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新編武蔵国風土記稿の都筑郡には6で取り上げた鴨居村と新井新田の庚申丸の他に
2つ庚申がらみの記事があります。 どちらも今の所、比定地すら絞れていませんが、とりあえず。 新編武蔵国風土記稿 都筑郡 市野沢村 カ子イ塚 小名桐ケ作谷にあり。二歩ばかりの塚なり。庚申塚ならん。野人は庚申塚をカノエ塚といへは、その誤りときこゆ。 カ子イ(かねい)塚があったのは桐ケ作。現在の旭区桐が作です。 風土記稿の著者は野人(地元民)に取材していないので、おそらく実際に見ていないでしょう。 旭区の石造物資料では、個人墓地にある石造物(幸福大神、報恩大神)の部分で註釈的に「カ子イ塚」について触れていますが、塚状ではなく、石造物も比較的新しく、庚申信仰とは関係がありません。墓地近くに「カ子イ塚」があったのかどうかは不明。 桐が作には稲荷社に2基の庚申塔を含めた石仏があります。昔は集会所の通りに面した場所にずらっと並べてあったそうですが、それ以前の状態は不明。移されて来たとして、風土記稿の予想が正しければ、元位置は「カ子イ塚」だったのかもしれません。 余談ながら、市野沢村は現在の市沢町。桐が作稲荷社は長見寺持ちと記されており、庚申塔とならぶ廻国供養塔にも長見寺の名が彫られています。長見寺は現在も市沢町に現存しています。 都筑郡 吉田村 富士塚 村の西。丘の上にあり。高さ5,6間。 庚申塚 村の西、富士塚の辺にあり。僅か八歩ほどの地を除けり此傍に供養塚あり。これも一畝ばかりの處なり。 この吉田村は現在の港北区新吉田町。 吉田村に庚申塔は沢山ありますが、この庚申塚は場所を特定できていません。 富士塚を特定できれば推定しやすいのですが、高さ5,6間(=9~10mほど)もあった富士塚は現存していないようです。郷土史研究をされている90を超える方はそのような場所があった記憶はあるとおっしゃっていましたが、山の上としかご記憶がなく、実は隣の新羽にも風土記稿には記録がありませんが富士塚があったようで、はっきりしません。 村の西というのはだいぶ広範囲ですが、富士山が見えなければいけないので、尾根筋の最高所となると、神隠バス停北の住宅地か、現在は第三京浜で消失している天台と呼ばれていた山あたりかと想像しています。 神隠の北尾根にあったとすれば、神隠堂に移され、現在は浄流寺にある2基のどれかとなる可能性はありますが、天台山だと移された場所はまったく見当がつきません。 |
庚申全般
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庚申信仰にまつわる話題
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「庚申塔ノ森」ついては過去にも書いていますが、書き直しも含めて。
淘綾郡 西ノ久保村 庚申塔ノ森 社もなく塔のみ建てり。高3尺5寸。槻(つき)松の古木2株を神木とす。 風土記稿の記載はこれだけです。 知っている範囲で、西久保の庚申塔と思われる石造物は写真の1基のみ。 基壇を含めておよそ3尺(90cm)。 5寸不足していますが、これが「庚申塔ノ森」にあったものだと思っていました。 個人宅の敷地内にあったそうですが、このお宅は西久保に持ち山が沢山あり、山に関係するものだと言われていたそうです。 ただ、「庚申塔ノ森」はご存知ありませんでした。 この「庚申塔ノ森」については、既に調べた先人がおられました。 『大磯町 黒岩・西久保・虫窪地区 民俗資料調査報告書(1979)』。 これに黒岩の山王山を「庚申の森」と呼んでいると書いてありました。 黒岩村と西ノ久保村は隣村というより1つの村のような位置関係で、1つしかない寺院の檀家は両村です。 黒岩山王山も過去に書いた同じブログに出してあります。 