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庚申塔なのか、他の信仰なのか紛らわしい石塔は色々とあります。
以前、猿田彦塔についての日記を書きました。 猿田彦は独自の信仰があり、さらに道祖神とも習合しており、 もっと困ったことに神道の庚申信仰では猿田彦を主尊としています。 猿田彦と彫られた石塔の中には、 猿田彦の嫁さんである天鈿女を併記しているものもあり、 それは庚申塔ではなく、道祖神か猿田彦信仰によるものだと 区別していたのですが、 中には猿田彦/天鈿女と彫り、さらに三猿が付いている石塔に出会ってしまい、 ますます「どこで区別をつけるべきか」と悩んでいます。 個人的な記録としては、全ての猿田彦塔を記録するようにしていますが、 だからといって猿田彦塔の全てが庚申塔のわけはありません。 区別ができないだけです。 ところで、同様の例が他にもあり、その代表格が日蓮宗系庚申塔です。 神道の場合は、江戸初期に流行した庚申信仰を 国学者の山崎闇斎が「庚申信仰は全て神道によるものである」と断じて 本来の主尊は猿田彦だとほざいてしまったが故に、今に至っているのですが、 実は日蓮宗においても、構造としては同じことをやっています。 日蓮宗の誰が、いつ、が不明なのですが、現象としては 庚申信仰の主尊は帝釈天であるとする一派があり、それが関東では広まっています。 どのエリアにどれくらい広まっているのかは不勉強にて知りませんが、 おそらく、その中心地は江戸の柴又帝釈天でしょう。 映画の寅さんでも知られる柴又の帝釈天(経栄山題経寺)は、 江戸初期に開山され、一時衰退しましたが、 中興の祖が安永八年(1779)の春、 本堂改修中の梁上にこのご本尊(帝釈天)を見出し、 その吉日が庚申(かのえさる)だったことから 庚申の結縁の始まりになったと解説しています。 ちなみに安永8年の春の庚申日は4月6日です(旧暦)。 安永年間は江戸中期で、既に江戸市中において庚申信仰は流行していましたので それを利用したというのが実態だろうと思います。 天台や真言宗の庚申信仰は、主尊を青面金剛としていますが、 仏教におけるヒエラルキーとしては青面金剛の上位にいるのが帝釈天で、 決して無理のある内容ではありません。 ただ、日蓮宗の庚申信仰がそこから始まったわけではありません。 神奈川県横須賀市池上にある延宝3年(1675)の題目庚申塔です。 典型的なヒゲ題目で、三猿は♂♀が明確。 中央の不聞猿がメスで左右がオスです。 この池上も含め、帝釈天銘の庚申塔(三猿付)も複数あります。 帝釈天銘の庚申塔の最古がいつなのか、 安永9年以降なのか、 このあたりも記録を調べて行くと面白そうなのですが、 とても手が廻りません。 何より、ただ「帝釈天」と彫ってあるだけの石塔をどう考えれば良いのか。 これは、ただ「猿田彦」と彫ってあるだけの石塔をどう分類するのかと 全く同じです。 庚申塔研究の先達の人達は、これについて明確な結論を出していません。 唯一の指標は「三猿が付いていること」「庚申銘があること」としています。 しかし実態はとても微妙。 日蓮宗における帝釈天はとても重要であり、 真言宗における大日如来のようなもの。 日蓮宗信徒が根本の仏を崇める目的で建立した可能性が高い一方で、 庚申塔が沢山ある中に「帝釈天」とだけ彫ってある石塔があったら それも庚申信仰による建立である可能性も残してしまいます。 柴又帝釈天では、帝釈天像を庚申でもあり、日蓮宗の重要な仏像としてもあつかっています。 なお、横須賀市の庚申信仰は独特な一面があったようです。 文献で読んだだけで、フィールドワークはしていませんが、 1つの村の中で、日蓮宗とそれ以外の庚申講があったとの証言が残っています。 通常は1つの村ですと庚申講は1つ。惣村なのですが、そうではなかった。 これが事実であろうと思わせる分布が横須賀には多々あります。 宗派と庚申信仰の違いが明確であれば判りやすいのですが、 青面金剛なら真言宗か天台宗、と断言できないのが難しい。 というわけで、毎度毎度のオチですが、よく判りません。 それだけ庚申信仰が流行っていたということだけが事実なのでしょう。 |
庚申全般
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庚申信仰にまつわる話題
