庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

鎌倉市

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巡礼古道の猿田彦塔

関東観音霊場(坂東三十三観音)の1番札所杉本寺から2番札所の逗子市岩殿寺へ向う巡礼古道には、百庚申状態の文字塔群があります。各種の資料を合算すると83基あったようですが、庚申塔には「十体」や「百十体」、「七体寄進」の文字がありますので127基あったのかもしれません。

古道に現存するのは58基(他所に2基あるので計60基現存)。ほとんどが根府川系の板石に「庚申」の文字を刻んでいるだけですが、その中に唯一の刻像塔で長文が彫られた猿田彦塔があります。
庚申塔群の親塔のような存在で、これが解読できれば奉納の由来などが判明するのではと気になっていました。
イメージ 1イメージ 2



















拓本ではなく和紙を貼付けただけですが、線刻の猿田彦はきれいに出たものの、文字の方は草書でお手上げでした。
しかし世の中には凄い人がいるもので解読していました。

「庚申尊 御託(待記?)
貴賤となく宮ことに両宮おわします也
此両宮によくつかへて萬によろこひの哥の
こゑ高く出入の人の足のはにうらむる
心なくあがめまふしぬるならは天
よりはたからのあめふらし地よりは
一切の寳わきいたし天神地神ニも
日夜其の影向のくまなく所願一として
叶はすという事あるべからつ」

大意としては判りますが、庚申と関係あるのか?という疑問も。
と言うより由来が解けなかっただけでなく、さらに謎が深まってしまいました(笑)。

年代
鎌倉市内で出会った猿田彦塔は23基のうち紀年銘ありの最古は文化5年。最新は明治35年。
現存する58(60)基に紀年銘(元号)のあるものは見つけていないので
正確な時代は不明ですが、相模国や百疋の銘はあるので江戸時代なのは確実。

奉納者
鎌倉市内には存在しない勝楽寺の名がある。愛川町の曹洞宗大寺院「勝楽寺」か。
根府川邑の在所名がある。
材木座の石工銘がある。
僧侶らしき名前がある。
現存する庚申塔の石材と形態はほぼ同じで、同一時期に集中して作られたとしか考えられませんが、奉納者は広範囲でしかも仏教の要素しか見いだせません。

ところが、猿田彦塔の長文には「両宮」とあり、神道系というより、猿田彦と両宮となれば伊勢神宮が真っ先に浮かびますし、内容はこれだけ異質とも言えます。

勝楽寺は札所ではありませんし、そもそも諸条件を内包できるような講とは何なのか不勉強で見当もつきません。

単純に、霊場の1番と2番をつなぐ道だから「両宮」としただけ。
道中安全の意味と江戸後期の神道ブームを反映して猿田彦を持ち出しただけ。
各村にあった伊勢講などで伊勢参りは毎年のようにあったらしく、伊勢土産で猿田彦の絵札などが出回っていて、それを流用しただけ。
などなど、妄想は拡がるばかりとなってしまいました。
由来を解説している資料をご存知の方がおられましたら、ご教授くださいませ…

庚申神社の扁額

山崎の妙法寺。
鎌倉で妙法寺といえば大町にある古刹が有名ですが、こちらは昭和3年になってから引っ越してきた小さなお寺さんです。
どちらの妙法寺も日蓮宗ですが、大町は楞厳山(りょうごんさん)妙法寺。
山崎の妙法寺は宝珠山妙法寺で、鎌倉といっても大船エリアです。

ここに珍しいものが(庚申塔ではないので、鎌倉の庚申資料には未掲載)。
イメージ 1「妙法庚申神社」
紀年銘なし

ちょっと小さいですが扁額と思われます。

境内に庚申神社らしきものはありません。

山崎の妙法寺は昭和3年に引っ越してくる前は山梨県にあったそうで、そちらにあったのかと思いきや、台石の銘文を読むと、山崎のどこかに庚申神社あったようです。

イメージ 2











「庚申ノ霊感告テ
曰ク當山北方地下數
尺六百三十年ヲ経タル
我ガ神體アリ速ニ出
シ法華勧請セヨ即
チ守護法益ヲ得マシ
ミ惣法其地ニハ此ノ
神體出タリ
依テ此處?ニ謹ミテ勧
請ス
維時昭和九年九月十日
寳珠山 龍敬誌
感得主(個人名)」