ここには寛文10年9月「奉造立庚申供養為二世安楽」銘の笠付三猿塔(三面に猿)、115cm(3尺8寸)と記録されているものがありました。 残念ながら逸失しており、地主さんも「無くなっているなら行方は判らない」と。 こちらも「庚申塔ノ森」はご存知ありませんでした。 山王山は地元で「いうまい、きくまいの所」と呼ばれていて、この呼び方なら誰でも判るそうです。 黒岩で他の人にも訊いてみましたが「庚申塔ノ森」は全く聞いたことがなく、「いうまい、きくまい」しかご存知ありませんでした。 「庚申塔ノ森」を探がそうとしてはみたものの、条件に合う3尺5寸と近いサイズの庚申塔が黒岩にしか無かったので、牽強付会したのではないかと思っていました。 ところが報告書著者の一人飯田氏は、地元の教員を退職した後に郷土史研究を始めた方で、山王山の地主さんは一緒に石仏調査をした経験があり、西久保の石祠を持つ家も懇意にされていたと判明。そこまで地元の皆さんとの深い関係を築いておられた方となると見方は変わります。土地として近いこともありますが、黒岩山王山=「庚申塔ノ森」説の信憑性が高くなります。 西久保や黒岩では昭和30年代まで講があったようで、資料刊行時の1979年(昭和54年)なら、昔をよく知る世代に取材できていたでしょう。 唯一の疑念は風土記稿が各村から提出された地誌取調書上をベースにしている点。 地誌取調書上は村役人が作成しますが、村役人は村の三役で村民です。ここで間違いがあるとは考えにくい。 西ノ久保村の山地はゴルフ場になっていますので、そこに「庚申塔ノ森」があったとしたら、黒岩山王山へ移した可能性もゼロではありません。が、もはや寛文10年塔は逸失していますし、真相は歴史に埋もれてしまったとしか言いようがありません。 |
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新編武蔵国風土記稿
都筑郡鴨居村 小名に「庚申丸」 小名「池ノ谷」の付記として、坤の方に四畝ほどの溜井があり、そのほとりに庚申丸、烏森、トウシ谷、3つの小名があると記載。 都筑郡新井新田 小名に「庚申丸」 付記として、村の東の方なり。 地名としての庚申丸です。隣接する村では小名が重複しているケースが少なくないため、庚申丸も同一の場所と思われます。 また、庚申丸に庚申塔があった可能性は高いので、現存している庚申塔から庚申丸の場所を"少々強引ながら"推理してみます。 鴨居村の坤(ひつじ・さる=南西)にあった四畝(約400平方m)の池は、明治の地図でも場所が確認できません。明治の時点で現存していれば確実に地図には記載されている大きさなので、おそらく枯れたか田圃になってしまったのでしょう。昭和初期の地図では、現在の竹山団地入口(竹山1丁目)界隈を「烏森」としているものがあります。 新井新田は縦に南北に細長い谷筋を開墾した新田の村で、その東となるとだいぶ範囲は広くなりますが、尾根筋のどこかにあったと思われます。 この両方の条件を満たすのは現在の竹山3丁目付近。竹山団地がある谷筋です。 竹山団地には池があるものの、団地建築時に造られた新しいものです。その西にあった狭く小さい谷あたりは溜池を造るのに良い地形ではあります。そして、谷の上、尾根筋は新井新田の東になります。 この界隈に現存する庚申塔は上記マップ右の赤いポイントの場所しか知りません。 右のポイントは通称「辻山の庚申塔」がある場所。 左のポイントは鴨居7、竹山4、上菅田(旧、新井新田)の境界。 辻山の庚申塔は村としての新井新田からはだいぶ遠く、村内の小名として挙げられるとは考えにくいため、左の3町境界にある庚申塔が該当と思われます(あくまでも庚申丸に庚申塔があったら、という前提です)。 駒形合掌青面金剛 享保18年10月12日 「奉納庚申供養」 鴨居村4名 上菅田村3名 邪鬼、三猿(台石)。 鴨居村と上菅田村の境は、おそらく現在地から南へ伸びる尾根道でしょう。道は昔とほぼ同じラインで残っています。2村共同の建立なので、村の境目としての目印に建てたのかもしれません。 