳4年、寛政3年の酒匂川氾濫でかなりの水害があったようです。 風土記稿には村の鎮守が3つ(八乙女権現社、白髭社、稲荷社)挙げられていますが、明治6年に現在の栢山神社(東栢山)に合祀。合祀以前の記録はありませんが、八乙女権現社に他の2社が合祀されたと思われます。他に山王社、水神社がありました。現在、西栢山には日枝神社が現存しています。 寺は曹洞宗の善栄寺のみ。 他に薬師堂が2つあり、1つは医王山正見寺と書かれていますので、かつては寺院だったのでしょう。おそらく正見寺跡と思われる薬師堂は西栢山に残っていて、境内に13基の石仏が残っています(庚申塔はなし)。 風土記稿に掲載の小名は7つ。上ノ庭、中ノ庭、下ノ庭、西ノ庭、横町、下町、寺ノ下。 これが現在のどこか不明ですが、上中下が東栢山で、西以降の4つが西栢山かもしれません。 道祖神は東栢山に2ヶ所5基、西栢山に3ヶ所3基。 東栢山 善栄寺 寛文7年2月15庚申日(庚申日) 「上命三寳中報四恩 及下六道皆同供養」 三猿。 宝冠釈迦如来としているのは私見です。資料の多くは主尊を大日如来としています。 これは曹洞宗寺院にあることと、偈が曹洞宗で使うものであることが理由で、希ではありますが宝冠釈迦如来の仏像が実在しているため、密教の大日ではないだろうと結論しました。 紀年銘は「寛文七年丁未二月十五庚申日」で、確かに庚申日です。この偈に関しては以前に書いているので省略。 資料によっては三猿を龍前院型に分類しているものもありますが、個人的には違う印象です。 東栢山は庚申講が続いているように読める資料もありますが、現地で聞いた範囲ではどなたもご存知ありませんでした。 西栢山 日枝神社(山王神社) 寛文8年10月 「ア」 栢山村庚申 一結衆中 両側面に猿(遥拝二猿)。 資料によっては「サク」寛文9年10月と読んでいます。 側面の猿は遥拝型。からだは横向きですが、顔を正面に向けてクイッと曲げています。アニメ「もののけ姫」の木霊にそっくり。 この石祠が山王社だとすると、郷土資料との齟齬があることになります(後述)。 □□年11月 「奉供養庚申塔」 相州西郡栢山村講中。 紀年銘は判読できませんでした。資料によっては寛保元年11月説と享保6年11月説があります。十一月吉日は確実ですが、他は干支もよく判りません。可能性としては水害を考えると享保年間の方がありそうかなと思う程度。 郷土資料によると、西栢山の山王社は元禄年間に東西分村となった際、東栢山の山王から分霊したとの記録があるようです。風土記稿には山王社が1つしか記録されておらず、東西どちらの山王社か不明。現存する山王社(日枝神社)は西栢山にしかありません。上記の庚申石祠が山王だとすると、寛文期には西栢山にあったことになります。分霊した際、東栢山から持って来たとしか考えられず、首をひねることに…。 西栢山の庚申講は戦中に終っているそうです。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38823812.html |
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小田原市の最北端。北は開成町。西は南足柄市。酒匂川を挟んだ東隣は大井町。
調査不足で村の詳細が判っていませんが、宝永噴火後の酒匂川水害史には曽比村の名が数回登場します。 亡失したほどではなかろうと思っていましたが、正徳4年に宗繁寺の本堂が流失。享保年間。享保以降も寛政3年、享和2年の洪水被害があったようです。 朱印高925石。実質は1000を超えていたようです。 風土記稿の時代は94戸。小名は西ノ庭、河原ノ庭、寺ノ下、高河原の4つ。 空撮写真では判りにくいですが、1960年代の空撮写真だと集落が5つあります。空撮写真で宗繁寺のある集落が寺下。寺下から反時計廻りに高河原(リッツ・ヒロ)、河原庭(栢山診療所の東)、西庭(同、西)となり、空撮写真で西の飛地のようになっている集落は大西で天保期にはまだ無かったか、西庭と同一視されていたのかもしれません。 