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宝暦9年正月15日 中村 幸中 三猿。 南湖2-6 珍しい像容で、茅ヶ崎市内では類例がありません。 中村というのも風土記稿に記載されている茅ヶ崎市域の村、小名には該当がありませんが、これは単純に上、中、下の意味で、南湖がそう分かれていた可能性はあります。南湖は茅ヶ崎村ですが「別のごとし」と風土記稿にも書かれており、実際、別村として独立したい旨の訴えも出していたそうです。 ただ、この場所には日蓮宗系の庚申塔が他に1基、柴又帝釈天系の帝釈天像も並んでいて、これが悩み所ではあります。六臂にはなっていますが、この庚申塔も帝釈天?とか、茅ヶ崎村に日蓮宗寺院が無いので、他村で庚申塔を預かっていた家が移住してきた?など疑問が出てきます。ちなみに風土記稿ベースで高座郡を調べると小名中村がある村には日蓮宗寺院が無く、これに関しては追究するのを止めました。 |
茅ヶ崎市
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延享4年4月28日 三猿。 柳島海岸、厳島神社 「延享」に異体字を使っています。初見時、延享十四に読めて驚きましたが「享」の上下を分割して1文字ずつにしているような感じ。 干支も異体字を使っているようで「丁□」の□は「卯」のはずですがこちらは字典を見ても該当がありませんでした。 延享4年の4月28日は庚申日ではなく、例えば宝暦7年(丁丑)=延享14年相当ならどうかと調べましたが、これも違いました(前後10年間で4月28日の庚申日はない)。 ただ像容が延享3年の松尾善性寺にある青面金剛と似ている部分が多く、同じ石工ではないかと思われ、善性寺の青面金剛から1年後の造塔と見るのが妥当なのでしょう。 柳島海岸の厳島神社は風土記稿に記載が無く、明治の地図では字河岸。調査不足でどこの村なのかはっきりしていません。大きな湊だった柳島の南に位置していますが、江戸時代は川向こう。柳島村ではなく、柳島湊と使用をめぐって争論をしたこともある南湖の人々が開いた集落の可能性もあります。 現在の厳島神社は宅地造成によって参道が消失し、境内へは本殿の後ろからしか入れない奇妙な神社になっていますが、水運に使われていた土地の神社らしい、蛇を彫った「川崎大明神」塔や、小田原の風祭石らしき石祠などがあります。 紀年銘部分を出してみます。 |
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延享3年11月 「奉納庚申供養」 三猿。 松尾、善性寺 もしかすると茅ヶ崎市内で一番小さな青面金剛かもしれません。 細かい特徴ですが、バンザイ型というより日月を掌に持ち親指で押さえているような持ち方で、これと似た青面金剛は他にもあります。 松尾村は風土記稿の時代で13軒。別資料では21軒の記録もありますが、戸数の少なさでは茅ヶ崎市域で2番目の小さな村でした。こんな小さな村でも寺と神社があるのは普通だったのでしょう。 庚申塔は善性寺境内の壁沿いに押し込まれています。松尾村は小さな村にもかかわらず3基残っており、そのうちもう1基は隣の神社にあります。砂丘が多い茅ヶ崎の海側は、松尾村に限った話ではありませんが、関東大震災で全戸倒壊級の被害だったようです。ただの想像ですが、元は同所にあったものが散逸して寺と神社に分かれたのではないかと思っています。 |
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寛保元年11月15日 「庚申供養」 7名(台石) 三猿。 芹沢581付近 条帛を掴むタイプの最後です。他の2基から1年後の作(元文6年は4月まで。以降が寛保元年)。ただし上手がバンザイではなく矛と宝輪?持ちになっています。庚申塔から得られる細かい特徴(腕、顔、文字など)を参考に他の石仏(墓石含む)を探せば、この石工の作品が見つかるかもしれません。 芹沢村の小名大谷は名前の通り南北に長い大きな谷で、その奥、平地が終る辺りに東西の尾根へ登る道があり、谷の中央を通る道との小さな辻になっています。庚申塔は辻の山道の登り口に道祖神と並んでいます。おそらく往古から場所は変わっていないのでしょう。以前は野ざらしでしたが、近年に覆屋が付けられました。谷底なので湿気もありますから、もっと昔には覆屋があったのかもしれません。 宅地造成が始まっていない、まだ完全な農村だった頃の空撮写真を見ると、大谷の中程から南には7軒ほどの家が確認でき、奉納者の7名と一致します。もしかすると小名より細かい字があり、その全戸参加の講だったのかもしれません。 なお、全くの余談ですが、条帛を掴む青面金剛の所在地は茶屋町からこの芹沢まで、ほぼ北へ直線上に並んでいます。そのラインをさらに北へ伸ばすと藤沢市葛原の瀧出現不動尊へ。ここは廃寺になった長盛寺(真言宗)があった場所ですが、不動は江戸初期に出現し霊験があるとされていたそうです。何やら修験の臭いが(笑)。 |
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元文5年12月 中赤羽根村 講中 三猿。 赤羽根、西光寺 元文5年11月の茶屋町稲荷にある青面金剛と同じ、条帛持ち(掴み)。笠付のおかげか、あるいは内陸部で砂塵被害が少ないせいか、こちらの方が状態は良く、条帛を掴んでいる様子が比較的明瞭です。この1基が無かったら左前手は不明なままだったかもしれません。 茶屋町稲荷から1ヶ月後の造塔で、この石工は元文5年頃に有名だった人なのかもしれません。茅ヶ崎市以外でも同タイプを見たような気がしています。活躍した時代は1740年の前後5年くらい(享保、元文、寛保、延享)に絞れそうです。 赤羽根村は上、中、下に分かれており、西光寺は中赤羽根なので地元の庚申塔を預かっている |



