庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

庚申全般

[ リスト | 詳細 ]

庚申信仰にまつわる話題
記事検索
検索

秋山一雄氏調査資料

横浜市北部の庚申塔を探す時には、少なくとも文化財調査報告書と、
郷土よこはま 第68号」に寄稿されている
秋山一雄氏作成の「横浜市緑区・港北区 庚申塔目録稿」が必須になります。
※相互に未掲載の庚申塔が複数あります。
秋山氏の資料は昭和46年8月時点の調査記録で、当時の緑区・港北区は現在の緑区、港北区、都筑区、青葉区と、保土ヶ谷区の一部を含んでいて、現在地特定は難しいものの、横浜市が文化財調査をする以前のまとまった資料として貴重な内容です。
横浜市の調査時は大規模ニュータウン造成の最中で、漏れが大量にあります。
※港北・都筑はそれを補完する調査報告書が作られています。

これについては以前も書いていますが、あれから3年半経ち、複数の同好の皆さんのおかげで不明だったものもいくつか見つけられました。

許されるなら目録全部を出したいところですが、著作権がありますので興味のある方は図書館へ。
資料には番号が振ってあり328基の掲載があります。
「年月日、碑形、主尊、眷属など(日月、邪鬼、鶏、猿)、所在地」が記録してあり、銘文などは記録されていないものの、特定には役立ちます。
そのうち所在不明は48(30)基。
3年半前の時点では60基以上あったので随分減りました。
このブログをUPしてから一気に11基も減りました。
情報をくださった皆様ありがとうございます。

不明分を羅列します。おそろしくつまらん記事です(笑)。
※全部=日月・邪鬼二鶏三猿付き。
さすがに丸々内容を記すのは気が引けますので、現在の区別に分類します。

現在の緑区分と思われるもの。
No.12。緑区東本郷住吉神社下。舟形地蔵立像、延宝2年3月、三猿。
No.57。緑区上山町427。舟形地蔵立像、元禄5年11月、三猿。
No.100。緑区寺山町。舟形地蔵立像、正徳2年霜月、三猿。
No.150。緑区寺山町上原。駒形青面金剛、享保19年12月、全部。
No.164。緑区東本郷。丸彫地蔵立像、寛保2年11月。
No.165。緑区十日市場町山谷。舟形地蔵立像、延享元年6月、三猿。
No.190。緑区西八朔町極楽寺。丸彫地蔵立像(六地蔵)。
No.210。緑区東本郷町町原。駒形青面金剛、安永4年11月、雲・邪鬼三猿。
No.246。緑区西八朔町大原。円頂角青面金剛、文化5年11月、日月・三猿。
No.293。緑区上山町。舟形青面金剛、日月・邪鬼三猿。

12は現在の本郷神社と思われますが、昭和40年頃まで台地上にありました。
57はHIROSE99さんのブログで現存が確認できました。
100と150はブナの森さんのブログで場所が判明しました。
164。この界隈はとにかく地蔵が多く調べ切れていません。
165は同じ紀年銘の地蔵が長津田町にありますが、別途記録されています。
190は同一要素の4基が記載されており、3基までは確認できています。
210は小字がどこだか不明。
246の小字大原は現在の青葉区さつきが丘で現存していました。
293は該当と思われるものを見た人がいます。現存していました。

現在の港北区分と思われるもの
No.13。港北区新吉田町。舟形地蔵立像、延宝2年□月、三猿。
No.14。港北区樽町横溝家。舟形青面金剛、延宝3年9月、三猿。
No.44。港北区新吉田町倉部。丸彫地蔵立像、貞享4年12月。
No.69。港北区新吉田町倉部。丸彫閻魔王座像、元禄10年10月。
No.197。港北区師岡町熊野神社。舟形青面金剛、宝暦11年3月、三猿。
No.205。港北区樽町横溝氏宅。円頂角青面金剛、明和6年12月、日月・邪鬼。
No.222。港北区小机町泉谷寺バス停。駒形青面金剛、寛政2年正月、全部。
No.242。緑区太尾町。駒形青面金剛、文化5年4月、全部。
No.252。港北区師岡町地蔵尊。角柱青面金剛、文化12年12月、三猿。
No.281。港北区菊名町蓮勝寺。駒形青面金剛、万延元年□月、日月・邪鬼三猿。
No.298。港北区大曽根町大曽根バス停。駒形青面金剛、全部。
No.301。港北区樽町横溝氏宅。駒形青面金剛、邪鬼二鶏三猿。
No.303。港北区小机町泉谷寺。舟形地蔵立像、三猿。
No.311。港北区篠原町仲手原。駒形青面金剛、日月・二鶏三猿。
No.312。港北区高田町西原。駒形青面金剛、全部。
No.317。港北区南綱島町諏訪宮。尖角柱文字塔。
No.318。港北区大曽根町鶴見川沿い。駒形青面金剛、邪鬼。
No.323。港北区南綱島町諏訪宮。舟形地蔵立像、享保4年8月、日月・三猿。
No.324。港北区南綱島町諏訪宮。尖角柱文字塔、文政3年12月。
No.326。港北区小机町堀崎。駒形青面金剛、寛政8年2月、全部。
No.327。港北区師岡町熊野神社。角柱三面青面金剛。

