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向って右 舟形双体道祖神 天明6年 「庚申」 講中 下寺尾村。 向って左 舟形双体道祖神 天明6年 「庚申」 講中。 下寺尾2134(地番) この前にUPした安永8年塔と同所にある池端の庚申塔(兼道祖神)。 解説板によると「もとは池端の南側と北側に祭られていた。明治初年此所に移され共に池端の守りとして栄えている」だそうです。 小名池端は2134前の南北に走る道が隣の堤村との境で、谷の中間を流れる川を挟んだ北と南がともに池端です。2134は南側になりますので、おそらく堤村との境になっていたこの道沿いで、川の向こうと現在地あたりに建っていたのでしょう。 下寺尾村と堤村は1つの同じ谷筋にあって田畑も隣接していますが、領主は違います。境界線に対する意識は強かったでしょう。 余談ながら下寺尾村は風土記稿の時代53軒で416石。1軒あたり8石近い収穫量を誇る村でした。庚申講中も余裕があったと思われます。 天明6年は七庚申の年ですが、茅ヶ崎市内の他の庚申塔は五庚申や七庚申を意識していないようで、たまたまでしょう。 肝心の主尊が双体道祖神な点ですが、県内には類例がいくつかある、という以外よく判りません。下寺尾村では庚申講中が道祖神の祭祀もやっていたのでしょうけれど、他村がどうだったのかなども不明。現代においては、庚申講はほぼ絶えていますし、ドンド焼きなどは地域の自治体が運営しており、庚申塔について質問しても詳しいことはご存知ありません。 |
茅ヶ崎市
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安永8年11月 「□申講中」 九人 世話人3名。 下寺尾2134(地番) 下寺尾村、小名池端の庚申塔です。 主銘分の「庚申講中/九人」については、「庚申/講中九人」で区切るのかもしれません。どこが違うのだと突っ込みが入りそうですが、「庚申」で区切るなら純粋な庚申塔と言えるものの、「庚申講中」だった場合は講中が建立に関わった祠かなにかが往時はあって、それの標柱的な意味合いだった可能性も出て来ます。 2134は堤村から下寺尾にかけて谷の中央を流れる駒寄川に掛かる小さな橋のたもとにある空き地です。この橋を通る南北の道が下寺尾村と堤村の境だったようで、この道の東西で今も地名が変わります。そういう場所ですので、祠や石仏があって不思議はなく、庚申塔と並んで文化8年の「奉納両社□□(遷座?)塔」も建っています。時代は庚申塔の方が古いですが、もともと祠があった可能性もあります。 世話人の3名ですが、下寺尾村は3給地でそれぞれの領主に対する名主も3人いました。もしかすると世話人は名主だったかもしれません。 また、余談ですが、この場所には解説札が立っています。そこに勘重郎堀についての説明があります。 曰く「雨水頼りだった香川村へ水を引くため下寺尾村に掛け合い、了承を得て足掛け3年をかけて水路を造った。この場所が堀の発端となる場所で、駒寄川に堰をして水を揚げた場所である」。この工事は安永年間に行われたようで、現在も取水口は変わったようですが大半が暗渠になりつつも残っています。両村の間には尾根があり、その尾根の小さな谷を切り開いたようです。もしかするとこの安永8年塔は勘重郎堀にまつわるものかもしれませんが、毎度のことながらただの妄想で何も証拠はありません。 |
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安永3年5月 「庚申供養塔」 本宿 二ツ屋 講中 三猿。 中島、日枝神社 紀年銘は「安永三年午五月吉日」。奉納者は本宿と二ツ屋を両並びにし下に講中としています。2つの小字共同の建立です。 今回のブログの前にUPした行方不明の「安永元年5月3日」塔は「庚申塔」「本宿二谷講中」。銘文は確かに違うのですが、何か微妙に似ています。紀年銘の「吉」を数字の五や三に読んでしまうのは、自分自身が良く間違うのでなおさらそう感じるのかもしれませんが…。 二ツ屋に関しては、集落内にある道祖神に「二ツ谷」銘もあるので、安永元年塔が実際にあったとしても、中島村にあった可能性は高いです。しかし、たった2年後にまた似たようなものを建てるだろうかという素朴な疑問は拭えません。 この庚申塔の特徴は三猿が→←←の全て横向きな点です。ここまで見て来た中では、左右が横向きの三猿はありましたが、全て横向きなのは初出です。 |
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像容不明
安永元年5月3日 「庚申塔」 本宿二谷講中 三猿。 所在地および現存不明 「茅ヶ崎の庚申塔」に文字情報のみ掲載されています。 調査用基礎資料にはあったが、調査時には既に無かった、ということでしょう。基礎資料に所在地の情報は書かれているはずですが、40年ほど前のことで既に資料は行方不明のようです。 基礎資料を作成された2名は茅ヶ崎の郷土史関連の著作を複数書かれており、全てを読み込めば何かヒントが得られるかもしれません。他の庚申塔になりますが、随筆に元位置が書かれていました。 奉納者の本宿二谷講中が所在地をさぐるヒントになります。候補は少なくとも2つありそうです。 1つは小和田村で、小名ではありませんが東海道筋が「本宿、宿、新宿」に分かれていたようです。その本宿あたりに「谷」地名が付くほどの起伏はありません。これは本当の谷ではない可能性もあります。 もう1つは、こちらが本命で、中島村のこれも小名では無いようですが中心地が「本宿」。中島村になるのかどうか不明ながら、隣の集落が「二つ屋」です。こちらが本命と考えている理由は、次にUPする安永3年の文字塔があるからです。個人的には基礎資料の紀年銘ミスの可能性を考えていますが、安永元年塔も安永3年塔も掲載されているので確定ではありません。 |
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明和5年8月13日 「庚申供養塔」 9名。 芹沢1544 芹沢村の小名細谷の庚申塔です。名前の通り小降りな谷ですが、谷の両側に民家があり、奥の尾根上にある小さな二又道辺りまでが細谷だったと思われます。昭和30年代の空撮写真だと、9軒ほどの農家が認められ、庚申塔の奉納者数と一致します。 樹の根本にあり良い雰囲気ではあるのですが、現在の設置場所が往古からのものなのかについては微妙で、もっと谷の入口付近にあったような気もします。現在は覆屋が付けられていますが、以前は野ざらしで、観音像や宝篋印塔残欠などと並んでいました。 なお、明和5年8月13日は庚申日ではありません。「十三日」が「五日」の異体字なら庚申日になり、細谷にもう1基ある紀年銘不明塔の年代が推測できて嬉しいのですが、これについてはずっと後にUPすることになります。 |




