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小市143付近
風土記稿の時代(天保)、小市村は12軒。 神社が2宇と本山派修験の文殊院のみ記録されています。 石仏群がある場所は文殊院の背後になる段丘上ですが、寺が一時ここにあったのかもしれません。 南足柄市に限ったことではありませんが、大きな川が流れる平野部にあった集落や寺社は、大洪水が起きるたびに場所が変わる、もしくは一時避難します。 寺の場合はお堂が再建されると動けなくなるため、檀家集落と寺がかなり離れていることも。 南足柄市は酒匂川の氾濫に悩まされて来た歴史があり、文禄~慶長年間に堤が築かれて水田の発達につながりましたが、宝永の富士山噴火による降灰(スコリア)で河床が浅くなり、その後の大雨で堤は決壊。享保年間に「文明堤」が本格的に再築されたものの、享保19年に決壊。復旧はしたものの本格的な全面工事は明治になってからだそうです。 小市村は堤のすぐ脇にあった村のようで、天保年間の12軒が昔からだったのかどうかは不明です。 小市村の庚申塔は2基記録がありますが、見つけられたのは以下の1基のみ。 元文5年10月 「ウーン」 「光明真言百万遍 供養 唵阿謨伽毘盧遮郎 摩訶母捺羅 摩尼鉢訥摩 人縛羅鉢羅 韈利多耶吽」 心月西雲一座 磯崎氏 徳左衛門 三面に猿。 石仏群の背後にある斜面に埋まっていたものを起こしましたが、上までは運べず。 記録にあるもう1基も同所に埋まっているのかもしれません。 心月西雲というのが修験者で文殊院に関係のある人だったと思われます。 この人の名が入った石仏は同所にあり、享保16年の湯殿山銘と思われる智拳印大日座像があります。 ただ、風土記稿に「文殊院は宝永5年に流失して中絶、宝暦9年に再興」とあるので、住職的な人ではなく、触頭(普通のお寺さんの本末関係における本寺)の小田原玉瀧坊あたりから派遣されたような状態だったのかもしれません。 堂宇がなくても祈祷はできますので。 また、たまたまかもしれませんが享保~元文年間の石仏がまとまってある所から推測すると、西雲さんは再建のためにだいぶ頑張っていたのに、それも享保19年の堤防決壊で不可能になりかけたが、それでも頑張って活動を続け、宝暦9年にその苦労が実ったのかもしれません。 大日塔が享保16(1731)、同年の如意輪もあり 享保19(1734)に文明堤が決壊 庚申塔が元文5(1740) 宝暦9(1759)に文殊院再興 だいぶ妄想が続きましたので、ついでにもう1つ妄想を。 神奈川というより相模国の古い庚申塔は江戸期のものしか見つかっていません。 もし中世の庚申塔があるとしたら相模国最大の城下町小田原か、足柄平野のどこかだろうと思います。幾度となくあった大洪水で流され、どこかに埋まっている可能性はゼロではありません。近年になって発掘された中世の庚申板碑は他県にはあります。 小田原城御用米曲輪の発掘で、後北条氏時代の五輪塔未成品が大量に出た時には、もしかしたらと期待していましたが、残念ながら池の護岸用でした(笑)。 |
南足柄市
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下怒田公民館
集落内の集め石仏かと思ったのですが、風土記稿に自得寺持ちの地蔵堂とある場所が現在の公民館で、石仏は昔からあるそうです。 地蔵も館内に保管されているとか。 石仏の状態は悪く、土留めのようになっていることもあり、背面は土を本格的に掘り返さないと調査できないため、詳細は不明。 紀年銘不明 銘文不明 二鶏(側面上部)、三面下部に猿。 自得寺は臨済宗で、禅宗独特な銘が刻まれていただろうと思いますが、南足柄市の石造物は石質なのか、江戸初期あたりだと穴だらけに風化してしまい、どうにも読めません。 市内の庚申塔から推測すると寛文期もありそうです。 左右側面上部に鶏 寛政9年9月 「庚申供養塔」。 自然石の文字塔は南足柄市にも複数ありますが、こういった丸石を使ったものは、今の所、これを含めて2基しか確認できていません。 酒匂川水系の小さな河川が多数ある土地なので、河原石のような丸石を利用したものがもっと多いと想像していたので意外でした。 こういった丸石は畑を耕していても出ることはありますし、尾根筋にも露頭していることはあります。 手軽に入手できる石材ですが、数が少ないことで、採用した理由が何かあるのではと気になっています。 |