ネットにある情報では、寺を建てる際に地中から出たものだそうです。
昭和3年に引っ越してきた時だとすると、ちょっと時系列が合いません。
文脈からすると、昭和9年あたりに當山(=妙法寺)の北の土地を掘って出た神体がこの扁額でしょう。
路面拡張工事でもあったとか?

宝珠山妙法寺の北がどの辺りか気になりますが、寺の前の道路あたりかもしれません。
北野神社がある山裾についている古くからの道で、明治の地図を見ると
北全域は一面の田圃ですが、ちょうど寺の前あたりは別れ道になっていました。
そこに庚申神社があったのか。
あったとしても、おそらくかなり小さな祠程度のものでしょう。

なお、寺から東へ200mほどの辻には庚申塔群があります。
ここも古くからの辻で、山崎村への入口部分だったようです。
イメージ 3
















寺の裏山にある北野神社の入口には庚申講中の銘がついている角柱があります。
イメージ 4
























正確なことは不明ですが、寛政11年に庚申講が小さな橋でも付けたか、階段を整備したのではないかと思われます。
平成になって土中から出たものだそうです。

つまり、それなりに庚申信仰があった土地なのは間違いありません。
ただ、明治の地図では、現在の寺の土地には家もなかったようです。
寺の前の辻に神社があったとしても、少々唐突…。

鎌倉で現存最古の庚申塔は寛文5年(1665)です。
一方、この霊感がらみの銘文をそのまま受け入れて考えると、
昭和9年(1934)から630年前は慶長9年(1604)。
その頃、庚申神社があったということに。
神奈川の庚申塔は寛永年間(1630年前後)からなので、
慶長9年に庚申神社があっても不思議はありませんが、
その頃に「妙法庚申神社」という名前を使うものなのかという疑問も。
真贋はともかく(笑)、こういうものがあるのは面白いです。

イメージ 1山ノ内1499第六天社

こちらの神社は毎年正月と7月の中旬(第三週か)にだけ門が開かれて参拝できますが、他の時は中に入れません。
車道から庚申塔が3基見えますが、階段を挟んだ反対側にあるのが「安部清明大神」碑。

裏面に以下。
昭和六年四月
連名当番順 10名 庚申講中
イメージ 2
陰陽道と庚申は無縁ではありませんが、ここまでストレートなのも珍しいです。
この庚申講はどういう庚申待をしていたのか知りたくて、お接待の方がおられたので質問してみましたが、詳しいことはご存知ありませんでした。
第六天社は鎌倉建長寺の四方守護の1つで、少し離れていますが建長寺の土地になるようです。お接待係はお檀家様がやっておられました。
つまり臨済宗寺院の敷地に陰陽道の石碑があり、それを庚申講が作ったということに。

昭和6年の造塔なので、古くからの伝統ではなく北鎌倉固有の流行があったのかもしれません。どういうわけか安倍清明の名が彫られた石碑は他にもありますし、隣の戸塚にも宿曜道がらみの印象を受ける石造物があります。

ついでなので第六天社にある他の庚申塔を。
イメージ 3寛政12年3月
「青面金剛塔」
當所講中
























イメージ 4享保3年10月
「奉造立庚申」
庚申講中
三猿



























イメージ 5文政7年11月
「青面金剛」
當所講中
三猿


























イメージ 6安政7年(安政七庚申年)
「猿田彦大神」
仲講中 7名

鎌倉の庚申塔の総数

結論を最初に書くと、現存総数は不明です。

鎌倉の庚申塔については、ネットで見られる情報が充実しています。
観光地ですので、個別のブログも多数ありますが、代表的なものは以下の3つ。

鎌倉の庚申塔の調査報告」。
鎌倉市内の民間団体が作っているサイトで、308基を調査。
写真付きで
整理されています。

サイトの維持が困難になり、ログの形で残っている状態ですが、
大畠洋一さんの庚申塔サイトに、石川博司さん作成のリストがあり(あった)、
そちらには339基が掲載されていました。
※これは今でも
入手は可能です(PDFダウンロード)。

