庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

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天王院 村内海道の右かはにあり〜。
庚申堂 門に向って左にあり。二間四方なり。


海道は東海道。右側というのは京都方面に向って(当時は京へ上る)右。
天王院は東海道を京都方面に向って進む右側に現存していますが、古くは現在の鶴見神社界隈にあったそうで、現在地へは大正年間に移っています。
明治の終わり頃、機関車が吹き出す煙に含まれていた火の粉による火災が度々あったようで、鶴見は明治43年3月に大火災がありました。
天王院はその頃に全焼し現在地へ移転。風土記稿には庚申堂の他に大日堂も記されていますが、どちらも移転時には既に無かったそうです。

イメージ 1






































天王院には新しい丸彫りの三猿像があります。
他のお寺さんでも似たものを見たことが数度はあり、特に天台宗だと比率は上がるかもしれません。さして気にも止めていませんでしたが、昔は庚申堂があった寺となると話は変わってきます。
が、お檀家様による奉納ではあるが、庚申信仰とは関係ないだろうとのことでした。

片倉村
小名 庚塚 これも同邊を云り
杉山社 村の東字庚塚と云ふ小高き所にたてり
別當浄遠寺 神光山。日蓮宗〜


庚塚は庚申塚のことと思われます。
「これも同辺」というのは村の東。その辺りに小名が3つもあり、普通なら現在のどの辺りかを調べるのは一苦労ですが、幸いなことに杉山神社も浄遠寺(じょうおんじ)も現存しているので場所の特定が簡単です。

庚申塔は長遠寺(じょうおんじ)に現存。
イメージ 1
駒形合掌青面金剛
元禄13年11月
「奉造立庚申為二世安楽也」
武列片倉村 同行二十四人
三猿。


線香立2つも庚申信仰によるもの。

庚塚は長遠寺の北にある食い違いの辻あたりから杉山神社下を抜けるカーブした道のどこかにあったのでしょう。風土記稿の時代、片倉村は31軒。元禄13年の頃は不明ですが同行の24人はほぼ全戸だったと思われます。
風土記稿を読んだ印象だけですが、堂宇があれば庚申堂、なければ庚申塚としているような気がしますので、道沿いに建っていたのかもしれません。現在の堂内には馬頭文字塔もありますので、石仏群の様相だったか。
線香立てにある個人名は片倉で最も多い苗字です。

長遠寺は風土記稿だと浄遠寺。読みはどちらも「じょうおんじ」です。どちらが正解なのかは不明ながら、天保の頃は村民も「浄」と覚えていたのかも。

風土記稿ではなく、江戸時代の絵図から。
※色々探し過ぎて何の絵図だか判らなくなってしまいました…。
イメージ 1
絵図の中央にあるのが浄瀧寺(絵図では浄滝寺)。
寺の北と東に川が流れ、対岸に慶運寺と成仏寺。
なんと現在とほぼ変わらない位置関係で現存しています。
注目は浄瀧寺の背後にある庚申堂。
浄瀧寺の背後は権現山という、中世城郭好きなら知っているであろう砦があった小山で、その斜面に庚申堂があったことが判ります。
現在は住宅地になっていますが、念のために探しに行きました。
当然ながら現存していませんでしたが、どうやら庚申堂の中にあったと思しき庚申塔がありました。

幸ケ谷17-5浄瀧寺
中世に開基された日蓮宗寺院ですが、幾度となく戦火で焼失しては再興され、江戸時代になってからは移転や不受不施派の住職がいたので退院(要は解雇)させられた波乱万丈の歴史を持ちます。
境内の隅に破損した庚申塔。
イメージ 2主尊は青面金剛か?
紀年銘不明
三猿。


場所柄、空襲でやられたのでしょう。上部を探しましたが見つけられませんでした。
ご住職が着任された頃には既に現状だったそうですが、詳細は不明とのこと。
全く見当違いの可能性は残りますが、場所の近さからすると庚申堂の成れの果てではないかと妄想しています。
浄瀧寺は風土記稿の時代、青木町耕地に属していました。面積が広く東海道沿いでもあるので戸数は505軒。東海道沿いは商家ですが農家もあり、絵図からすると権現山の斜面が畑で、そこに庚申堂があったのでしょう。
風土記稿や他の地誌、東海道分限絵図や類似する詳細な絵図には庚申堂が記録されていたり描かれていたりします。
正確な数はまとめ切れていませんが、横浜市の東海道沿いには少なくない数の庚申塔or庚申堂があったようです。戦災、地震、宅地化でほとんどは逸失していると思われますが、探すとこうやって見つかることもあります。

