庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

箱根町

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湯本の庚申塔

箱根七湯の内、一番低い位置にあるのが湯本。江戸時代より前の主要往還(尾根伝い)だった湯坂道の宿場でした。温泉場として鎌倉時代に利用されていたことが史料で明らかになっています。
箱根七湯の中では東海道に一番近く、湯本から湯本茶屋へ抜ける旅行者も多かったでしょう。源泉の数は4本(今はもっと多い)で全て外湯でしたが、温泉宿はそれなりの数があったようです。
湯本村は範囲が広く76軒。小名8、神社・社7宇、寺2、仏堂5が記録されています。

湯本705付近
イメージ 1笠付文字三猿塔
宝暦12年正月
「庚申塔」

道標(右とふのさわ/左ゆもと 道)
11名(姓名)
三猿。


湯本駅の正面口階段を降りると、左手に国道1号、正面に裏道、右手に箱根登山鉄道のガード下をくぐる道があり、裏道とガード下道の角に庚申塔。
旧位置はガード下道から山腹を登り始めたあたりにあったようですが、近年になって人目に触れる場所へ移したそうです。
道標の内容は温泉道なので、山腹を伝うルートが旧温泉道だったのかもしれません。

余談ながら、塔之沢は箱根の村で唯一庚申塔が見つかっていないエリアです。明治43年に早川の土石流で家屋30棟が流失した被害があった影響と考えられているそうです。




湯本神明社
イメージ 2笠付文字三猿塔
享保11年4月
「庚申供養之塔」
相州足柄下郡湯本村
僧侶名?1名、ほか21名(姓名)
三猿


神明社は風土記稿に村民持ちとあるだけで特に記事がありません。正規の参道なのかは不明ですが、箱根町役場の建物の隙間から神社へ登る階段があります。

庚申塔の設置状況はやや唐突な感があり、元は東海道沿いにあったのかもしれません。

次の早雲寺庚申塔の4年後、奉納者の姓は同じものもありますが同一ではありません。異なる庚申講があったはずです。







早雲寺
イメージ 3笠付文字塔
享保7年2月
「庚申會供養之□(塔)」
相州足柄下郡湯本村 14名(姓名)
三面に猿。


早雲の名を冠した小田原北条氏縁の歴史ある大寺院ですが、庚申塔は持ち込まれたものでしょう。ちゃんとした設置状況ではありません。
こちらの奉納者も姓名あり。境内にありますので、小名「早雲寺前」の講中だろうと思いますが、お檀家さんは湯本全域に多いでしょうから確定はできません。

庚申会(こうしん・え)は庚申待と同じ意味ですが神奈川では珍しい表現です。









白山神社
イメージ 4笠付文字塔
享和元年霜月
「庚申塔」
下宿講中。


湯本村と湯本茶屋村の鎮守です。天平10年(738)、疱瘡が流行った際、泰澄の弟子がやってきて十一面観音に祈願したところ温泉が沸き出し病の治療ができた伝説があるそうです。
余談ですが、天平期に疱瘡が流行り、泰澄が十一面観音に祈願して〜というのはパターン化されたもので各地にありますが、箱根修験や伊豆修験のエリアに白山修験が入り込んでいると見ると、なかなか面白いです。

庚申塔は小名「下宿」の講中による造塔。白山神社は早雲寺の境内にあったそうで、現在のバス停「下宿」とは500mほど離れています。






山崎、山神社
イメージ 5笠付文字三猿塔
明和9年11月
「庚申供養塔」
講中
三猿。


湯本からは離れていますので別にしようか悩みました。一応、山崎は湯本村の小名です。

山神社は湯本939付近。しかし地図に載っておらず極めて判りにくい場所にあります。

石仏が数基あり、小名「山崎」のものであることは間違いないでしょう。しかし、元からここにあるのかなどは神社の手入れをしている方もご存知ありませんでした。

これで箱根町の庚申塔はひとまず終了です。
資料にあっても見つけられなかった庚申塔が2基。
資料になくても、あって不思議が無い場所は沢山ありますので、まだ知られていない庚申塔はあると思います。

湯本茶屋、山神神社

湯本茶屋村は風土記稿の時代27軒。
名前の通り東海道で早川を渡る三枚橋(直進すると湯本などがある温泉道)から東海道を登って、最初に一息つける茶屋がありました。

湯本茶屋村は、もともとは湯本村の一部だったため、村の鎮守は湯本にある白山神社でした。寛永の頃、東海道整備が進み、立場(休憩所)や一里塚ができたため分村になったようです。
白山神社にも庚申塔はあるのですが、奉納者は湯本茶屋村ではなく湯本村の講によるものです。

イメージ 1笠付文字三猿塔
享保10年5月
「□納庚申供養」
湯本5名 茶屋村5名
三面に猿。


山神神社は村持ちですが鎮守ではありませんでした。
東海道からきつい坂を登った場所にあり、湧水がありますので、原初は村の水場としての祭祀だったのでしょう。もしかしたら茶屋で出す飲物に使われていたかもしれません。

