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二ノ平は宮城野村に属していましたが、現在の宮城野集落から直線で1km以上離れた場所。名前の通り箱根山中としては珍しい平坦な土地でした。
普通なら人家も多くなり農地として開けた単独の村になったでしょうけれども、2kmほど西に大湧谷があるので酸性土壌との戦いだったでしょう。実際はどうだったのか調べていませんが明治の地図では樹林と竹林と桑畑のマークしかついていません。 現在は彫刻の森がある開けた町になっています。 メインストリート沿いの駐車場脇、西へ入る路地に。 文化13年8月 「庚申供養塔」 講中。 明治の地図では宮の下から直登してきた道と集落中央の道が交差する辻付近。集落の中央部に位置します。 宮城野村全体としての傾向通り、自然石で文化年間の造塔。 これがあるので、大火災で消えた木賀にも庚申塔があった可能性が高い気がします。というより、ただの想像ですが、一番経済力があった木賀に宮城野村で一番最初の庚申塔があったかもしれません。 |
箱根町
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江戸時代の箱根は須雲川沿い(現在の箱根新道下)に東海道が通っていましたが、もう1つ繁昌していたのが箱根七湯と呼ばれた温泉地が点在する早川沿い。
湯本・塔之沢・堂ヶ島・宮之下・底倉・木賀・芦之湯の7ヵ所。他に姥子や仙石原にも湯治場はありましたが大人数は宿泊できなかったようです。 七湯の「木賀」が宮城野村にあった温泉ですが、人家が多かったのは早川の対岸(北側)斜面。明神ヶ岳(1169m)の斜面のうち少し傾斜が緩い(といってもきつい坂)土地を開いていました。 風土記稿は55軒とひとまとめにしていますが、宮城野村の小名は7つあり、事実上は他の集落といえる木賀や二ノ平も含んだ戸数です。 風土記稿は山菜を中心とした作物を挙げています。現金収入は温泉地働きもあったかもしれません。 なお木賀温泉はかなり繁昌していました。村唯一の湯用寺という曹洞宗寺院もありましたが、木賀全体が明治になって大火災で途絶。今も温泉地としては復活しておらず寺も無くなりました。 宮城野集落には3基が点在。 諏訪神社 文化4年11月 「庚申供養」。 集落の最上部に(現在は別荘地がさらに上部を切り開いてあります)ある村の鎮守。 小名は「上」。湯用寺持ちでした。 宮城野全体に言える事ですが、明神ヶ岳からの湧き水が多く、苔が多い土地。放置しておくとあっという間に飲み込まれるので、多少なりと手入れされているようです。 余談ですが石仏群に堅牢地神塔が2基ありました。この土地での豊作祈願は切実だったのでしょう。 旧道から諏訪神社への登り口に 文化13年7月 「庚申供養塔」。 小名「向」の石仏群に双体道祖神と並んでいます。宮城野村を抜け西に進むと裏関所がある仙石原村。石仏群がある場所の直下にその時代の旧道が通っています。 これも余談ですが、旧道は宮城野集落の西へ少し進んだ場所から山へ登り、山腹を通っていました。登る道は消失していますが、登り切ったあたりに「宮城野城」があります。大森氏時代のものと考えられているようですが、宮城野集落は城番も兼ねていたのかもしれません。 集落内の水場に 文化4年9月 「庚申供養」 6名、台石に2名。 集落東側の水場に。小名「東」にあたるのかもしれませんが、小字は外窪。 宮城野村現存唯一の笠付角柱で、奉納者銘入です。村の草分け(最初の開拓者)がこの辺りだったのかもしれません。 宮城野集落の庚申塔は全て文化年間。この時期に庚申信仰が流行ったのか、あるいは温泉地稼ぎで経済的な余裕がうまれたのか。 宮城野村にはもう1基あり、それも文化年間です。 |
