庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

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三増村
山王社 妙慶寺持
妙慶寺 光琳山と號す。古義真言宗。本尊大日。開山覚範(弘治元卒)。


イメージ 1愛川町の資料には金山の山王社に庚申塔があったと記録されています。
三猿付の絵馬型石板で、紀年銘は無し。神奈川県では他に例がない珍品ですが盗難にあったようで、現存は確認できていません。
山王社は各所にあったと思われ、風土記稿記載の山王社と同一と断定できませんが、地名にも「山王坂」があるので、金山山王社は候補の1つと見なせます。
妙慶寺の場所が特定できれば可能性は高まりますが、廃寺になっていて特定できていません。
金山山王社は祠が残っているものの、朽ちる寸前です。ご神体だったであろう三猿付の絵馬型石板は昭和のどこかで盗まれたそうで、祀る意味が無くなっているのでしょう。

山王社周辺の地形を観ると祠の脇に道の跡が残っているので、おそらく往古は街道だったと思われます。

三猿付きの絵馬型石板は資料に写真が掲載されています。
猿が付いていれば庚申塔なのかという疑問はありますが、絶対に違うとも言い切れず、特に愛川町は八管修験の行場が各所にあり、その影響と思われますが、庚申と山王が習合したような石仏(庚申に分類されている)が他にもあるので悩ましい所です。
愛川町や旧津久井郡、厚木市界隈の小さな山王社や日枝神社などを探しまくれば、知られていない庚申塔がまだあるかもしれません。

イメージ 2三猿付の絵馬型石板は山梨県笛吹市にもあるようです。金山山王社にあったものは、もう少し横に長い感じですが、それにしても珍しい。盗難なら、いずれどこかで売られるとかして出て来るかもしれません。

下依知509八幡神社

下依知村
山王社 村持ち。

イメージ 1

イメージ 2




































寛政4年10月
「奉建立 山王大権現」
想村氏子
世話人3名(名主 岩崎浅右衛門 組頭 座本作左衛門 同 片倉忠兵衛)
内部に風化三猿塔。

風化していますが、足が六本あるので三猿と思われます。
これを庚申塔とするのは難しい所ですが、少々ネタ切れなので(笑)。

風土記稿には、下依知村に8つの神社が記録されています。
八幡社、第六天社、稲荷社、吾妻社、神明社、山王社、熊野社、御嶽社。


現在、八幡神社には7つの石祠があり、文字をはっきり確認できたのは第六天、神明、山王の3基ですが、外も風土記稿にあるものでしょう。風土記稿では末社扱いになっていないので全て移設されてまとめられたと思われます。
現在は見れなくなっていますが、古墳のブログに下依知の八幡古墳の上にこれがあると書いてあり、何回か探したのですが見つけられませんでした。八幡神社はyahooやgoogleのマップには載っておらず、存在を知らなかったのですが、ブナの森さんのブログで八幡神社にあると判明。ちなみに古墳は八幡神社のすぐ北にあります。

厚木市の山王社の全てを見た訳ではありませんが、山王社をチェックすると猿が付いていることもあります(付いていない方が多いとは思います)。

サンプルとして棚沢の山王社を。
常昌寺の裏山山頂にある山王社の中尊。
イメージ 3風土記稿
棚澤村
常昌寺
山王社 山上にあり。


現在の山王社は平成5年に再再建されたものですが、再建は享保18、元は寛文12年に造立されています。
寛文12年塔は現存せず、享保18年塔は新しい山王石祠の隣に安置されています。中は空っぽですが、平成5年塔の中尊は2つあり、享保18年塔の中尊だったと思われるものは風化破損していて不明瞭なものの、一猿の可能性があります。
新しい中尊は束帯像なので微妙な所ですが。

ここで下依知の石祠に戻ると、石祠と中尊の風化三猿塔は風化具合にかなりの差があります。銘文に再建の文字はありませんが、もしかすると寛政4年の先代の中尊だったのかもしれません。


相模国の御岳、大山。
新編相模国風土記稿は坂本村とは別に「大山」だけで数ページ割いています。
いわゆる大山詣をする際に江戸時代の人達が目的地としていたのは大山の不動堂です。

