庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

茅ヶ崎市

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年不明、芹沢一寸峠

イメージ 1上欠舟形青面金剛
紀年銘不明
三猿(風化)。

芹が谷、一寸峠(ひとあしとうげ)

文政7年の三猿塔と同所。茅ヶ崎の古い資料(1977年頃)に中折れの風化した刻像塔の写真が載っているように覚えています。現在、中折れの上部は欠失。
三猿も本当に付いていたのかと疑問に思うくらいの状態。ただ、何かの像が彫られていた痕跡がかすかに認められます。



イメージ 2内容不明残欠(参考)。

これが庚申塔なのかどうかは怪しく、古い資料では庚申塔の可能性を指摘しているだけです。庚申塔であっても不思議はありませんが、道祖神など他の石仏の可能性も充分にあります。
紀年銘が記録されている文政7年塔は柳谷講中で、同所にあるため全て柳谷のものと見なすことは可能ですが、小さな谷戸の集落が3基も庚申塔を造ったとはちょっと考えにくく、個人的には否定的です。

年不明、堤八王子神社

イメージ 1青面金剛残欠
紀年銘不明
単体。

堤、八王子神社

残してくださっていることに感謝するしかない状態です。
文字情報が何も無く、青面金剛も一部だけではありますが、腕のカクっと折れ曲がる感じや頭部の尖り方など、似た像容を探すと元文~延享あたり(18世紀中頃)にいくつか見受けられます。
八王子神社には3基ありますが、元禄塔は階段途中で、この残欠と文化元年文字塔が境内。元禄塔と境内の2基は元位置が違い、境内の2基が八王子神社界隈のものだと想像しています。







余談。
元禄塔の脇に昭和4年の石祠があり、裏に「養蚕大神」銘が彫られています。茅ヶ崎に限らず、幕末から明治大正にかけてシルクは重要な輸出品で、神奈川県でも農村は競って養蚕を行いました。茅ヶ崎にはシルクの工場もあったほどで、堤村でも養蚕をしていたのは確実です。しかし農家さんに質問しても養蚕のことはご存知ありませんでした。石祠は養蚕に対する信仰によるもので、県内各所に養蚕信仰の石造物が残っています。神奈川には養蚕と庚申が融合した例もあるほどで、いかに養蚕が大きな収入源だったか伺えます。それでも90年近くを経れば地元でさえ記憶は失われてしまうわけです。庚申信仰も同じ経緯をたどってきたことでしょう。

年不明、赤羽根宝積寺

イメージ 1風化残欠文字塔
紀年銘不明
庚申養塔
道標(左側面:右 芹沢道 右側面:左 堤村道)。

赤字は資料による

赤羽根、宝積寺

寛政12年三猿塔と並んで。
写真の背景が斜めになっているのは斜めに埋められているからです。風化が酷く、パッと見では何だか判りません。最初の調査が行われた昭和50年代当時にも風化していたようで、資料も紀年銘は不明。道標は向って右左。
この道標は興味深く、地元で得られた「元は青面金剛と同じ大庭境の三角地にあった」という証言が正しいとしても、それ以前は別の場所にあった可能性を指摘できる内容です。

茅ヶ崎の古い資料に記録されている青面金剛があった大庭境の三角地から、芹沢村と堤村へ分岐する道は明治の地図でもあることはあるのですが、道として細い上に天候次第では使えなさそうな地形で、道標を置く道(常用に耐える)ではなさそうなのです。
地図を眺めると、道標を設置するのにふさわしい分岐で赤羽根村に最も近い場所は、宝積寺の東にある坂を登り切った辺り(大庭境ではない)。そこ以外にも場所はありますが遠すぎて赤羽根村域を外れていると思われます。このブログを書くまで気がつきませんでした。教えて下さった方が混同していたのかもしれません。

年不明 南湖2-6

イメージ 1角柱文字塔
紀年銘不明
「釋帝青面金剛童子」
願主十良左衛門

南湖2-6

宝暦9年の青面金剛と同所。
「釋帝」は帝釈のことと思われます。日蓮宗でこういう使い方が許されるのか知りませんが「申庚」と同じか。明治以降のものだとは思いますが、珍しいです。














イメージ 2舟形二臂帝釈天立像
紀年銘不明
「帝釈天」。

柴又系の帝釈天刻像塔。これが庚申信仰によるものなのかどうかは不明です。
同じ並びにあって、庚申信仰でも登場するからこれも庚申塔と見なすことはできますが、こればかりは建立した人に訊かないと判りません。

この場所の3基は郷土史家もよく判らないそうです。南湖には浄土宗寺院があり、そこにもヒゲ題目付きの石碑がありますので、寺院はなくても信仰していた人々はいたのでしょう。

昭和23年10月

イメージ 1角柱文字三猿塔
昭和23年10月2日(庚申日)
「庚申塔」
鈴木兼義
三猿(線刻)。

芹沢308

紀年銘が明瞭な庚申塔として、今の所、茅ヶ崎市最新です。これ以外にも庚申塔はありますが、全て紀年銘不明となります。
三猿は写真ではほとんど判りません。
日の当たり具合が良ければ薄い線刻が確認できます。昭和23年10月2日は新暦での庚申日。第二次大戦が終ってから3年目です。

同所といっても地番が同じだけで少し離れていますが、貞享4年の青面金剛残欠があります。江戸時代に庚申講があったのは間違いありませんが、明治から昭和のどこかで途絶えたのでしょう。講員の家で持ち回りし、食事の用意や掛け金なども多少は必要だった庚申講は、戦中戦後の厳しい食糧事情や社会情勢で存続できなくなった所が少なくありません
。講ではなく個人祭祀だったからこそ続けられたのでしょう。
それと戦後早々に造立できたのは、農村部というのも大きいかもしれません。芹沢界隈がどうだったのかなどは調べていませんが、GHQ主導の農地解放があったのはこの頃で、農村部にとっては明るい未来が開けていた時期です。

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