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福生市にある庚申塔。 ここで有名なのは元禄の青面金剛?塔だが、庚申塔としてはこちらの方が面白い。 一見すると自然石に「庚申塔」と彫ってあるだけに見えるが、 「庚」の文字の右下に穴が開いている。 川床にあった岩で、穴は甌穴(小石が岩に穴を開ける)で、それが珍しいから使われたか、 あるいは、船を留める杭でも立てるために掘った穴か。 多摩川が近いので、どちらもあり得ると思っていた。 しかし、この近隣にはこれと同様に石灰石を使った念仏塔などが多く、 同様に穴が開いている例が少なくないらしい。 この岩が石灰石かどうかまでは無知で判らないが、見た目は確かに似ていた。 基部に三猿はちゃんといて、小振りでなかなか可愛らしい。 この猿は不言→ 不見← 不聞←の向き。 庚申塔として多いのは正面向きだが、このように横向きで、しかも片手、というのもたまにある。 何かしら意味はあるのだろうと思われるが、構図からだけでは読み取りようがない。 唯一、左の不言猿が片手に桃を持ち、中の不見猿が手を差し出してもらおうとしているように見える。 桃を持つ猿は、これまた各地に散在しているが、桃に長寿や邪鬼を払う意味があるとされ、 また、西遊記などにも登場するが、猿と桃は中国の故事によく登場する組み合わせでもある。 もっともこの庚申塔で、桃を受け取ろうとしている中央の猿は不見なので、桃を見られない。 どうやって受け取るつもりなのか(笑) 話がズレるが ****************************************************** 福生からは遠いが、高円寺は昔「桃園観音」とも呼ばれていたことがあり、 境内には桃を持った猿が置かれている。 時系列としては高円寺の伝承の方が古いので、こちらの影響があったかもしれないが、 そもそも猿と桃は陰陽で厄よけの意味もあるので、ルーツとしてはこれも考えられる。 鬼門は北東の方角で、艮(ウシトラ)だが、鬼門の反対が申(サル)になるため、 江戸時代には、鬼門に猿像を飾ったり、桃の木を植えたりして、鬼門除けとする風習があった。 猿と桃を組み合わせた庚申塔が鬼門(北東)に建立されている例があるかもしれないが、 現代はもとあった場所から移動させられていることが多いので、実態はわからない。 ****************************************************** 「寛政八」は1796年のこと。 続く「辰」は辰年。1796年は辰年だった。 その後ろの「黄鐘」が難問。 中国や日本の伝統音楽は十二律(音階ではなく音色)があるそうで、 それが黄鐘(こうしょう)を基音として大呂、太簇、、と続き、それが全部で12個。 基音という表現が判り辛いが、庚申塔のこの場所は、通常、 造立の年月日が刻まれているため、黄鐘は12ヶ月の最初の月「1月」を表現していると思われる。 かなりお洒落な表現で、今までに見たことがない。 この庚申塔を作った講の人に、学があり、洒落っ気もある人がいたのかもしれない。 もちろんこの推測はまったくの見当違いかもしれないが。。。 「吉」は吉日のこと。明確な何日とは入れず、吉日にすることが多い。 が、最後に「辰」がある。これは辰の日。十二支は年の干支だけでなく毎日ある。 ちなみに今日は、平成二十一己丑(つちのと/うし)年、八月十九日は丙申(ひのえ/さる)日。 吉辰となると、毎月最初の辰の日を縁日にすることがあるので、おそらくこのことだと思われる。 特に正月初辰は、この日、屋根に水を打てば火災を防ぐとされ、 江戸時代には、辰年の男たちに辰の刻に屋根に水を打たせる辰祭が行われた。 そして基部に「寒念仏供養」 寒念仏は、念仏講の一種というか、念仏講がやる行事の1つ。 念仏講は文字通り念仏を唱える、あるいは上人の名前を唱える、仏の名を唱えるなど、色々やるらしい。 なんまいだ〜、なんまいだ〜のイメージが強いと思う。 念仏講は毎月、法事などの他に、24節季にも合わせて行われた。 24節季の23番目の「小寒」と24番目の「大寒」の間の15日間と、 「大寒」から「節分」までの15日間の計30日間が一年で最も寒い時期として「寒」と呼び、 この「寒」の時期に一種の苦行のようにやるのが寒念仏。 つまりこの庚申塔は念仏講が何回か寒念仏をやったことと、 庚申待ちの行事を18回とかやった両方の記念として建立したのかもしれない。 庚申など民間信仰の担い手は、それだけをやっていたわけではなく、
