庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

箱根町

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箱根、興禅院

興禅院は曹洞宗。開基は天正年間ですが、小田原の板橋村にありました。
幕府が元和4年に箱根宿を新設した際、小田原宿から移住させた50人と共に移設されたようで、風土記稿には、現在も名前だけ残っている「小田原町(小田原宿からの移民)」に属されています。

興禅院は箱根宿の小田原町における庚申信仰に深く関与していたようで、興禅院持ちの仏堂も併せると3基の庚申塔と1つの庚申堂が現存しています。

イメージ 1笠付文字三猿塔
貞享5年5月
「奉造立庚申供養宝塔」
「六道四生 平等利益」
箱根小田原町 施主等書誌□□(西誉? )
三面に27名(茂平衛内方、籐右衛門母など)
三猿。


神奈川では数少ない、完全な女講による庚申塔です。神奈川ではこれを入れて3基しか思い浮かびませんし、相模国エリアではこれのみかも。
3基とも宿場なのは何か関係があるのか。
村の庚申塔ではないので、庚申講は相談事(=政治)をする場ではなく、純粋な信仰による講だったか、あるいは宿場の女将連中の親睦団体だったのか。どのような講だったのか内容を知りたいものの1つです。

「六道四生 平等利益」は輪廻転生の中でどのような生まれ方をしても、等しく利益(=幸福、仏教的には仏の恵みあるいは成仏)がありますように、ということで、二世安楽と似たような意味になります。
箱根小田原町は、箱根宿の小名の1つ。
小田原宿から移って来た人達が住んでいたエリアです。

興禅院庚申堂
イメージ 2中には剣人型の彩色木像があるそうです。
事前に申し込んでおけば拝観は可能。
この庚申堂は風土記稿に「興禅院持ちの正源庵と号した阿弥陀堂」と同所にあったと記録されている庚申堂を移設したもの。


正源庵は廃寺となっていて、個人宅の裏山に跡地が残っています。
そこにも庚申塔。


正源庵跡
イメージ 3六角柱文字塔
宝暦11年7月
「庚申供養塔」
「六道四生平等利益」
小田原町 講中 
真厳代 女15名、男10名(出家名1) 

下が埋まっていて、しかもこの苔なので施主名は資料によります。
正源庵の庚申塔と興禅院の庚申塔が同じ講だったのか、違う講だったのかは不明ですが、人数は貞享塔が27でこちらが26と大差なく、銘文も似ています。
興禅院境内の庚申塔が昔から同所にあるとすれば、貞享5(1688)から73年後には庚申講の場所がこちらに移り、男女混合に変化していたことになります。


六角柱は上に何か乗っていたのではないかと思います。横に合掌像がありました。


イメージ 4自然石文字塔
大正9(庚申年)年10月28日
「庚申供養塔」
興善廿四世恵法建立 興善院檀中 箱根町有志 下宿有志中


知る範囲では箱根町最新の庚申塔。
講の場は変わっても興禅院が主導する形は続いていた事が判ります。
有志となっているのは、講員がだいぶ減っていたのでしょう。
小田原町ではなく下宿となっています。これは正源庵があった辺りの「組」名だそうです。





正源庵跡地は狭い谷の奥で、個人宅の敷地を通らないと辿りつけません。
訪問される際は興禅院さんで場所を訊いた方が良いでしょう。

芦川、駒形神社

芦川の石仏群の直前にある駒形神社は、風土記稿によると宿内の鎮守だったようです。
神社ができる以前、同所に箱根修験の比丘達が住んでいて、その頃に彼らが遥拝していた駒ヶ岳から駒形権現を勧請したと風土記稿にあります。

また、社地に庚申堂があるとも記しています。

イメージ 1自然石文字塔
宝暦12年9月
「庚申供養塔」


芦川の石仏群にある万治元年塔が、解説板の通り駒形神社にあったとして、この庚申塔があることを併せると、庚申堂があったのは間違いないと思われるのですが、氏子の古老に訊いても庚申堂のことはご存知ありませんでした。

なぜ万治塔が境内から移設され、これが残っているのかは想像するしかありません。
芦川の石仏群にあるものは廻国供養系が大半です。万治塔には仏教的な文言が入っていることと併せると、仏教的なものだけ除外されたのかもしれません。