新井新田は宝暦年間に開墾された土地なので、この庚申塔の方が古くからありました。鴨居村の人々が庚申丸と呼んでいたので、新井新田の人々もそう呼ぶようになったのでしょう。 上菅田村の小名に「庚申丸」は登場しません。両村の共同建立なのに、鴨居村側だけが呼んでいた小名というのは、ちょっと気になる部分ではあります。新井新田でも呼んでいたのは、風土記稿だけで妄想すると、開墾後に移住してきたのは鴨居村がある鶴見川側の人々だったからかもしれません。 ただ、これが庚申丸の庚申塔だったとしても、現在地を新井新田の東と記述するだろうかという疑問は拭えません。 もしかすると現在の場所から尾根道を南下した、地図上では竹山南公園となっている丁字路あたりにあったのかもしれません。そこなら東へ進んで行くと辻山の庚申塔につながります。 |
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山王原村 山王社
村の鎮守なり。小田原陣の時、東照宮日々當社へ御参詣ありし由縁起に見ゆ。 其頃は今の社地より南の方松林中に在しが、其地巨波の為に崩潰せしかば、 慶長十八年此地に遷せしと云。 庚申及阿弥陀釈迦薬師の三躯を本社に安す。幣殿拝殿あり。 例祭六月十五日。三年に一度神輿を出して村内を巡行す。宗福寺持。 山王神社は現存していますが、祭神は大山咋命、大山祇命、少彦名命の三柱です。 素晴らしい庚申塔がある宗福寺の隣なので、ついでに参拝しましたが、ごく普通の神社でした。 鳥居近くにこの立て札はあったものの、庚申信仰を思わせる文言が無かったのでノーチェック。この写真も撮影したことすら忘れていました。 後日、風土記稿の記事を読んで、だから宗福寺には素晴らしい庚申塔が何基もあるのかと納得しましたが、庚申塔の写真にまぎれていた立て札の内容を読み直し「ご神躰」は仏像かもしれないが、ついでがあったら確認してみようと思っていました。 箱根の庚申塔を探したついでに、通り道なので宗福寺に再訪した際、境内にお堂があるのに気がつき中を拝見してみたら青面金剛がいました。 ガラス越しですが剣人か剣索の青面金剛木像で、二童子付。小降りな三猿像もあります。 仏像三躰は無いので本堂に保管されているのでしょう。 山王社に阿弥陀、釈迦、薬師が祀られていた理由は、山王三聖と関係があるかもしれません。大宮は釈迦、二宮は薬師、聖真子は阿弥陀です。 |
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大運寺
劔澤山明道院と號す。浄土宗。芝増上寺末 中略 閻魔石像 もと村内別堂に安置すと傳ふ。 大運寺は廃寺になり、墓地のみを残している状態です。 嘉永6年(1853)2月の小田原大地震で本堂や庫裏が潰れ、付田畑山林も大破損した記録があるので、そのまま再興されることなく明治を迎えたのでしょう。 隣村に城前寺という同じ宗派の寺院があり、そちらが諸々を引き継いでいるらしく、現在は城前寺の離れた墓地となっています。 判りにくい場所で、曽我原村と曽我別所村の境界域だったらしく、隣にある家の住所は曽我別所579です。 寛文8年 「閻魔大王 奉造立 庚申供養」 基礎に大正13年9月 小田原市の文化財に指定されているようで、庚申塔としても有名ですが、風土記稿の記事見て驚きました。100%とまでは言えませんが、ほぼ間違いないと思っています。 庚申銘は胸元の方形の部分。紀年銘も同じ部分にあるような気はしますが、風化しているのか見つけられていません。 寛文8年は資料によります。 大運寺に移された後の風土記稿の時代は、山門あたりに十王堂があったようです。寺の跡形は全く残っていませんが、墓地の階段を登っ ちなみに嘉永6年の大地震は震度6以上だったと推測されており、小田原城も石垣が崩落したり、建物についても半潰、大破と記されています。今の熊本城と似た状態だったのでしょう。 |