〜山麓より坂本村の地。二十二町を登り前不動堂に至る。此所より左右に登る。
山路二條あり右を男坂と云。左を女坂と呼ふ。
男坂を登る事十八町にして不動堂在。

イメージ 1


















イメージ 2


















イメージ 3



不動堂
雨降山大山寺と號す。本尊銅像なり。
明王堂、山王社、浅間社、八幡社、大黒天社、第六天社、本地堂、烏瑟娑摩堂、宝篋塔、経堂
※不動堂図から、ここまでが不動堂境内の社と堂宇と思われます。
以降、社と堂宇が20記載。
庚申堂
以降、堂宇15記載

以上皆仁王門外。男坂の左右にあり。


この記述から、前不動堂から仁王門までの男坂沿いに庚申堂はあったと推測できます。いわゆる大山寺は、おそろしく広大な境内を持っていました。
現代の大山図と比較します。
イメージ 4


























前不動堂は現代の八意思兼神社・追分社の場所にありました。現在の前不動堂は移設後のものです。風土記稿の大山図で扇平となっている場所には来迎院があり、その場所が現在の大山寺です。

風土記稿が上梓されてから13年後の安政元年。大山は大火災によって「全山が焼失」と記録されるほどの被害がありました。加えて、明治初期の神仏分離によって旧大山寺の境内はほとんど神道に置き換えられました。
庚申堂はおそらく現存していません。
しかし、大山寺に庚申堂があった名残はあります。


女坂登山口付近(旧、前不動堂あたり)
イメージ 5笠落ち文字塔
紀年銘不明
「庚申塔」。


この庚申塔が、把握している範囲では大山の一番高い場所に残っているもの。
旧所在地からあまり動いていないという仮定でですが、庚申堂の前辺りに建っていたのでは、という想像もできます。
もしかすると現代の大山寺に庚申信仰がらみの遺物が人知れずあるかもしれませんが、今の所、見つかっていないようです。








茶湯寺(涅槃寺)
イメージ 6笠付三猿塔
元禄7年8月25日(庚申日)
「奉造立庚□□」
三面に猿。


風土記稿に記録されている茶湯寺は大山に2寺ありました。現在の大山寺が建っている場所にあった来迎院と、もう1つは脇坊の光円坊。どちらも真言宗で、大山寺境内僧俗専門の供養寺でした。それが庶民の供養もやっていたようです。

茶湯供養自体は、死者が100日目に極楽の門に辿り着いて成仏するが、それまでは水を供え、101日目から茶を供える行為。日数については49日、100日、110日とすることもあるようです。
これを寺で供養すると、帰路、故人と似た人に出会えるとされていたようです。
しかし涅槃寺は浄土宗で、風土記稿には記載がありません(来迎院と誤解しているサイトもあります)。

イメージ 7角柱三猿塔
弘化5年2月16日(庚申日)
「庚申塔」
台石に三猿。


江戸時代、大山寺の境内より下に位置する坂本村にあった3つの浄土宗寺院(西迎寺、西岸寺、相頓寺)と真言宗寺院(観音寺)が合併し、昭和になって誓正山茶湯殿涅槃寺となりました。
山号は西迎寺の山号を使っています。
大山は明治の神仏分離が厳しく行われた土地でもあり、前不動堂から上の寺院はほとんど整理され消滅したので、来迎院と光円坊の茶湯供養を明治になって受け継いだと推測している研究者もいます。
涅槃寺の場所は、昭和になるまで観音寺(真言宗)があったらしく、宗派を超えた合併だったことがうかがえます。
庚申塔が前不動堂より上にあった寺院や参道に置かれていたものなのか、涅槃寺の信者さんが持ち込んだものなのかは不明です。しかし庚申堂があったので、前者の可能性もゼロとは言えなさそうです。




小稲葉村
八幡宮
末社 稲荷 辨天 青面金剛 金毘羅 三峯 浅間 道祖神


八幡宮は現在の八幡神社。
庚申ではなく「青面金剛」と明記している珍しい例です。
しかし、八幡神社には3基の石祠庚申(3基でワンセットとされる珍品)と1基の文字塔はあるものの「青面金剛」塔はありません。「青面金剛」はどうなったのか。
イメージ 1