堂内に何があったのか不明ですが、木像だったのなら神仏分離と修験禁止で破壊か、掛軸が掛かっているだけだったとしたら、氏子衆の家に保管されているのかもしれません。今になって氏子衆に猿田彦の有無を訊かなかったのは失敗だったと後悔しています。

芦川の石仏群

箱根宿は江戸時代になって作られた宿場町。
芦ノ湖畔が無人だったわけではなく、箱根神社がある元箱根に集落はありました。
当初、幕府はそちらを宿場にしようと計画していたのですが、住民との折衝が成功せず、箱根の東西にあった宿場町、「小田原宿」と「三島宿」から宿を50軒ずつ移住させて箱根宿を作りました。
これは宿場町内の小名として残っています。
天保期は198軒。ほとんどが宿場で働く人でした。

芦川の石仏群は箱根宿を出て三島方面への登り口手前にありますが、元はすぐ近くの駒形神社にあったものを移設したそうです。
神仏分離の影響でしょう。

イメージ 1笠付文字塔
万治元年11月29日
「卍 庚申真心成就」
□女六□ □□□□。


箱根町が作った解説板には「箱根で最も古い万治元年の庚申塔」と書いてありますが、実は2番目に古いもの。確認されている中で現存最古は畑宿の万治元年11月27日の文字塔です。
27日が庚申日なので、なぜ2日遅れの29日にしたのかは謎です。

面白い銘文ですが、奉納者らしき部分が風化で読み取れませんでした。
箱根は芦ノ湖の湿気に加え、雲の中に入ることが多いため、石仏は苔が強烈でどれも残念な状態です。

畑宿の庚申塔


江戸時代の東海道、小田原宿から箱根宿へのほぼ中間点にあるのが畑宿。
天保期は43軒。
「宿」の名前にはなっていますが、正式な宿場ではありません。
立場(たてば)と言う、正式な宿場と宿場の間に設置された休憩ポイントで、人には茶や甘酒などの飲料と軽食を、馬には水と餌を提供していましたが、宿泊は原則としてできない場所でした。
もっとも、江戸時代より前、後北条氏の頃には宿の機能を持った集落だった歴史があるうえに、江戸時代になっても木賃宿程度のことはやっていました。

畑宿は、寄木細工で有名な土地で、江戸後期に石川仁兵衛が考案しました。それ以前から細工製品を作って売っていたようで、山間の集落のわりには経済力があったと思われます。


イメージ 1風化笠付文字塔
万治元年11月27日(庚申日)
「奉造立庚申供養之宝塔為 施主各二世 天願成就也」
「秋月霜寒 花岸□□」
12名(道秋禅定門を含む)


箱根町現存最古です。

風化でほとんど読めなくなっていますので、銘文は資料によります。
禅定門は頭を丸めた在家信者のことと思われます。
畑宿にあった寺院は日蓮宗のみですが、日蓮宗でも禅定門を使うことがあるのかは不明。

東海道分間図のどれなのか、探しても見つけられませんでしたが、畑宿の箱根宿側口に庚申塔が描かれているようです。横に灯籠も描かれているので、これと以下の灯籠は当時から場所を動いていないようです。















イメージ 2灯籠
享保17年5月24日
「庚申講中供養塔石焼灯」
6名 講親1名(庄右衛門)。


畑宿の1つ手前の集落「須雲川」も立場でした。須雲川にも庚申燈籠があるのは偶然ではないでしょう。
芦ノ湖畔の箱根宿への中間地点というだけでなく、この辺りから道が急になっていたようです。
深い谷についていた江戸時代の東海道は、日が暮れる前から相当暗かったはず。
非公認の木賃宿をやっていたのは、ニーズが多かった一面もあるのでしょう。

また、農産物がほとんど作れない畑宿は、後北条氏の時代から諸役を免除されていたのですが、街道の保全や宿の運営を担うことが役目だったのでしょう。灯籠はその意味では欠かせない設備の1つでもあります。















