庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

茅ヶ崎市

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大正11年12月

イメージ 1角柱文字塔
大正11年12月
「庚申塔」
志主□□民五郎

円蔵、個人宅内

資料には住所まで掲載されています。
外から見える場所にあるので、遠くから撮影しただけ。詳細は資料によります。写真はピンぼけですがなんとか「庚申塔」は読めます。

円蔵に比較的多い姓で古くからあるお宅です。しかし円蔵の輪光寺にある青面金剛塔に同姓はありません。風土記稿に円蔵の小名は9も掲載されています。小名単位で集落があったのかどうかは不明ですが、輪光寺の青面金剛塔を造立した講とは別に庚申講があったのでしょう。
円蔵の神明大神宮に安政6年の円蔵古地図を写した石碑があります。各家の名前(筆文字)まで書かれている詳細なもので、村内にある道祖神が6基確認できます(現存4基か)。道祖神を祭祀する地縁関係の講のようなものが少なくとも6つあったと考えることができます。庚申講も同様だとすれば、この個人宅の集落でも講がかつてはあったと見なせます。

なお、庚申信仰自体はこの頃になると完全に衰退していますので、間隔はあまり意味もありませんが、前回から38年の空白があります。この間、日清戦争、日露戦争が続き、茅ヶ崎市内でも戦死者がだいぶいたようで、各所で忠魂碑の類いを目にします。この庚申塔造立から9ヶ月後、関東大震災がおきました。

明治16年2月

イメージ 1駒形文字塔
明治16年2月
「庚申塔」
願主 □□。

下寺尾、白峰寺

どういうわけか江戸末以降、下寺尾村の庚申塔が多くなります。
これも個人建立。どこかのお宅にあったものではないかと思われます。
茅ヶ崎市内の「庚申」を明記した塔としては18年ぶり。まったくの妄想ですが、神仏判然令以降の各種布告で民間信仰にも風当たりが強くなり、萎縮して庚申講などをやめた集落があったような気がします。当時はすでに衰退気味だった庚申信仰も、篤信な人はいたでしょうし、そういう一部の人達だけが個人的に続けていた結果、願主1名の塔が造られたのではないかと。そして当初は猿田彦に名前を変えて続けていたが、廃仏毀釈の騒ぎももう収まったし、ということでまた庚申の名前が使われ出した
ような気がしています。
個人宅内および所有地にあったものが代替わりで寺社に移されるケースは少なくないようで、いくつか実例に出会っています。
なお、新暦の明治16年2月に庚申日はありません。旧暦の明治16年2月だと庚申日があり初庚申になるものの新暦では3月になります。新暦上の初庚申は明治16年1月にありましたが、旧暦では明治15年の締め庚申の12月になります。あくまでも庚申日を意識していたら、というだけの薄い根拠だけですが、カレンダー上は新暦を使って生活していても、こういうものは旧暦のままだったかもしれません。

明治12年2月

イメージ 1残欠角柱文字塔
明治12年2月
「□田彦大神」
中島村磯崎□□建之
道標(左側面:此方 東海道馬入川 右側面:此方 柳島道)。

中島、個人宅内

資料には住所まで記載されています。
小字二ツ屋の三叉路にあったものだそうです。
いつ頃かは不明ながら、車にぶつけられて破損し、以降は庭で保管しているとのこと。
資料写真は半分に折れたものをつないで
全長95cmとしています。1/3が表面を整えていない造りで、台石に乗せてあったのではなく、下部を地中に埋めて立てていたようです。
調査させて頂いた時は他に正体不明の石材2つとまとめ置きされており、重くてひっくり返すなどはできず、上半分だけの写真です。

道標の内容から北に正面を向けて立っていたことが判ります。馬入川は相模川のことで、明治12年ならすでに東海道に馬入橋が架かっていたはずです。調べた範囲では明治11年に木製の橋があったとする一方、工事途中で相模川の氾濫があって流されたというものもあり、よくわかりません。橋が完成して使われていれば、かなり大きな出来事で「馬入橋」や対岸の地名「馬入」が入りそうなものです。「馬入川」としている所だけで推測すると、まだ江戸時代と同様、舟での渡しをやっているようにも思えます。

明治12年2月

イメージ 1駒形文字塔
明治12年2月
「猿田彦太神」
願主 酒井平左衛門。

下寺尾、白峰寺

願主の御子孫がいらっしゃるようで
、下寺尾村の庚申塔です。
紀年銘明瞭な庚申塔だけで見ると、前回の元治2年から14年の空白があります。この間の出来事は倒幕と明治政府の誕生、そして慶応4年の神仏判然令です。茅ヶ崎市域においても、神仏判然令から続く一連の宗教政策によって廃寺や統合された神社はいくつか確認できていますし、庚申信仰にも多少影響はあったでしょう。
廃仏毀釈運動を含む宗教的混乱が終ったのは明治10年の教部省廃止あたり。他の市ではその間も庚申塔が造塔されていますので、茅ヶ崎の場合はたまたまかもしれませんが、明治12年以降の庚申塔は全て個人造立になります。


ところで、紀年銘の「明治十二年
二月吉日」は、旧暦なのか新暦なのか悩み所です。新暦が導入されたのは明治5年。12月3日が明治6年元日となりました。旧暦だと明治12年2月に庚申日はありませんが、新暦の2月6日が初庚申日に当たります。

元治2年3月

イメージ 1角柱文字塔
元治2年3月
「庚申塔」
行谷邑 講中 9名
道標(右側面:東ふじ沢 西一の宮 北用田 南四ッ谷 道)。

行谷、金山神社下

茅ヶ崎市内の紀年銘が判読できる庚申塔の中で、江戸時代最後。
横に並ぶ文政7年塔と似た作りですが、こちらの方が大きく、道標になっています。右側面に東西南北と地名がまとめ彫りされていて、谷の入口、谷内の辻、村背後の丘陵上の辻と元位置候補は複数考えられます。
ただし、どこに設置されていたとしても、行谷村から各方面へ直通できる道はありません。南の四ッ谷道は、藤沢市四ッ谷が東海道と大山道の分岐点でしたので、おそらく大山街道のことでしょう。土地としての四ッ谷は行谷村からだと藤沢方面と同じです。
講中の9名については文政7年が11名でやや減っているものの、およそ40年を経ているのに似た作りになっていますし、同じ講かもしれません。元治は2年までで4月には改元され慶応です。将軍が慶喜になり慶応3年に大政奉還。世間は完全な幕末モードでした。行谷村は田舎の小さな村ですし、領主の旗本馬場氏も小身ではあったようですが、江戸と京、伊勢などとの往来は増えていたでしょうし、他所者が迷い込んでしまうケースが増えていたのかもしれません。
また、文政7年から元治2年までの約40年の間に、お陰参りはありましたし、3年前の文久2年あたりにはコレラの流行などもありました。金谷神社の隣にある宝蔵寺には文久2年の百万遍供養塔があり、「狐狼痢除」と彫ってあります。行谷村で実被害が出たのかどうかは不明ですが、小田原で参勤交代の従者が死亡した記録があるようで、これを意識したとすれば谷の入口あたりに庚申塔を置き、余計な道迷いの者が村へ入らないようにしたのかもしれません。

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