「鎌倉の道祖神・庚申塔」で検索するとヒットするサイト。
個人のブログですが、かなりのまとまった数を掲載しています。

鎌倉の庚申塔の調査報告」は「道ばたの信仰(鎌倉の庚申塔)木村彦三郎著」を
参考にして調査しており、石川氏のリストはそれも含め、約20人が作成した資料をまとめた内容と思われます。

これらとは別に、ネットにはUPされていませんが、鎌倉市在住の方が調査したデータもあり、それは348基になっています。
地元の方ならではのネットワークを活かして、個人宅内のものまで調査しており、数は最多だと思っていました。

石川氏のリストには判断が難しいものや庚申塔ではないものも入っていますが(地神塔や猿田彦、帝釈天の他、なぜ入れているのか理由が判らないものなど)、誰かが庚申と判断したものはとにかくリストアップする方針だったのではないかと想像しています。

これらの資料をまとめて(相互の漏れを加算)みたらどうなるだろうと思ってやってみたところ、明らかな除外対象2基を別にして360基になりました。
存在していないものを記録することは無いと仮定すると、少なくともこれだけの数はあったことになります。

このうち、建長寺内の瑞賢墓参道にある自然石の庚申塔群と、
巡礼古道と呼ばれる山道にある自然石の庚申塔群が難物です。
資料によって数がバラバラ。
どちらも山道の斜面に置かれており、大雨や地震などで斜面が崩れるとすぐに埋まってしまう状態のため、正確な数が判らないのです。
瑞賢墓参道は最多で19基。最小で10基。
私は8基ですが「金剛童子」銘など他の信仰対象の可能性があるものは庚申塔から除外しています。
追記:その後、金剛童子銘もカウントした結果21基の現存を確認しました。しかし同時に斜面崩落で埋まっている状態も確認しました。元に戻されることを祈ります。

巡礼古道は最多で68基。最小で56基。
私は60基を数えたことはありますが、2回目は56基でした。正確を期すなら1基ごとにサイズも含めて調査するべきですが、とてもやる気にはなれません(笑)。
昔は70基以上あったという話しを聞いたこともあります。
追記:現存する庚申塔の銘文には「百十体」「十体」「七体」が読み取れます。これらを総計すると127基あったことになります。同一庚申塔が分裂していて4枚の断片が2基と判明するなど、詳細調査をしましたが、2016年現在で55基に減っていました。盗まれているとしか思えません。

この2ヵ所を除外すると、273基。
この中には逸失と思われる10基も含まれています。
・城廻の関谷清水小路:駒形・青面金剛・三猿・「奉納 庚申供養」・享保2年。
・城廻の関谷清水小路:自然石板・「庚申供養塔」・寛政11年。
・城廻の関谷清水小路:風化破損・青面金剛・三猿・天保10年。
・城廻の関谷清水小路:尖角柱・「帝釈天王」・大正7年。
・台の八幡神社参道:駒形・青面金剛・三猿・寛政元年。
・西鎌倉1:駒形・「庚申供養」・文化3年。
・手広の峰笛田道:笠付・青面金剛・三猿・文化6年。
・大船の多聞院:風化破損・青面金剛・紀年銘不明。
・玉縄の谷戸根地蔵堂:台石・三猿・紀年銘不明。
・山崎の打越:風化破損・青面金剛・三猿・紀年銘不明。

関谷清水小路の4基については、2011年まで現存していましたが、お祓いをして撤去したということまでしか判っていません。

こんなことをして何になるのかと思われるかもしれませんが、ちょっと内容を比べてみた所、現存しているのに見逃しているものが数基あると判明したので、全部を比較しなおし、ついでにまとめてみたものです。
違う人が同じ作業をすると結果は変わるかもしれません。

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