さまざまな信仰を併行してやっていたのである。 |
無題
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道端にぽつんと建っている石仏。 地蔵とか道祖神が有名だろうか。 実は種類が沢山あって、個々をちゃんと見ていくと、実に様々な情報が読み取れる。 このブログで、その面白さを伝えられればと思う。 例えばこの庚申塔。 塔の上部は「かのえさる」と表面に彫ってあり、 側面に造塔した年月日が彫ってある。 萬延元庚申歳 十二月吉日 写真で見えている部分は以上だが、反対側の側面や基部にはもっと他の情報が彫られている。 それに触れる前に、ここまでで判る情報を読み取ってみよう。 そもそも、なぜこれが庚申塔とわかるかというと、「かのえさる」と彫ってあるから。 「かのえさる」を漢字変換すると「庚申」。 これは干支で、十干、十二支の組み合わせが60あり、その1つということ。 萬延元年は1860年で、干支が庚申だった。 そして基部の三猿。 庚申塔には三猿が高い確率で登場するので、これも庚申塔だと判る材料。 一般的な三猿は不見、不言、不聞の格好をしているが、この庚申塔が珍しいのは、 着衣の猿が遊んでいる点だ。 調査報告書では「けん」という遊びとなっているが、これがどういう遊びか不明。 中央の猿が両手を耳の脇に立てているので狐の真似で、鳴き声から「けん」なのかと想像できるが詳細は判らない。 いずれにしても童遊びの1つだろう。 庚申塔の面白い所はこういう部分で、幕末の子供の遊びがこういう形で残されていることになる。 実は、この庚申塔の近隣には同種の踊る三猿が彫られたものが他にもあるが、それぞれ遊びの内容が異なっている。 三番叟という踊り、能狂言の踊りとされている。 庚申塔は時代が新しくなるにつれて文字塔が多くなる傾向があるが、 一方で定型パターンを無視した自由な彫刻も登場するようになっている。これは後者の一例。 さて、写真には写っていないが、この庚申塔の左側面には「相州愛甲郡 山際村下組」とあり、 基部の左右には発起人の名前が21名と、「講外」として1名が彫られている。 21名は同じ苗字を「同○○」としている場合と、同じ苗字を別にフルネームで出している場合があることから、 「同」は同じ家の父と子という推理ができ、それが正しければ家の数は17だったことになる。 また、講外の1名は「甘利」という姓で、愛甲郡で甘利となると、甲斐武田氏の流れでこの地に定着した 甘利氏の一族がいるため、武士の可能性も高い。 ここで「山際村下組」に着目。江戸時代、大きな村は上中下の組に分けて管轄されることがあったが、 地域によっては上組が幕領、下組が旗本領とされていたこともあった。 愛甲郡がどのパターンだったのかは判らない(調べても)が、もしかしたら甘利氏は山際村下組を領地にしており、 武士でありながら村の庚申講に顔を出していたのかもしれない。 この想像をさらに膨らませると、村の集まりに顔を出していた、まめな支配者像が浮かぶ。 ちなみに現代の厚木にはこの地を地盤にしている同姓の政治家もいる。 庚申塔を建てるのは庚申講だが、そのメンバーは同じ村落の家だったり、近隣の村の同じ宗派の家だったりと 地域で違いがあるが、この庚申塔は同じ村落のものと思われる。土地柄、100%農家だろう。 また、21名の名前は全て男性なので、男講だったことが判る。 講には色々あるが、男女混合の講はあまりない。山際村下組は男女別が基本だと想像できるので、 よく探せば女講が造塔した月待ち塔などが残っているかもしれない。 また、凝った庚申塔を建立するにはそれなりに金がかかるため、そこそこ裕福な組でもあったことが想像できる。 上にも書いたが、近隣に同種の庚申塔があることから、他の村や組と洒落た造塔を競い合っていた一面も伺える。 おそらく祭りなどでも同様の競い合いがあったのだろう。 1つの庚申塔から読み取れる(想像が大半w)情報は、このように実に多彩。
藩や村によってはゼロのこともあるが、沖縄を除く日本全国にはたいてい庚申塔が作られている。 庚申塔に限った話ではないが、そこに残されている情報はいわばタイムカプセル。 丁寧に読み取り、郷土史とからめながら調べて行くと、リアルな江戸時代が浮かび出て来る。 |
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