道祖神は4つの小名と大西の5ヶ所に残っています。 鎮守は最北にある稲荷神社。他に神明社2つ、山神社、山王社、水神社、浅間社がありましたが、いずれも明治9年に稲荷神社へ合祀。山王社は日枝神社に改称後、合祀されました。 寺は宗般寺(宗繁寺:曹洞宗)と万福寺(地蔵堂:真言宗)の2つ。万福寺は元位置も不明ですが、曽比会館あたりが該当かもしれません。 曽比稲荷神社 萬治2年霜月 二猿、二鶏。 これが明治9年に合祀された山王社(日枝社)だろうと思います。元位置の小字は薑畑ですが、これが現在のどこか不明。ショウガの畑くらいしかヒントがありません(笑)。 足柄平野に、石祠タイプで万治年間は数基あるので、この頃に流行していたのでしょう。 青面金剛は剣と法輪持ち、日月を捧げ持つ。 享保14年10月 「奉納庚申供養」 27名 三猿。 水害史をからめて観ると、寺の本堂が流失したほどの水害から15年後の造塔になります。この間、田中丘隅による堤防大工事とその直後の堤防決壊はありましたが、曽比村を含む酒匂川西側は被害を受けなかったようです。 極めて単純な計算ですが、村を100戸として小名1つに25戸。27名はどこかの小名の全戸かもしれません。 番外 宗繁寺 安永2年?2月14日。 これを青面金剛とする資料もありますが、単体で左上手に未開敷蓮華を持っており、少なくとも青面金剛ではなさそうです。馬頭かとも思いましたが、頭頂に宝馬は乗っていないのでよく判りません。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38808456.html |
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桑原村の北隣ですが旧足柄上郡。酒匂川沿いの集落。
ここも享保16年の酒匂川洪水で亡所になった村です。 中世も酒匂川は幾度となく荒れていたはずで、その度に被害を受けていては集落が維持できません。上流から出戸、西大井、鬼柳、桑原と続く酒匂川東岸の村は、直線的なラインで繋がっているので、そこが自然堤防のキワだったのではないかと思うのですが,現在は微高地になっている感じがしません。 所で洪水による流亡がどの程度の事態だったのか、鬼柳村ではなく他村の例になりますが、参考に見てみます。 宝永噴火の影響で川底が上がり洪水が増え、堤(堤防)が壊れた被害は足柄平野の各所で起きる>家や田畑が押し流され、泥に埋まってしまうと、村に住む事ができなくなる>他村の土地を借りて住み、田畑は旧地を再開発する。だいたいこの経緯をたどります。 速ければ2、3年で元に戻れますが、被害が大きかった村では寺も他村へ移り、明確な年数は不明ですが100年以上も戻れなかった村もあるようです。数年で戻れた村も、宿場に対する助郷(労働提供)がかなり長い期間免除されていますので、実質はともかく対外的に庚申塔を作ることはしにくかったかもしれません。 鬼柳村は風土記稿の時代47戸。朱印高369石。小名は永田と本田が記載されているものの、字としては残っていません。 鎮守は白山社。寺は曹洞宗の清源寺。阿弥陀堂が1つありました。 阿弥陀堂は清源寺持ちですが、場所は離れていて現在の鬼柳公民館になります。 現在、地神講は続いているが庚申講は聞いたこともないと数人の方から言われました。 なお、道祖神は集落内に4基が点在しています。 鬼柳公民館 紀年銘不明 中尊に「キリーク」銘の角石(何かの残欠) 中央遥拝の二猿。 地元ではこれが何か不明だそうです。 石祠内部のキリーク角石は阿弥陀堂の名残かもしれません。阿弥陀堂は地震で倒壊してしまい、公民館として建て直されたそうです。 風土記稿に掲載の宮は白山社のみ。山王社が記録されていれば、もうこれで間違いない所ですが…。 足柄平野に多い、溶岩のような穴の空いた風化をする石です。丁場の特定はできないそうですが、いわゆる伊豆石ではなく足柄山地から採れるとか。 この石祠と並ぶ同じように風化した駒形塔も同系の石材で、かろうじて万治2年の紀年銘は読み取れます。参考にした資料の1つに上記駒形塔も庚申塔としているものもありますが、「○(円寂)」の下に文字の痕跡が残る程度で、何のための石塔か不明なので断定はできないものの、取材結果も含めて庚申塔とは認め難い内容です。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38794530.html |