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左から 寛文8 愛川町上野原 寛文9 愛川町瀧神社 寛文10 町田市大戸観音 左から 寛文11 相模原市緑区 稲生 寛文11 相模原市緑区 谷戸 右はなんとなく似ている寛文2の日待供養塔 相模原市緑区 青山 ※相模原市緑区にはもう1基 一度探しましたが見つけられず逸失かと思っていたら、「まだあるよ」とのこと。 追補:後日出会えました 寛文9年は風化しているため表情が判らないが、寛文10以降はほぼ同じ。 寛文8だけ違う感じがするのだが、最初に作ったからか。 寛文2の日待供養塔を入れると、寛文期に愛川か津久井にいた 1人の石工が作ったように見えなくもない。 ※その後、さらに1基発見。 旧藤野町、鎌沢の石祠内本尊。 石祠の紀年銘は延宝8。 石祠には「奉納山王権現」銘。 本尊に紀年銘、銘文は付いていませんでしたが、石祠より前に作られたとは考えにくいので、古くても延宝8年だろうと思っています。 上の5基中最古の寛文11から9年後の延宝8。場所は5基から大きく離れた山梨寄り。 持ち物(矛と輪)は同じで、輪に火焔らしきものが付いている点、膝から下が剥き出しな点など共通する部分は多いです。 しかし、小型と大型の違いなのか、石工が違うような印象です。 三猿が、5基は横向き猿が混ざっているのに、こちらは全て正面向きです。 これらを青面金剛とするかどうかは意見が分かれるかもしれません。 特に石祠内本尊のものは、石祠に「山王権現」と彫られています。 というより、山王権現の絵図があったのではないかと、今は考えています。 儀軌に近いとされている青面金剛像は以下。 神奈川県にある青面金剛像の現存最古、承応2年の四臂青面金剛。 寒川の大曲を中心に7基確認されているため、 大曲型と呼ばれることもある。 1653年から数年間、このタイプが地域限定で作られた。 ところが、これが主流になったわけではなく、 初期の庚申塔の主尊は地蔵や阿弥陀など雑多。 これについては先達の方々が論考を加えていて いくつか系統があることが判っている。 結論だけ書くと、初期は参考になる絵や木像がなかったため、儀軌(普及度は不明)を参考にしたり、庚申信仰を伝えた修験や仏僧の宗派などで変化しているらしい。 寒川の寛文8(1668)の二臂も、同じように地域限定で特定の宗派(修験か)の指導のもとに数年間だけ作られたのだろう。 ちなみに唯一の寺院、大戸観音は臨済宗。 神奈川の修験道場「八管」と高尾山を結んでいるように見えなくもない。 赤線は道をつけてみた結果。 修験なら主街道を逸れた山越え道も苦にならないだろうとルートを引いたが少々無理があります(笑) ※新たに見つけた輪矛型の石祠内本尊は、この地図には入っていません。 地域としては奥高尾のトレッキングルートから南下する枝尾根になります。 それでも修験者の関与を否定する材料にはなりませんが、八菅修験だけとは言えなくなるかも。 |
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読んでみたい本です。
房総誕生寺三層塔と九州千葉氏 日蓮の生家を寺にした千葉県の誕生寺。 そこにある三層の石塔が彫りや石の特徴から九州製ではないかと考えた筆者が 謎を解き明かした一冊。 この三層塔は13〜14世紀と見られていて、 その時代に九州からわざわざ運ばれて来たようです。 もちろん誕生寺のような信仰の拠点には、 遠方からの奉納が多々あるでしょうけれども、 丁度、相模原市の旧津久井郡にある庚申塔が九州薩摩の田の神に似ていると 考えていることもあり、興味深い事例だなと。 |
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横須賀市馬堀町貞昌寺の庚申塔群。 ここ1カ所だけで54基もの庚申塔がある。 いわゆる「集め庚申」で、宅地造成によって近隣から寄せられたもの。 解説ボードには52基と書かれているが、あとから追加されたらしい。 できるだけ1つ1つ丁寧に調べようと思ってはいるが、こちらは紀年銘はおろか正面すら見れないほど密着していて、どうにもならなかった。 庚申信仰の由来を彫った文字塔など、ちゃんと調べれば面白いものがあるのに、それも叶わない。 もちろんお寺さんに断って調査すれば可能かもしれないが、一応、調査資料も発行されているので、そちらを見ようと諦めた(というより気力が失せた)。 ちなみに、神奈川県の中央にある愛川町は全体で46基あるが、横須賀は異常なほど多く、ここ1カ所で愛川町を超えてしまっている。 この日は、ほんの2時間ほどで118基も見ることになった。 まだ時間的には余裕があり、もっと見ることもできたが、さすがにうんざりしてしまい退却。 ところで、この多さには何か理由があるはず。 文字を読み取れたものだけだと、時代が違っていても奉納者の姓は同じものが多く、1つの庚申講が熱心に造塔を続けていたと思われる。 そういった庚申講が3〜4あったのかもしれないが、それにしても、この寺の檀家衆だろうし、さほど広いエリアとは考えにくい。 庚申塔を建てるには金がかかることを考えると、それなりの経済力が必要になる。 場所は浦賀が近く、地域全体では江戸期を通じて海運業で栄えていたらしいが、はたして真実は…。 |