13はブナの森さんが発見。
14をはじめとする横溝家は、同姓が沢山ありすぎて不明。TUKOKAさんより情報提供。
44は現地取材を数人にしましたが存在すら不明。ただし浄流寺にあった台石のみの三猿が外の記録になく、該当だったかもしれません(廃棄処分)。
69は元禄10年2月の丸彫閻魔座像なら現存しますが、庚申銘は確認できず。神奈川県立歴史博物館に展示されていましたが、2016年6月から2年間閉鎖となりました。
197、327の師岡熊野神社には他に1基現存。宝暦11年の三面馬頭が1基ありますので秋山氏の二重ミスの可能性はあります。
222には他に多数の庚申塔が現存しますが、222該当が見つけられていません。
281は他に1基現存していますが、281は見つけられず。
303は他に1基現存していますが、303該当が見つけられず(墓域立入禁止)。
311と312は該当しそうな庚申塔が他に(秋山氏未記載)ありますが、312該当は紀年銘が明瞭。
317、323、324の諏訪宮には境外に1基現存していますが他は見つけられず。
242と326は他にも同一条件の庚申塔があり、二重記載かもしれません。
327は三面とあるので馬頭観音と思われますが、断定できません。

現在の都筑区分と思われるもの。
No.126。緑区川和町。舟形地蔵立像、享保8年霜月。
No.167。緑区池辺町。舟形聖観音、延享元年11月。
No.220。緑区池辺町天満宮。駒形青面金剛、天明6年2月、邪鬼三猿。
No.257。港北区南山田町。駒形青面金剛、文政6年2月、日月・三猿。
No.267。港北区牛久保町長徳寺。駒形文字塔、天保7年□月。
No.325。緑区川向町。舟形青面金剛(八臂?)、元文5年12月、三猿。

126と167はまったく見当がつかず。
220は昔の池辺町で、現在の東方町に2つある天満宮と思われますが、他に1基現存しているものの220は見つけられず。
257は個人宅内管理。南山田の斉徳山不動尊へ移築されていました。
267は長徳寺から他出して現存しているようですいました。
325は八臂の元文5年弁財天座像はあるものの、青面金剛は立像で三猿としているので不明。川向庚申講の方々もご存知在りませんでした。

現在の青葉区分と思われるもの。

No.40。緑区元石川町荏子田。舟形青面金剛、貞享元年□月、日月・三猿。
No.65。緑区恩田町鍛冶谷。舟形阿弥陀、元禄9年11月、三猿。
No.176。緑区元石川町荏子田。駒形青面金剛、寛延元年12月、全部。
No.235。緑区荏田町柚木。駒形青面金剛、享和元年10月、全部。
No.277。緑区元石川町荏子田。角柱青面金剛、嘉永7年□月、日月・三猿。
No.278。緑区元石川町荏子田。駒形青面金剛、安政2年□月。
No.280。緑区元石川町荏子田。駒形青面金剛、安政10年□月、日月・邪鬼三猿。
No.288。緑区元石川町保木薬師。角柱文字塔、昭和13年11月(庚申天神急如律令)。
No.299。緑区恩田町満昌寺。青面金剛、三猿。
No.306。緑区黒須田町。舟形青面金剛、全部。
No.319。緑区元石川町。自然石文字塔。