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鎌倉時代からあった集落で、吾妻鑑に鶴岡八幡の社領に寄付した記録があるそうです。
風土記稿の時代50戸。朱印高619石。 鎮守は三島社。他に牛頭天王社(山王相殿)と神明社、稲荷社2つ。 寺は浄土宗の浄蓮寺。堂宇として薬師堂と十王堂。 小名は上、中、下。 ここも享保16年の洪水で亡所になった村の1つです。 山王が相殿だった牛頭天王社、神明社は明治以降どうなったのか不明。 稲荷は該当と思われる神社が現存。 薬師堂は所在地不明。十王堂は石原地蔵として残っています。 浄蓮寺は鎌倉時代末期、浄土宗鎮西派白旗流の高僧良誉定恵(定慧)が晩年に創建した寺で、多くの弟子を排出したことから桑原道場と呼ばれたようです。 「當時は八町の寺域」と風土記稿にありますので、村のほとんどが寺領だったのでしょう。また、子院(末寺?)も19院あり、足柄上郡・下郡に広がっていたようです。その後衰退したようですが、江戸時代になり立誉が中興(浄蓮寺2世。元和7年卒)。 余談ですが定恵は誉号を最初に使った僧侶だそうです。 庚申塔はこの浄蓮寺にしか残っていないようです。 集落内には6ヶ所に道祖神が残っています。 浄蓮寺 寛文3年12月26日(庚申日) 正面「帰命無量壽覺」 左面 「天下和順日月清明風雨 以時灾属不起國霊民□」 右面 「我建超世願心至無上道斯願不満足誓不成正覚 我於無量劫不為大施主普□諸□若誓不成正覚 我至成仏道□□超十方究意□所聞誓不成正覚 □欲深正念浄恵修梵行志来上道為諸天人師 神力演大光普照無際道消除三垢冥廣済衆厄難」 裏面 「右志意趣者為庚申供養今石塔造立奉二世安楽 祈者也願者依此功徳現子孫繁昌當証法性常子宝 黨□□也属指堂□□也若□者一寛之輩信□志 嘗己□□味同仰利住梵局?乃至□□平等利益」 信心施主相州足柄下郡桑原村中 敬白 三面に猿、裏面に二鶏。 正面に無量寿とありますので、無量寿経からの引用だと判ります。左面はその中の祝聖文と呼ばれる偈。右面も同じく四誓偈と呼ばれているもの。どちらも全文では無いようです。四誓偈は宗派によって呼び方が違うのか、同じ偈を重誓偈もしくは三誓偈としている所もあります。 右面最後の行だけで四誓偈としているサイトもありますが、この辺りはよく判りません(笑)。 この最後の行だけが刻まれた庚申塔もありますが、消除三垢冥は、貪欲(とんよくorどんよく=むさぼり求める欲)、瞋恚(しんいorしんに=怒り)、愚痴(愚癡ぐち=理に暗く無知)という3つの煩悩による冥(くら)さを消すという意味で、三尸の害を除ける庚申信仰と結びつきやすいからかもしれません(妄想です)。 裏面は講中が庚申塔を造立した趣意。 昭和8年3月 當寺廿二世廣譽代 奉納 心願成就 1名 邪鬼。 ※銘文は裏面。 1名は22世の妻と同姓同名なので、住職夫婦が建立したことになるようです。 ここまでやっていたお寺さんですが、現在は庚申に関する事は何もやっていないとのこと。庚申信仰に限らないでしょうけれども、第二次大戦はダメージが大きかったと判ります。 桑原は、現在は終っているそうですが、戦時中まで庚申講が続いており「庚申連名ボ」という帳面が小田原市郷土資料館に展示されています。昭和18年の帳面で、2ヶ月置きに講を開いていたことがうかがえます。講員名に続いて「当り」と書いてあるので無尽かなにかをやっていたのかもしれません。 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/38783386.html |