余談。
成仏寺にも庚申堂があったと風土記稿にあり、他の絵図では、絵図右下にある金蔵院と熊野社(当時は同じ場所扱い)に庚申堂が描かれています。これらは両方とも寺社は残っていますが、庚申塔は見つけられていません。
相應寺
街道にあり。往還より少しく引きこめり。浄土宗にて〜
庚申堂
門を入りて右にあり。石像の庚申を置。


新編武蔵国風土記稿は東子安村、西子安村、新宿村をまとめて解説しています。
相応寺は新宿村に属し、今も旧東海道(元、国道15号)から少し内陸に入った場所に現存。往古は東海道から直接アクセスできる道がありましたが、今は子安駅とJRの線路が道を断絶していて、細いアンダーパスでかろうじてつながっています。

庚申堂は現在も山門を入って右手に現存。
イメージ 1
駒形剣人青面金剛
明和7年正月
「奉供養庚申講中」
新宿濱 願主 数名(線香立てで読めず)
邪鬼、三猿。


ずっと堂内にあったと思われるので状態は良いです。
新宿浜となっていますが、これは新宿村のこと。相応寺から海に向って直線的につながっていた道は、東海道を超えてすぐ漁村になっていました。そこが新宿浜です。
風土記稿にも漁師が多いと記されていますが、今も漁業に従事する家が多いようです。
余談ながら、新宿浜の家並みは江戸時代から変わっていないのでは、と思えるくらい密集していて、おそらく空襲被害も無かったと思われます。
実は、東海道沿いの寺に庚申堂の記録がある例はいくつかあるのですが、ほとんどは火災や地震、空襲などで消失しているようです。相応寺に庚申堂が残っていることと、新宿浜の家並みが残っているのは、震災と空襲被害が甚大だった横浜市内の東海道沿いとしては奇跡的でもあります。
なお、3つの村になったのは元禄の頃と記されているものの詳細は不明。3村の中に残る庚申塔に元禄13年の東子安村銘がありますので、それよりは前でしょう。
庚申堂の隣に新しい丸彫り一猿もいますが、これも庚申がらみか。

新編武蔵国風土記稿
橘樹郡 菅村
壽福寺
大門の前の坂を土人庚申坂と呼ぶ。路傍に庚申塚ある故なり。


イメージ 1寿福寺の庚申塔は山上の墓地の一角に2基現存していますが、その元位置は山門手前の坂道だったことが判ります。
もしかするとまとめられている4基全てが同じ場所にあったのかもしれません。

風土記稿は寿福寺の境内十景として指月橋まで入れていますので、山のほとんどが寺領だったのでしょう。江戸時代は観光名所でもあったので江戸名所図会にも描かれています。


イメージ 2



















左下に指月橋があり、そこからの道は省略されていますが、メインの道に見える坂の途中にあるのが「裏門」。その先、図会では左上にあるのが「表門」です。そして「表門」の手前にも太い道が描かれています。「表門」は風土記稿の「大門」でしょう。
つまり寿福寺へのルートが2本あったことになります。注目は「表門」の上にちょっとだけ見えている鳥居と、本堂の後ろにある池と「弁天」祠。
イメージ 3

















マップと図会では方位が異なるのでややこしいですが、指月橋はマップ右側の中程。寺のマーク「卍」のちょっと北に鳥居記号があります。寿福寺は境内鎮守社があり、風土記稿では太神宮八幡稲荷大黒合社としています。本堂の後ろにある池は現存しており、マップだと「卍」記号の南にあります(もちろんそこまでは地図には出ていませんが)。弁天社も風土記稿には観音堂(=本堂と思われる)の後ろと記載されています。
この位置関係から、図会に描かれているメインの道のように見えるルートはマップだと指月橋を渡って「仙谷」と書かれている遠回りルートであり、「表門(大門)」の正面に出るのは橋から近道のルートと思われます。
どちらも坂道ではありますが、風土記稿が「大門前の坂」と特定しているので、橋からの近道ルートではないかと妄想しています。このルートは空撮写真だと昭和30年代には山が崩され宅地工事が始まっているので、現在は全く名残がありません。
庚申塔があったのは仙谷集落と寿福寺への分岐になっているあたりか。

ちなみに、風土記稿は菅村の7つの旧家と、それに次ぐ9の旧家、合わせて16の苗字を記載しています。寿福寺の庚申塔で享保12年塔には7名彫られていて、姓名は明瞭ですがこの16苗字には該当していません。仙谷の名前は入っているので、仙谷集落は比較的新しいのでしょう。菅村は風土記稿の時代289軒もあった大きな村でした。


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