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庚申塔に百庚申とか千庚申と呼ばれている種類がある。
※面倒なので以下、一般名称としての場合は『百庚申』と書く。 インターネットで調べた範囲では北は仙台、南は静岡、岐阜あたりまで見つけることができた。 数少ないデータからの推測にすぎないことを最初にお断りして、 『百庚申』にはいくつかのタイプがあると思われるのでそれを挙げてみる。 タイプ1:巡拝記念一石系 1基の石塔に「百庚申」や「千庚申」などと彫ってある。 中には「一万五千」と彫ってある庚申塔もあり、 その数の庚申塔を数年かけて巡拝したことが記されているらしい。 現代でも庚申塔を多数見ている人は何人もいるし、 1万を超えている人もいるかもしれないが 信仰でやっている人は(たぶん)いないだろう。 ちなみに神奈川県と東京都に現存する庚申塔を全部見ても1万には届かない。 タイプ2:篤信一石系 1基の石塔に百の青面金剛像を彫り込んだり、 青面金剛や庚申の文字を多数彫り込んでいるタイプもある。 こちらは篤い信仰を表現していると思われる。 タイプ3:個集団多数系 多数の庚申塔を奉納しているもので、百観音や千地蔵、五百羅漢と同系。 実際にその数を設置している例もあるし、 大量にある=百or千と呼ばれていることもあるが、 比較的短期間に集中して同じ場所に奉納されており、 何らかの信仰的意図によって庚申講の人々や寺社の檀家氏子衆が 一気に奉納していることが明白なタイプ。 中心となる大きな塔や青面金剛塔があり、周囲に小さな文字塔が並んでいたり、 ほぼ同形、同種の石塔が列をなしていることが多い。 自然石に庚申の文字のみ、青面金剛刻像塔が多数などがあるが、 サイズ、建立年月日、デザインが近似している。 タイプ4:追加奉納系 多数の庚申塔を奉納している点はタイプ3と同じ。 違いは期間が数年に渡っており、奉納者に遠方からの参拝者が混ざっている。 信仰霊場のような場所に多い。 現代においては、宅地造成などで行き場の無くなった庚申塔が 一カ所にまとめられるなど、かなり紛らわしいケースもある。 これも百年後くらいには百庚申と呼ばれかねない。 この中途半端な分類を挙げたのは、『百庚申』の中には30基ほどの庚申塔群を現代人が百庚申と呼んでしまったと思しき例がある一方で、『百庚申』と呼ばれていてもおかしくないのに、ただ庚申塔群としか呼ばれていない例があり、いったい『百庚申』とは何なのかが判らなくなったから。 特にタイプ3とタイプ4は正直に言うと『百庚申』と呼んで良いのかどうか怪しいとさえ考えている。 一体いつ頃から『百庚申』という呼び方が始まり、どのようにして広まったのか。 インターネット上で集める事ができたわずかな情報からだと、千葉県成田市に明和元年の紀年銘がある一石七塔(1つの石の頂点に山型の刻みを7つ入れたもの)の庚申塔が多数あるものが最古だったが、銘は「庚申塔」とあるだけで百庚申の銘はなく、状態として『百庚申』だからそう呼ばれているだけとも考えられる。 他の信仰で名数が冠についているもの(百観音、千地蔵、八十八霊場etc)はいくらでもあるので、庚申塔だけ見ても意味は無いし、江戸時代の人々が名数好きだったことから一種の俗称のようになり、それを現代まで引きずっているだけかも知れない。 毎度のことながら、結局、自信を持って「これが百庚申」と結論できないが、厳密に分類するならタイプ1と2のみが『百庚申』であり、他は多数奉納系とした方が正確なのかも知れない。 こんな纏まりのないブログで、UPしても意味はないような気もしています(笑) 随分前に下書きだけはしてあったのですが、これじゃあ当たり前すぎて。。と追加のネタが見つかるまで控えるつもりでした。 でも、保存しておいても忘れてそれきりになりそうなので。。。 |




