庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

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最初に。庚申ではなく山王ネタです。

沼間村
神武寺 醫王山来迎院と號す 天台宗 境内総て石山なり
山王社 櫻山村の鎮守とす


神武寺は石切場の中に作られたかのような境内で、尾根伝いに進むと鷹取山の石切場もあります。
珍しいヤグラや掘り割った参道がある雰囲気がとても良い寺です。

山王社の本尊と三猿は、現在、薬師堂内に移されており、2017年は4月28日から5月28日まで33年ぶりの薬師霊場のご開帳で拝観できます。
※毎年12月13日のすす払いの時にも拝観できるようです。

イメージ 1薬師堂内は撮影禁止ですが、パンフレットに写真が掲載されていますので、それを転写。
山王社は江戸時代の神武寺古地図にも描かれており、場所は当時と同じようです。
薬師堂に向って右に地蔵堂、その右隣が山王社。





イメージ 2イメージ 3





本尊の地蔵は永正4年頃(1507)の作と見られ、台座に元禄3年の修理銘があるそうです。薬師堂内の本尊薬師の手前に置かれていて、総高30cmくらいの小さな木像。
三猿は丸彫りの木像で、山王社に奉納されたものだそうです。時代はパンフレットに書いてありませんが、三猿の夫々が違う様子に造り分けられていて、庚申塔の三猿を見るような印象です。


神武寺境内にある山王社が隣村の桜山村(現在の逗子市桜山)の鎮守だったことから、桜山村の庚申講が奉納したのではと想像できます。

しかし、桜山村は風土記稿の時代で113軒あり、面積も田越川の河口(海)からJR東逗子駅までとかなり広く、小名も19ありました。
風土記稿は桜山村の鎮守を太神宮(現在の桜山神明社)としており、山王社については触れていません。太神宮は惣鎮守で、小名単位の鎮守は別途あったのでしょう。となると、三猿を奉納したのはどの小名の庚申講か気になります。

逗子市内に残る庚申塔で地蔵を主尊としているのは知る範囲で2基(阿弥陀か地蔵か微妙なのは除く)で、桜山5丁目に「カ 為奉造立地蔵尊庚申二世安楽也」銘で宝永元年の地蔵庚申塔があります。
この界隈は小名地蔵谷のようで、かつて地蔵院という神武寺の末寺があったらしく、該当かなと少々強引な推測をしています。
本当の所は文化財の資料でも読めば判るかもしれません。

二猿付の富士信仰塔

「富士牛玉宝印」などのキーワードで画像検索すると
富士山の上に阿弥陀三尊がいて、それを二猿が遥拝している構図や
木花咲耶姫命と二猿などの構図のお札がいかに沢山刷られていたか判ります。
http://ur0.biz/Dkzo

その構図をそのまま写した石塔はポツポツ見かけます。
イメージ 1










どちらも大田区。

富士信仰の縁起書には富士山が庚申年に誕生したと書かれていて、そのため富士山の神使は猿となっています。多少なりと山王信仰や庚申信仰からインスパイアされている気もします。
庚申年が御縁年になるため、石塔に「庚申」の文字と猿(二猿、三猿)が付いていても、庚申塔なのか富士信仰塔なのか判らないケースもあります。
分ちがたいものも当然あって、信仰としても御殿場の御厨庚申巡礼では一番札所は富士山だったそうです。
掛軸もこんなのが。
イメージ 2イメージ 3イメージ 4























3枚目の「庚申」富士山、升、三猿の構図は全く同じと言ってさしつかえない石塔が藤沢市片瀬の泉蔵寺にありますし、阿弥陀三尊と富士山と二猿の構図の石塔が相模原市上溝の安楽寺にあります。
イメージ 5イメージ 6
























どちらも庚申塔に分類している資料はありますが、枡形牛玉の方には風化してほぼ読めない細かい銘文があり、掛軸1枚目、2枚目の掛軸にあるのと同じ文言。
阿弥陀三尊の方はまったく同じ構図のお札がいくつもあります。
ですので個人的に、これらは庚申塔ではなく富士信仰塔だと考えています。