番外
イメージ 3風化笠付二臂剣索持ち立像
寛文11年12月2日
右側面
「相州中郡従八所宮箱根大権現□□□□吉日之而一□為□同一月初四日至極月初二日時 記之」。
左側面
「南無阿弥陀仏 寛文十一歳 極月初二日」。
裏面
「為十方檀那二世安 樂也円西 施主生国大坂」


箱根町の資料は新旧2種類あり、1つは「箱根町に青面金剛は無い」として、これは除外しています。一方、後年に刊行した資料はこれを青面金剛として記録しています。
しかし、どうみても不動明王ですし、眷属はありませんし、銘文も庚申に絡む内容は読み取れません。無理矢理探すと、建立日が甲申で「こうしん」と読めなくもない、という程度です。
個人的には古い方の資料を支持します。

須雲川 駒形神社

須雲川 駒形神社
旧東海道の湯本から芦ノ湖畔の箱根宿へ至る中間地点あたりが須雲川。
風土記稿には30軒で記録されています。
箱根町に残る村鏡では、この数字は異なっていて、江戸初期は25軒、天保12年で23軒になっているそうです。
天保12年というのは、おそらく風土記稿(天保期)を作るから村で基礎資料をまとめろというお達しがあって作った村鏡と思われます。
原典に当たらないと詳細不明ですし戸数に齟齬はありますが、東海道とはいえ厳しい山村なので、それほど戸数は多くありません。

須雲川の庚申塔は信仰が最盛期から徐々に衰えていく様子がよく判ります。

イメージ 1笠付三猿塔
貞享2年小春申日(1685年)
「灯籠」
願主 供類願主二十二名等 宗観

ごく普通の笠付角柱塔に見えますが「灯籠」銘。脇に五輪塔の水輪に穴を開けた、あまり見たことのない石も設置されています。イメージ 2

本来はこれが乗っていて、元々は東海道沿いに立っていたのでしょう。







小春(10月)には庚申日が無く申日は2回。

箱根町の資料は「寛文12年の村鏡に本百姓22戸とあるので、22名は本百姓だけの講だったのではないか」と指摘しています。





イメージ 3自然石文字塔
宝暦2年中春11日(1752年)
「庚申供養」
8名。

中春がよく判りませんが、仲春のことだとすれば2月。
施主は8名に減っています。


・村のヒエラルキは領主、地主、名主、本百姓、脇百姓、水呑(小作)のような感じになります。
村の相談事(=政治)に参加できるのは、年貢を納め藩主や幕府から命じられる諸役もやる本百姓以上なのだそうです。名主は本百姓でもあることが多いですから、事実上は本百姓になります。













イメージ 4自然石文字塔
享和2年5月8日(1802年)
「庚申供養」
講中。

こちらは5月。
そして人数を彫ることなく講中で処理。
どうも須雲川村の庚申講は貞享2年以降、徐々に人数を減らし、造塔のタイミングもバラバラです。


・庚申信仰を解説している資料には「村の相談事は庚申の晩」と書かれていることがありますが、それができるのは基本的に本百姓。村民全員や男女混合、女講による庚申塔はありますから、全国どこでも「相談事は庚申の晩」だったとは言えないようです。

と、知ったかぶりで書いていますが、村の自治については本当に各地で色々で、時代によっても随分違いがあるようです。
脇百姓がなく、本百姓と水呑、その他の分類になっている村高明細帳もあります。
須雲川村がどうだったのかは調べていませんが、箱根町の資料には興味深いことが書かれています。






イメージ 5自然石文字塔
紀年銘不明
「庚申神」

いつ頃のものか全く不明ですが、個人祭祀のような雰囲気です。
幕末~大正あたりのものかもしれません。
最初は料金が高そうな三猿付の灯籠。それが自然石になり、最後はこんな小さなものに。

・小田原藩の史料によると、箱根地方の農民中、本百姓は38%になるとか。となると、村鏡の数字は本百姓だけを掲載しているのかもしれません。
また、脇・水呑が本百姓になったり、逆もあったり、増減があるそうです。
庚申塔に限らず、石造物を詳細に調べると、紙の史料・資料には出ていない村の歴史が判るかもしれません。

箱根は宝永の噴火(1707)による被害が大きかったですし、大雨で村がまるまる流されたため庚申塔がゼロの村もあります。

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