こういう場所では、記録が無くても一通りチェックするようにしていますが、残欠も見つけていません。

八幡神社は村の鎮守で、本地仏三尊弥陀の円形銅面(おそらく掛仏)があったとも風土記稿には書かれています。
八幡神社の別当は修験の龍學院でしたが廃寺。「青面金剛」や掛仏など仏教的なものは神仏分離で他所へ移されたのではないかと想像しています。

龍學院の遺物や掛仏の行方が判明すれば、「青面金剛」の移転先も同じではないかと思い調べてみましたが行方知れず。
破壊されず移設されたと仮定して小稲葉の庚申塔を俯瞰すると刻像青面金剛が3基(1基は微妙)、「青面金剛」銘の文字塔が1基残っています。

八幡神社から比較的近くの安養寺に青面金剛刻像塔(写真はこちら)。「庚申供養」銘や仲西講中の銘があります。
仲西は小稲葉村の八幡神社がある界隈の小名です。しかしこの庚申塔は近くの橋の際にあったものを移設したのだそうです。
八幡神社から橋際に移して〜という経緯があった可能性はありますが、ここで「青面金剛」と記載されている点が気になります。

庚申塔マニアは主尊が青面金剛だと判りますが、江戸時代の村で「庚申供養」と文字が入っている塔の主尊をはたして青面金剛と認識していたのかどうか。
碑面に「青面金剛」と入っていたから「青面金剛」と記録されているのでは。

小稲葉775八坂神社
イメージ 2角柱三猿塔
天明6年8月
「青面金剛明王塔」
11名(台石)


江戸時代の小稲葉村には牛頭天王社が大きな小名3つにあり、それがそのまま現在の八坂神社になっており、小名の鎮守になるようです。その全てに庚申塔があり、うち2ヵ所にこの「青面金剛」銘塔や刻像塔があります。八幡神社は村の総鎮守だったことと、修験寺院があったので厳しく神仏分離されたとも考えられます。
そして11名の内容が注目点。
□□ 人名、新屋 人名、同処 人名〜、沖村 人名、同処 人名〜となっており、在所別になっています。新屋と沖村は小名なので筆頭の□□も同様と思われます。
小稲葉775の八坂神社は沖村(小名の沖)になるようで、新屋にも八坂神社があります。
この庚申塔は、台石が正確に移築されている前提ではありますが、ほぼ惣村による建立の可能性があり、惣鎮守の八幡神社にあってもおかしくないことになります。

ただ、八幡神社と沖の八坂神社はだいぶ離れていて、移設するならもっと近い八坂神社もありますし、少々妄想が入り過ぎているかもしれません(笑)。
酒井村
飯出明神社
末社 天神 庚申 稲荷


飯出明神社は現在の飯出神社。
別当寺に本山派修験の一重院があったようです。

イメージ 1板碑三猿塔
貞享元年□月吉日(風化)
「キリーク サ サク  奉造立庚申供養石二世安楽也」
相州大住郡酒井村施主旦那 敬白 5名(埋まり)
三猿。


風土記稿に末社の庚申が記録されているからといって、この庚申塔が該当なのかどうかは不明ですが、現状の並びを見ると、庚申塔の隣に稲荷のようで、そうなると潰れた石造物は天神であり、末社の3つがそのまま並んでいるのかもしれません。
石祠ならともかく、舟形光背や駒形、角柱なども「社」とみなすのかについては、風土記稿で特に解説されているわけではありませんが、路傍の道祖神を「社」として記載していると思われる例がいくつか見受けられます。風土記稿の基礎資料を作った村の人の認識次第な部分もあるような気はしますが、境内にある場合は「社」として見なしていたのでは、と考えています。

ところで、明治に廃寺となった一重院の本尊は不動像。
同じ町内にある法雲寺(浄土宗)に県重文指定された木像不動立像があり、それが一重院の本尊だった可能性が指摘されているとか。
これを踏まえて酒井の庚申塔を見ると不動主尊塔があります。
現在は法雲寺持ちの薬師堂にありますが、元は村の北端の丁字路にありました。
大山街道沿いによくある不動の道標でもあるので偶然の一致かもしれませんが、これも一重院が関与した庚申塔だったのかもしれません。

イメージ 2舟形不動明王坐像
享保16年6月、再建安永7年9月
正面「東 庚申供養塔」
右面「南 小田原道」
左面「北 大山道」
裏面「西 □□」
三面に猿

※銘文は資料による。

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