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文政7年仲冬(11月) 「庚申塔」 行谷邑 講中 11名(台石) 行谷、金山神社下 資料によっては台石の内容が他の庚申塔のものになっています。正誤不明なので現状を正とします。茅ヶ崎市域では珍しいタイプで、周囲をあえて荒く仕上げ文字の部分だけ整えた、ちょっと遊び心のある造りになっています。 前回の文政6年塔から1年後の造塔。11名の姓は文政6年塔といくつか重複していますが、同姓の数や名が異なっています。たった1年で総入れ替わりするとは考えにくいので、文政6年塔とは違うメンバーによる造塔と思われます。わずか23軒の行谷村ですが、小字が3つあったことと併せ、少なくとも2つの庚申講があり、それぞれが庚申塔を建立したのでしょう。 他地域になりますが、同じ村や隣接する村で、どこかが建立すると後追いをするように建立する例がいくつかあります。多少は張合う気持ちがあったではと妄想しています。 行谷村は文政6年塔やこの塔に出て来る姓の家がいまもありますが、村内にバラけていて姓だけでどの小字だったのかなどは推測もできません。行谷初出の承応4年塔は谷の東、隣村の芹沢境にあったと解説されているので、郷土史を調べれば元位置のヒントがあるかもしれません。 |
茅ヶ崎市
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文政6年11月 講中 9名 三猿。 行谷、金山神社下 十間坂神明宮の文化9年青面金剛塔と似ている印象です。同じ石工だとすると11年後の作になるので微妙なところですし、細かい部分が違うようにも見えますが…。それと、周囲を彫り残し、青面金剛の背後は平面ですが、三猿の背後は梨地にしていたりと小技が効いています。 行谷村は風土記稿の時代23軒で127石。1軒あたり5.5石の茅ヶ崎市域では平均的な農村です。東西に伸びる小さな谷に水田と、高座丘陵の台地上に畑があったようです。小規模な村なのに金山神社下には5基も庚申塔があります。村全体で庚申信仰が長く続いていたようで、初出の承応4年塔は野中姓の願主1名ですが、同姓がこの庚申塔にもあります。 9名が村全体の講なのか違うのかは、この庚申塔だけでは判断がつきません。風土記稿に小名は記載されていませんが、3つの小字があり、谷の入口(西)が広町、中程が長久保、奥が大島のようで、小字単位の庚申講があった可能性もあり、この庚申塔の次にUPする文政7年塔と併せて考える必要がありそうです。 |
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文化9年霜月 「庚申塔」 相列高座郡堤村 三猿。 堤3412付近 風土記稿にある堤村の小名中谷は上下に分かれていたようで、下中谷の庚申塔になります。 最初から余談になりますが、小名中谷は中央に南北の道(県道404)があり、その左(西)が下、右(東)が上に分かれ、道祖神の祭祀なども別にしていたようです。県道404をまたいで祭祀をしていた地域(堤村内)もありますので、道による分断というより、最初から集落として別系統だったのでしょう。神社も別にありました。下中谷にはかつて八幡社があり、この庚申塔がある場所が所在地だったようです。脇の坂を登ったすぐの場所に八坂神社があり、浜降祭用の神輿庫があるものの、八幡社との関係は不明。市内別所で聞い 現在は石仏群があるのみで、馬頭、道祖神、石祠などもあります。道としては古く、雰囲気もある上に、現況と変わらないモノクロの古い写真も残ってはいるのですが、馬頭は道標になっていて、右側面に「ふじさわ道」、左側面に「一之宮道」とあり、現在の設置状況とは真逆の方角になるので、これも集められた石仏のようです。 文化9年は10月4日に大地震があり、茅ヶ崎市域もそれなりの被害があったはずですが、どうもこの庚申塔を見る限り、堤村はさほどでもなかったのかと思えて来ます。三猿はだいぶ風化していますが、←←の右向き二猿と、上に俯せている一猿の遊んだ表現になっています。 |
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文化9年10月 「奉納第六天」 庚申講中 8名。 十間坂、第六天神社 庚申塔ではないので参考品です。 前回の文化9年4月塔がある神明宮は、第六天とエリアとしてかなり近い、というより、昔は第六天の所有地だったようです。当初は別ですが今は祭祀を第六天の宮司さんがやっているそうで、庚申講中も同じではないかという気がしてなりませんが、ではなぜ第六天ではなく神明宮にあるのかなど、謎なことになっています。 講中の8名は全て姓名表記で、そのうちの鈴木氏については、南湖の金剛院にあった梵鐘にも名前があったそうです(戦時供出により銘文のみ残る)。この梵鐘は寛政9に地蔵講中、和讃講中、若者中によって奉納され、世話人が鈴木氏の母でした。この鈴木氏1名だけをとってみても十間坂で大きな存在だったことがうかがえます。また、時代は不明ですが、この鈴木氏と同姓同名の人物は柳島湊で廻船業に携わっていたという記録もあります。これが同一人物であるなら、十間坂の庚申講をやっていた8人は十間坂の政治経済に影響力のある人達と見ることができそうです。 なお、文化9年10月は、4日に横浜市域を震源とする大地震があったようで、神奈川、保土ヶ谷、戸塚の各宿場では家屋倒壊が多数記録されています。茅ヶ崎でも灯籠が倒れる程度の揺れはあったと推測できます。もしかするとこの灯籠はその時に倒れた先代の再築になるのか、とも思いましたが、紀年銘は十月吉日になっています。 |
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文化9年4月 奉納者数不明 三猿。 十間坂、神明社 明暦4年の四臂青面金剛と並んで。 奉納者名が彫られているように見えるのですが、砂に洗われている感じで判然としません。明暦4年塔の所にも書きましたが、神明社は風土記稿に未掲載です。風土記稿が編纂された天保年間の後、伊勢参りへ行った村人によって勧請されたらしく、この庚申塔が造られた当時にはまだ神社が存在していませんでした。 元々は東海道筋に建っていたのか、あるいはすぐ近くの共同墓地の辺りにあったのかなど、想像はできますが、郷土資料などを探しても元位置がどこかは不明でした。 以下は根拠無しですが、近隣にあったとすると、十間坂の東海道筋で商売をやっていた人々による講があったのかもしれません。郷土資料には職業由来の屋号が羅列されていて、先祖が大阪や埼玉など、商人ならでは(農民は移住しにくい)の履歴が書かれていました。 |