でも、猿田彦や山王、帝釈天など、庚申塔なのか違うのか、習合して分ちがたいのか表面観察だけでは判断できない石塔は他にも沢山ありますので、細かい事は研究者がやればいいし、自分は楽しむだけです^^

とか、書きつつ、さすがに浅間大神とか彫られていると、いくら猿がいてもちょっとなぁと悩んでしまうのが、よく判っていない証拠でもあります。

横浜市港南区日野中央、春日神社
イメージ 7天保7年4月
「富士浅間宮」
右側面「天下泰平郷中安全
    國土安穏五穀成就」
中台正面 中央遥拝の二猿
中台左側面「右 心信願主 同 再建者 添主 一同敬白」
中台右側面「日埜吉原村10名 金井村2名」
基礎正面「供養」※花立で見えない
基礎右側面「平成12年7月 再々建 世話人6名と12名」。


古塔(再建塔:宅地造成で廃棄)に木花咲耶姫命像は彫られていませんでしたが、再々建塔で加えられたようです。

こちらは最近まで立ち入り禁止でしたが現在は拝観可能。






藤沢市本町、荘厳寺

イメージ 8文化5年9月
正面 元一富士講紋「南無浅間大菩薩 書行藤佛イ杓 食行弥勒
イ杓
右側面 紀年銘と願主川上伝治朗 法印快無
左側面「大天狗 小御嶽石尊台権現 小天狗 亀岩八大龍王神」
裏面 19名
中央遥拝の二猿。


書行藤佛は角行行者のこと。
小御嶽石尊は富士山五合目にある神社で木花咲耶姫命の守護者。
大天狗と小天狗はその眷属のようです。
亀岩八大龍王は富士山を護る龍。
掛軸の1枚目にも名前が出ています。

こちらの境内には4基の庚申塔。訪問時、これに気がついておらず、最近教えてもらいましたが、だいぶ風化しているので猿もはっきりしていません。

イメージ 9













イ杓はニンベンに杓で読みは「くう」。
富士講独自の異体字で「尊イ杓 」などともしているので意味はだいたい判る。

余談ながら、富士講は国字とも異体字とも違う独自の文字を使っているため、富士講石碑にもよくあって解読困難になります。
フォント提供をしているサイトもあります。
富士講アーカイブズ」>インフラ>フォント
http://fjska.sakura.ne.jp/kkgkf.html

塚原村
長圓寺 山王山と號す。曹洞宗長泉寺末。
山王社。


風土記稿の記載はこれだけです。
山王と庚申は別の信仰ではありますが,不可分な部分もあるので。
イメージ 1
















紀年銘不明。
中央遥拝の二猿。

中尊はありませんが、往古は何か納められていたでしょう。
資料によっては明治年間とするものもありますが、それはあり得ません。
風化が酷くて銘文は何も読み取れませんでしたが、他のこのタイプの石祠から推測すると寛文くらいはありそうです。

塚原は真言宗寺院もありますので、断言はできませんが、村の中央に小さな川が流れている狭い谷戸。そこに庚申塔がこれを含めて5基もある密集エリアです。何か関係があり、塚原村の庚申信仰の最初期に当たるものでは、という気がしています。

海老名市の庚申塔

特に書庫は作っていないので単発として。

「海老名の庚申塔」で「長ヲサ1077」にあると記録されている2基が、だいぶ離れた場所にあります。偶然見つけて聞き込みした所、一時的に保管しているだけでいずれどこかへ移すかもしれないと言われたので、取り急ぎUPします。

大谷南2-3-5地先(鈴木三太夫霊堂の対面)
イメージ 1舟形合掌日月捧げ持ち青面金剛
享保5年3月
「庚申供養」
柏ヶ谷村 同行拾二人
道標(左大山道)
三猿(不聞剥落)。


資料で青面金剛塔になっていたかどうか覚えていませんが、享保5年3月の道標となっていました。
長ヲサ1077は現在の柏ヶ谷1077に相当するらしく、探しましたが見つけられませんでした。
現在地の大谷南とは直線で3.6Kmほど離れていますので、柏ヶ谷村の銘がなければ資料未掲載塔と判断していたでしょう。
村の名前が入っていてよかった。