そのまま登ると尾根伝いに箱根の関所を通らず抜けられたので、間道だった可能性はありますが、江戸中期頃にはだいぶ緩くなっていたとはいえ一応違法です。奉納者は2つの村で5名ずつ、いずれも姓名があるため、庚申塔は東海道筋にあったと思われます。
他に石祠などもありますので、村内の石造物をまとめたのでしょう。





大平台、山神社

大平台村は風土記稿の時代34軒。
村の鎮守として記載されている「山神社」は大平台駅の真横に現存。庚申塔のほかに双体道祖神、堅牢地神、浅間大神などの石仏群もあります。

イメージ 1笠付文字三猿塔
享保9年4月
「卍 庚申供養」
施主 大平臺 村中
三面に猿。


箱根湯本から登る温泉道は、明治以降の大工事によってずいぶん様相が変化しているので、江戸時代にどのような状態だったのか不明ですが、山神社と現在の国道1号を挟んだ場所にある林泉寺(曹洞宗)は、おそらく往古から場所を変わっていないでしょう。

早川沿いの急斜地につけられた温泉道は、通行不能になることも少なくなかったようですが、石仏群の中には富士講奉納による手の込んだ手水石などもあります。江戸時代は温泉地ではない普通の山村だったはずの大平台に、多くの石造物があるのは驚きでもあります。

イメージ 2



芦ノ湯

見つけられていないので情報のみです。
箱根町の資料には写真付で以下の内容が掲載されています。

自然石文字塔
紀年銘不明
「庚申供養」
芦野湯講中
133cm。


見た目は宮城野や二の平にある自然石の庚申塔と同系でした。
地図にポイントがついており、だいたいこのあたりか、と探したのが、通称「曽我兄弟の墓」がある場所。
江戸時代以前の箱根越えで主要往還だった湯坂道跡と思われる、散策路のような道が残っていて、曽我兄弟の墓の前後を探しましたが見つけられませんでした。
イメージ 1
芦ノ湯からはだいぶ離れていることもあり、ポイントが正確なのかどうかも判断できず退散したのですが、江戸時代の名所案内本「東海道名勝図会 5巻」に以下の記述があるのを後日見つけました。

イメージ 2曽我兄弟の墓と同所にあったようです。
「曽我兄弟石塔 虎御前石塔 庚申塚
 共に叢の中にあり土人云曽我又は虎か石塔外へ除るに又一夜に元の所へ寄ると云」

現地で、薮の中も一応は探したのですが…。
資料に掲載されてるサイズは133cmで多少の藪なら頭は見えたはずですし、整備されていない江戸時代ですら、3つの巨大な五輪塔と併せて紹介されているほどですので、判りやすい状態で設置されていただろうと考えざるをえません。

近いサイズの自然石はあったのですが、「曽我兄弟〜」とあるだけでした。
裏面に庚申銘があったのか、あるいは下草が枯れる時期に行けば、あっさり見つかるのか…。

鎌倉期の石造物や磨崖仏が沢山あるエリアで、紀年銘不明の庚申塔を探す物好きはそうそういないと思いますが、もし見つけた方がおられましたらお教えください。

余談ですが、曽我兄弟の墓かどうかについては風土記稿も疑問視しています。

底倉村


底倉村は早川沿いの温泉道が終る場所。温泉道はここから山間を進み、隣の温泉「芦の湯」経由で箱根宿へ。早川沿いの道は木賀温泉経由、仙石原村への駿州道になる追分でした。
風土記稿の小名には今も有名な温泉地名が登場しています。
久保、宮ノ下、堂ヶ島で44軒。
久保は底倉温泉がある小名で、箱根七湯のうち3つが底倉村でした。

宮ノ下、常泉寺
イメージ 1自然石文字塔
文化8年菊秋(9月)
「庚申」。


もしかしたら他にも銘文はあるかもしれませんが、苔で読み切れませんでした。
境内の石仏群としてまとめられているので、おそらく集められたものでしょう。
この界隈は明治以降、かなり開発されています。
資金力がある村なのでもっと庚申塔があっても不思議はありませんが、資料に掲載されているのはこれと、もう1つ、底倉村か宮城野村かよくわからないものだけです。

お寺さんの前を通る細い道が、おそらく往古の温泉道。軽自動車でギリギリです。
この界隈で石仏探索をするときは、車ではなく電車かバスと歩きの方が良いです。








小湧谷、小湧園社宅手前
イメージ 2尖角柱文字塔
貞享5年2月
「庚申供養」
施主 拾二人
道標(右せんこくみち/左はこねみち)
三面の下部に蓮華蓮葉。


箱根町の資料は三猿にしていますが蓮華でした。
小湧谷は明治になって開発された新しい温泉地で、風土記稿には掲載がありません。
古くは小地獄と呼ばれていたようです。
庚申塔がある道は宮ノ下から芦の湯への古い温泉道で、庚申塔の場所自体は往古からそれほど動いていないと当初は思っていました。しかし、道標の内容と古い道の関係からすると、現在の小湧谷集会所の辻あたりにあったのかもしれません。
小湧谷は小湧園の創業者が開発した土地なので、開発で移設したものを社宅の敷地に置いたのではないかと想像しています。ただ、訪問時、社宅が工事中で庚申塔がそのまま残こされるのかは不明。

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