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万延元年9月 「庚申塔」 村講中。 下寺尾、白峰寺 所在不明の万延元年文字塔とよく似たスペックです。これと混同されている可能性はありますが、資料上は別になっています。 白峰寺には4基あります。各所から持ち込まれたようで、この文字塔の「村講中」がどこなのかはっきりしません。風土記稿に下寺尾村の小名は池端しか記録されていませんが、明治期の地図だと他に、白峰寺の門前が北ケ谷、谷の入口が下寺尾原、その中間が前田、池端の他に3つの小字があったようです。4基が3つある小字の集落から持ち込まれたと考えることもできます。でもそう都合良くのかどうかは微妙ですが、江戸時代の道祖神も3基あり、下寺尾原と前田の境目、前田と北ケ谷の境目、そして元位置不明な1基と揃っています。庚申塔と道祖神が同じ場所にあった可能性もありそうです。 ところで万延元年9月は晦日が庚申日。でも締めの庚申日は12月にありました。12月ではなく9月に3基の記録があるのは何か意味があったのかもしれません。 |
茅ヶ崎市
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万延元年9月 道標(此方南湖道) 正面向き邪鬼?。 西久保、室生寺参道入口 この風化なので、正直、庚申塔かどうかすら怪しいです。 資料では三猿としていますが、どう見ても三猿には見えず、強いて言うなら正面向きの邪鬼。しかし、茅ヶ崎市域ではイレギュラーな像容になってしまいます。もしかすると昔は三猿付きの台石があったのかもしれません。 資料は室生寺参道入口としていますが、西久保村の中央に昔からあった辻で、双体と文字の道祖神に挟まれて現存しています。この辻には他に北向地蔵もあって、昔の雰囲気が良く残っています。庚申塔の道標は左側面に「此方南湖道」で、これもちゃんと合っていますので、往古からほとんど動いていないと思われます。 なお、江戸後期の石仏は風化がひどく、古くなるほど状態が良いのは神奈川中央部の定番ですが、室生寺境内には享保や宝永の素晴らしい石仏があります。墓石ではありますが境内にありますので、庚申塔を見るついでに是非。 余談。西久保村は風土記稿の時代49軒。東隣の円蔵村の枝郷だったそうです。円蔵村を含む懐島(ふところじま)郷には円蔵村、西久保村、矢畑村、浜之郷村があり、いずれにも延宝以前の庚申塔が残っています。村が古くからある証拠のようなものですね。 |
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自然石文字塔
万延元年九月 「庚申供養」 村講中。 所在地不明。逸失か。 1977年の「茅ヶ崎の庚申塔」に情報のみ掲載されています。基礎資料に記録があったものの所在地名が無く、市の調査時には既に見つけられなかったか、調査自体を断られたのかもしれません。 所在地情報が無いので探しようも無いですし、資料によって情報に若干の違いもあります。1977年版は自然石としていますが、その後の資料では形状不明。本当に逸失ならどこの地域か程度でも情報があってしかるべきです。基礎資料を作成された方は1977年当時まだご存命だったようですし、なんとなくですが、本当は現存していて、個人宅の敷地内に保管されているのかも、と思っています。そうであれば、そのうち再登場するかもしれません。 |
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嘉永6年4月 「庚申塔」。 松尾、神明社 状態が不安定な庚申塔です。 茅ヶ崎市の資料ではちゃんと台石(埋まり気味)に乗る写真が掲載されていますが、私の初見時は台石から外れ、他の石仏が東向きの中、これだけ西を向き隣の道祖神塔に立てかけられていました。今は東向きになっていますが20cmほど埋められ「塔」が見えません。 善性寺の延享3年青面金剛と同じ場所にあったのではないかと思い、色々旧所在地を想像してみましたが、東隣の南湖との境は河川の増水被害が多々あったようで石仏の現存率としては条 ところで造立の4月は、茅ヶ崎市内に現存する庚申塔として2例目です。初出は文化9年の十間坂神明社にある青面金剛。どちらも4月に庚申日はありません。例が少ないので妄想にすぎませんが、田植えの時期(旧暦の4月は現在の5月頃)と関係があるか?。 茅ヶ崎では5月の末が田植え時期です。 |
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弘化5年2月 講中4名 講中5名 二邪鬼、台石に三猿。 室田、永昌寺 山門前に文化5年塔と並んで。 茅ヶ崎市では唯一の二邪鬼です。三猿が付いた台石の風化具合と竿部の状態が違うことと、青面金剛の剣は欠損していますが、梨地仕立で全体として妙に新しい印象です。竿部のみ再築かもしれませんが、それをうかがわせる刻文は見つけていません。 把握している範囲で、隣接市域に二邪鬼は平塚1基(文久2)、藤沢2基(文政8、万延元)。いずれも江戸後期に登場しているので、これも再築だとしたら弘化5年に造り直したのかもしれません。 並んでいる文化5年塔は8名でこちらは9名ですが、8名は名前のみでこちらは姓名です。室田村は風土記稿の時代25軒で、割とコンパクトにまとまっている村なので、文化5年から40年近くを経た弘化2年塔も、前塔と同じく三役クラスの講ではないかと思います。この仮定が正しいとすると、姓の有る無しにどういう背景があるのか気になります。 以下妄想です。この頃になると領主の旗本達は経済的に困窮しきっていて、領地の村々へ年貢の前借りや借金を申し込み、酷いケースになると村から管財人的なことまでされていたようです。これについては室田村ではありませんが、各所に同様の古文書が残っています。つまり領主に対する遠慮がだんだん失われていたとも考えられ、そこで今回は姓を入れてしまったのではないか、などと勝手に想像して面白がっています。ただ、そうであれば村も経済的に困るわけで、庚申塔の建立などという費用がかかることは避けるのではないかとも考えられますが、講には積立金がありますし、実は農民の方が豊かだったようです。 |