イメージ 2角柱文字塔
万延元年霜月?(草書で読めず)
「庚申塔」
「天下昇平 五實皆熟」
上柏ヶ谷 13名。


紀年銘は「萬延紀之庚申年雪?霜月旦」と読みました。草書なので誤読している可能性は高いです。
資料では万延元年11月としています。
台石に願主名があり、上柏ケ谷となっているように読めました。

5年ほど前もこの道は通っていますが、その際には気がつきませんでした。当時、既にあったのかどうか。近所の方によると、家で持っていたが持ちきれなくなり、それを預かっていると思われる。とのことでした。
長ヲサ1077(柏ヶ谷1077)は現存しない住所なので、そこにあった家が引越と同時に庚申塔を持って来たのかもしれません。
他の場所へ移転するとしたら、元あったあたりになると良いのですが…。




http://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/37823244.html
角田村
御炭山
村の南。当村は120俵。伝馬夫役免除。鹽河山と云う。中下荻野2村の御炭山に続き峰をなす。
幣山
南の方、昔役小角が奉幣の旧跡なり。依って名づくと云。この山に連なりて吒天岩屋と唱える所、巌石の山なり(高凡15丈岩窟あるに非ず)。八菅山修験の行所にして修験の外、絶頂に登るを禁ず。山中に法華経経塚の名あり。
石神社
吒天岩屋にあり。大宝三年役小角勧請すと云。村持ち。
山王社
村持ち 寛文10年勧請。社地に瀑布あり鹽河瀧という。鹽河山より流出。高5丈余幅4尺


愛川町資料には、幣山に庚申銘のある石祠が掲載されています。
資料の詳細は忘れましたが、石神社と南北に走る尾根続きで、山王滝の水流を渡って少し登った場所と解説され、寛文10年とあるはずです。

資料の解説を頼りに探しましたが見つけられず、風土記稿の寛文10年山王社が、資料の庚申石祠かもしれないと見当をつけてやっと出会えました。文字情報で重要な鹽河山や鹽河瀧は古地図でも場所不明ですが、風土記稿の絵図が参考になります。
イメージ 2



















絵図なので、現代の地図はもちろん、古地図ともだいぶ違う風景ではありますが、全体の位置関係はなんとなく判ります。滝と呼んでよいのかは微妙ですが、一応それらしき流れは現存しています。

イメージ 1寛文10年11月10?日
「庚申搆供養」17名(男性)
「念仏搆供養」12名(女性)
幣山村。


註)
愛川町資料とは銘文読みが異なっています。

風土記稿の角田村には他に4つの山王社が記録されているので、たまたま寛文10年が同じだけで、山王社とは違う可能性がゼロではありません。
しかし、風土記稿の所在地情報を参考にして辿り着けたのでおそらく該当でしょう。

出会えてとても嬉しかったのですが、山王信仰を思わせる銘文は無し。石祠内部は空だったので、中尊があったのかもしれませんが、現状ではとても山王社とは言えません。
信仰心はありませんが、役小角と庚申の真言を思わず唱えてしまいました。

イメージ 3それにしても、これを山王社としているのなら、他の山王社ももしかしたら…と思わずにはいられません。
角田村はとても広く、中津川対岸も角田で、むしろ対岸の方が角田村の中心地です。今の所、出会えた庚申塔の中に角田の庚申石祠は他にありません。というか、愛川町資料に山王社があるのかどうか未調査です。

御炭山の解説。
徳川家の茶席で使う炭を専門に作るための山でした。中荻野、下荻野と鹽河山の一帯は同じ山塊で、八菅修験の行場と完全に一致しています。相模国では全体で5村に命じられ、年間に600俵納める代わりに諸役を免除されていたようです。そんなに茶席を開いていたのかは不明ですが、この5村には共通点があり、それと庚申塔も関係しているような気がしています。まだ妄想の域ではありますが。


余談。
石神社近くの覆屋にある地蔵の1基に庚申供養銘があります。

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