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仙石原は某アニメでは第三東京市ですけれども、箱根のカルデラ内で酸性土壌。農耕は大変だったはずですが43軒もあり、東海道から分岐して御殿場へ抜ける裏街道(駿州道)の関所がありました。
関所があれば茶店的なものはあったでしょうし、元文年間からは大湧谷から湯を引いた湯治場があったようですが、風土記稿は「風俗は甚だ鄙しく関内の諸村に比すれば異なる事異郷の如し」と特筆しています。 「鄙しく」をどう読むかにもよりますが相当な貧村をイメージします。 ススキの草原でも有名ではありますが、ススキは真横で硫黄が吹き出すような環境でも育つ植物ですし、現在ゴルフ場になっている辺りは一面の湿原でした。 寛保2年7月 「庚申供養塔」 台石に三猿。 どのような人達が建立したのか不明。参道入口付近にあるので、集落内からの移設ではないかと思います。 長安寺は室町時代、姥子にありましたが、間もなく廃れ、江戸時代、明暦年間になって仙石原村へ移築されました。現在は立派な曹洞宗寺院ですが、江戸時代はどうだったのか。 境内に元禄5年の「奉山王権現」「慈眼視衆生 福聚海無量 現世安穏 後生善生處」塔があります。 よくある願文ではありますが、酸性土壌の土地にある村ということを併せると、なかなか切実な感じが漂います。 |
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路傍から見える場所にありますが、地形が悪い上に強烈な藪で全体写真を撮れませんでした。 銘文は資料を目読と想像で補っています。 寛文8年正月21(庚申日) 正面 「□(剥落:キリーク) 為庚申供養造焉」 「八葉白蓮一肘間炳現何字素光色 禅智倶人金剛縛入如来寂静知」 左側面 「アク 寛文八戊申年 12名(出家6名)」 右側面 「タラーク 正月二十一日 18名」 裏面 「ウーン 円融院法院秀海 17名」。 実は裏面は藪が濃すぎて未確認ですが、おそらく「ウーン」が付いていると思われます。 それで金剛界四仏の種字となります。 ややこしい銘文は菩提心論という経典からの偈。密教における瞑想のやり方を示した内容で、八葉百蓮の上に浮かんだ円の中に阿字が光る、それを眺めつつ金剛縛という印を結んで如来の悟りの知恵を我が身に招き入れる、というような意味だそうです。 風土記稿によれば、箱根権現(箱根神社)の別当金剛王院(真言宗)の僧坊に円融院があったと記録されています。金剛王院は神仏分離で廃寺になったようで、円融院も現存していませんが、円融院はこの辺りにあったのかもしれません。当時の箱根権現は箱根修験の本山でもあり、金剛王院には修験者が15名記録されています。 元箱根の門前町は天保期で40軒。奉納者47名から出家者を除くと41名。 こういった場所の奉納者ですので、地元だけとは限りませんが、全戸参加の庚申講だった可能性も残ります。 ここへ行かれる時は藪が完全に枯れる時期をお勧めします。 蚊はいませんがダニが怖いです。 |
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住所がありません。
関所前の松並木旧道の、関所に近い出口あたりで山中を見渡すと見えます。 宝永2年閏4月27日(庚申日) 「三世不可得心」 施主 敬白 8名 二鶏、三猿。 「三世不可得心」は現在・過去・未来の三世にとらわれていると修行がおろそかになり成仏できませんよ、という戒めのような言葉。 禅宗で使うようですが、この庚申塔の場合、近くにある曹洞宗の興禅院の影響下にあった講によるものと想像できます。 二鶏がついているのは箱根町ではこれ1基のようです(知る範囲では)。 なぜこんな場所に、と思う場所にありますが、3基ある石造物全体に基壇が組んであるようで、路傍からの移設ではない雰囲気です。箱根宿の手前になる場所ですが、土地としては箱根宿の所属になり、宿場に薪などを提供していた山仕事の人達によるものかもしれません。 |