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怒田村は89軒ですが、広域で、複数の小さな尾根と川があり、それぞれに小さな集落がありました。 酒匂川水系の1つ貝作川の上流部に狭い農地を開いていたのが亀ヶ尾集落で、戸数は不明ですが、現在でも10軒ほどのようです。 全体写真の農作業小屋の後ろに尾根から下って集落へ至り、石仏群の前を通って左へ登る古い主要道が残っており、明治の地図でもしっかり記載されています。 昔からほとんど変わっていないであろう良い風景です。 宝暦2年11月 「庚申供養塔」 講中9名。 9名は現在の戸数とほとんど変わりません。 全戸参加の庚申講だったのでしょう。 庚申塔の隣に見える笠と円柱は常夜灯残欠。 下にある双体道祖神と、少し登った場所にある庚申塔と常夜灯残欠の位置関係が気になります。 道祖神は転げ落ちているだけかもしれませんが、旧来からこの配置だとすると、道祖神は道に直接まつわるもの、庚申塔と常夜灯は集落全体にまつわるもの、といったような区別があったのかもしれません。 なかなか旧来通りの状態にはお目にかかれないので、かなり勝手な想像です(笑) |
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内山村摺手集落から南の尾根へ登り詰めた辻
宝暦6年11月 「奉 造立相州内山村中講 為萬霊也」 道標(右面:右 大山道/左面:左 内山道) 三猿。 他県には稀にありますが、神奈川では珍しい自然石に彫られた青面金剛。 資料では173cmとなっていますが、基礎からの総高ではないかと思われ、塔身部は150cmほど。 内山村は風土記稿に91軒とありますが、村の中心は北隣の尾根で、この庚申塔がある場所は谷筋の摺手集落から南側の尾根を登りつめた場所になります。 なぜこんな場所にと不思議でしたが、道標から古い尾根道と判りました。 秦野(大山)方面から足柄峠を目指す際、酒匂川を渡ってより直線的に矢倉沢の関所を目指すと、足柄街道へ回り込むより、数本ある尾根伝いに目指した方が近くなり、その合流点に庚申塔を設置したようです。 いつの時代かは不明ながら、この付近に茶屋もあったとか。 なお、この庚申塔はレプリカが作られ近所の小学校に寄贈されているようです。 |
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書庫を作っておいたのに何も書いていなかったので。
紀年銘が風化している。もしくはまだ他にあるかもしれませんが、南足柄市で確認できた中で現存最古と思われる庚申塔(石祠)です。 弘西寺131弘済寺 真言宗寺院。寺があったので地名も弘西寺となったようです。 大きな寺院だったのか、だいぶ離れた場所にも「下弘西寺(現在の向田)」という地名がありましたので寺領だったのかもしれません。 いわゆる足柄街道(風土記稿では甲州道としているが、甲州街道とは別のもの)は、東西に長く伸びる尾根筋の山腹についていますが、尾根ピークだった時代もあるようで、集落も寺社も尾根の上にあります。 承応2年11月(裏面) 他、読めず。 かなりの風化で紀年銘を読み採るのに10分程要しました。 他にも刻字はありましたが解読断念。これが庚申塔に分類されているのは、中に二猿陽刻の石板が納められているからです。 山王石祠の可能性はありますが、不可分ということで…。 ついでなので、同所にある庚申塔を。 元禄12年3月 「アーンク 奉供養庚申二世安楽」 三面に猿。 南足柄市の庚申塔で最多のタイプです。 この銘文はシンプルですが、曹洞宗系になるといきなり文字数が増えて難読に。 |
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