庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

茅ヶ崎市

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寛政12年

イメージ 1尖角柱文字塔
寛政12年のみ
「庚申供養塔」
宿氏子中。

中島、左近稲荷

中島村の庚申塔です。が、講中ではなく氏子中奉納というレアケース。
風土記稿に小名が記載されていません。他資料に
細かい小字は沢山ありますが、農地を含まない集落は、東海道筋を東町・西町、南の日枝神社がある一帯を本宿、そこから東を二ツ屋と呼んでいたようです。
「宿」は普通に考えれば本宿であり、中島村の鎮守日枝神社の氏子中になるのでしょう。
東町・西町から本宿へ南下する一本道は「殿道」の名があり、本宿にあった領主の館への道で、中島村の人々にとっては縁起の良い道だったらしく結婚の際にはわざわざこの道を通ったとか。


東町・西町
から殿道に入って家が絶えるあたりの左右に稲荷があり、左近稲荷、右近稲荷と呼んでいたが、右近稲荷は川の氾濫で流され現在は左近稲荷に合祀している。という伝承があるようです。他のバリエーションもありますが、大水で稲荷社が流れたので合祀したという大筋は変わりません。
この稲荷は所在地から、東海道筋の東町・西町に関わりが深いと思われるのですが、なぜそこに本宿の庚申塔があるのか、いまいちすっきりしません。
例えば小和田村の東海道筋は本宿、宿、新宿に分かれており、同じように中島村も東海道筋を「宿」と呼んでいた時期があり、氏子中は右近左近の稲荷に対するものではないかという気がしてなりません。調べても裏付けできなかったので妄想にすぎませんけれど、それなら素直に頷けるのですが…(笑)

寛政12年9月

イメージ 1尖角柱三猿塔
寛政12年9月
「庚申供養塔」
赤羽根上村中
台石に三猿。

赤羽根、宝積寺

昭和までは寺の裏、台地上へ登り、今の藤沢市大庭台霊園手前の三角地帯にあった3基のうちの1つ。三角地帯は今も農地として残っていますが、わりと広く、例えば3ヶ所ある角地のどこかだったのか、などまでは取材していません。霊園工事にともなう道路拡張で移設したのだそうです。
霊園は1970年の開園なので、その前後に移設されたのでしょう。茅ヶ崎市の1977年資料では、なぜか享保2年の青面金剛塔だけは三角地帯に記録され、この三猿塔と文字塔は宝積寺で記録されています。3基同じ場所にあったのなら、まとめて移設しそうなものですし(地元ではまとめて移したと伝わっています)もしかすると多少離れて設置されていたのかもしれません。
いずれにしても3基があった当時は、今の霊園も含めた一帯がほぼ農地か林。民家が全く無い農地の中にあったわけで、
道の反対側は隣村の農地ですし、他地域からの障を遮断する塞神的な意味合いではなく、村の境界を示す意味合いが強かったのではないかと思います。

寛政12年6月

イメージ 1尖角柱文字塔
寛政12年6月
「庚申塔」。

十間坂、第六天神社

以前は南湖1-4稲荷社にあったようで、平成の一桁代の個人調査表にも同所で記録されていましたが、数年前に訪問した際、稲荷社はあったものの庚申塔は既にありませんでした。今も稲荷社が残っているかどうかは未調査です。
旧所在地の稲荷社は東海道から海側に入った車1台がやっとな道の路傍にあり、間口1.5mで奥行が2mちょっと(不正確な記憶です)ほど。庚申塔があったとしても(当時既に無かったので)往古からここにあったわけではないだろうなと思った記憶があります。似た場所としては松林の茶屋町稲荷や中島の左近稲荷などもありますが、寂れた感じでした。
だいぶおぼろげな記憶なので間違えているかもしれませんが…。
地域としては南湖の茶屋町が終る辺り(西端)で、東海道から100mも入っていないので、茶屋町で商売をしていた人々による建立ではないかと想像しています。
庚申塔自体に情報が無いので、元の場所からの推測にすぎませんが、南湖の
半農半漁だった集落の庚申塔なら鳥井戸の御霊神社か、古くは南湖全域の鎮守だった八雲神社あたりに移されそうなもので、東海道筋の第六天に移されたのはそれが理由ではないかと(妄想)。

寛政11年11月

イメージ 1笠落ち合掌日月捧げ持ち青面金剛
寛政11年11月6日(庚申日)
講中連名 16名
三猿。

松林、長福寺

3基あるうちの最後です。細かい特徴ですが、スネを出さず足元だけの青面金剛で、これで3基目ですが、他の2基とは50年ほど遅れています。

気になるのは講中の「沙門信隨」。連名の筆頭にあるので庚申講を主導していた人物と思われるのですが、長福寺には歴代住職の墓誌が無く、残っている卵塔にも信隨の名は見つけられませんでした。卵塔に付いていたのは法印号で、はたして沙門号が住職だったのかどうかすら見当がつきません。住職であっても沙門を使うことはあるそうですが、修験や講中内に出家者がいた可能性もあり得ます。16名の数からすると菱沼村で最も戸数が多かった小字宮町あたりの講だったかもしれません。
ここにある石仏群は昔からあるそうですが、別の場所にあった庚申塔達がまとめられた可能性はあります。庚申塔ではありませんが、東海道筋にあった紀州藩の役人達(紀州藩継立役所が菱沼村の茶屋町にあった)の墓が
昭和10年に長福寺へ移設されています。近在の人から頼られるお寺さんなのでしょう。享保13年塔でも書きましたが、菱沼では昨年まで庚申講が続いていました。講の維持が困難になったため、使用していた掛軸を長福寺さんへ預け、現在は茅ヶ崎市の文化資料館が保管しています。

寛政7年11月

イメージ 1尖角柱三猿塔
寛政7年11月
「庚申塔」
講中
三猿(台石)。

南湖3-5-14

住宅街の中にあります。側面未調査で、奉納者名などが付いているかもしれません。
大切にされている感じですが、場所としてはどうにも中途半端な印象です。個人的には20mほど北の辻にあったのではと、ぼんやり想像しています。
南湖の東海道筋は茶屋町でしたが、東海道から南は半農半漁の村でした。といっても海まではだいぶ距離があります。これは海岸一帯が幕府の砲術演習場だったからでもあるでしょう。この庚申塔が造られた頃は毎年ですが、さほど長期間ではなかったようです。漁だけなら演習していない時にやれば問題ありません。
今の茅ヶ崎漁港のあたりが江戸時代も漁場で、これは海岸のすぐ沖に磯があったからだと思われます。そして、南湖の集落から漁場への浜道が数本通っていました。その浜道の1つが現在地から北20mほどの辻に当たるようなのです。
ただ、これは明治の地図から想像しているだけで、もしかすると江戸時代は現在地が該当だった可能性はあります。南湖は江戸時代から家が密集していたようですが、今は宅地化が進んで細い道が沢山あります。庚申塔を移設するなら近くに八雲神社や金毘羅神社があって、そちらの方が無難なはずで、それでも現在地にあるのは、昔からの状態を保っているからだとも見れます。

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