荏子田の庚申塔は多くが川崎の王禅寺にあるようですが確認できないので不明
40はHIROSE99さんのブログで王禅寺に現存が明らかになりました。
荏子田は4基が移設と他の資料にありましたが、王禅寺に遠目で4基を確認しました。
紀年銘を確認できたものが2基(40と176)。
塔の形、眷属、他資料での諸条件が合致するもの2基(277と278)。
ただし277は他資料では王禅寺にあるとはされておらず「角柱剣人青面金剛文政10年5月、願主二名、石川村七名、三猿(秋山リスト未掲載)」とされているものの可能性はあります。
65は谷筋の寺社にはなし。個人宅に現存していました。
288は転出し、どこかに現存しているそうです。私の記録ミスなのか緑区北八朔町に現存していることがHROSE99さんのブログで判明しました。
299は寺が現在も過去も存在しません。
306は横浜市の文化財調査報告所に写真が掲載されていますが、かなりのボロでした。
319は現存していますが場所不明。近年、埋めたという証言を得ました。

以上、よほどの物好きさんにしか喜ばれない内容ですが、何かの役に立てば幸いです。
ご指摘アドバイス追加情報は大歓迎です。

江戸幕府の命により昌平坂学問所地誌調所が編纂に当たった
官撰地誌「大日本地誌大系」に収録されている「新編相模国風土記稿」は
天保12年(1841)に完成。
全巻125にもなる膨大な記録の中から社寺に関する部分だけを抜き出した労作サイトがあります。
http://aralagi.travel-way.net/jinja/sagamihudoki_y.html
※リンクをお願いしようとご本人に連絡を採ったのですが返信がないままです。もし不適切でしたら削除致します。

庚申塔に彫られている地名が不鮮明な場合はこのサイトをよく利用しています。
ところで、このサイトを見ていて山王社とされている場所に高い確率で庚申塔があることに気がつきました。
正確に言うと「たぶんあそこは山王社だったのだろう」です。

例えば
大住郡糟屋庄下吉沢村 山王社 村管理
これだけではどこに山王社があるのか判りませんが、庚申塔のある場所に山王さんと呼ばれている石祠があることは知っていました。
イメージ 1
これは今の平塚市下吉沢ですが、里からだいぶ登った山中にあります。
左端の主尊風化塔が庚申塔(三猿は明瞭、銘文等は風化剥落)。
もちろん確定ではありませんが、可能性は高いと思っています。


これを神奈川県全部でやるとなかなか面白そうですが、とりあえず範囲が狭い大磯町でやってみることにしました。

●淘綾郡 二ノ宮庄 大磯宿 山王社 常楽院管理(おそらく廃寺)=現在の大磯町日枝神社か。13基の庚申塔(1基の青面金剛塔は石祠の中尊)。
イメージ 2















紹介されることが多いので省略。


●淘綾郡 二ノ宮庄 黒岩村 山王社 村民管理=現在の黒岩、地元通称「山王山」。
近年まで石仏群があり三猿塔もあったが現在は逸失。丸彫りの1猿と思われる中尊がある石祠のみ残る。
イメージ 3























紀年銘、銘文無し。
逸失した庚申塔は笠付文字三猿塔。
寛文10年9月「奉造立庚申塔為二世安楽」三面に猿。115cm。


●淘綾郡 二ノ宮庄 虫窪村 山王社 村管理=現在の虫窪。
慶林寺近くの山中に板碑の庚申塔2基。内部に新しい三猿像が入れられた石祠も。
イメージ 4
















板碑三猿塔。寛文12年4月「卍 奉造立庚申供養石塔 相州淘綾郡虫久保村 具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量 諸旦那敬白」。109cm。
板碑三猿塔。享保11年3月「卍 夜座連床更臻 観音変相要安心 奉造建山王大権現 金鶏一拍誠□□ 端的般示榮功徳林」。69cm。
石祠は銘文無し。

●淘綾郡 二ノ宮庄 生沢村 山王社 村管理=現在の生沢。
詳細不明ながら鷹取山山中の十三仏に混ざる青面金剛と思われる単体舟形塔。
イメージ 5












写真右端が単体の合掌青面金剛(とされる)。享保5年6月。


●淘綾郡 二ノ宮庄 国府新宿 日枝山王社 蓮華院管理=現在の国府新宿、日枝神社。庚申塔の記録が無く未調査。

●番外:淘綾郡 二ノ宮庄 西ノ久保村 庚申塔ノ森 村持ち=現在の西久保。
個人宅に「山王さん」と呼ばれる三猿付石祠。ただし付記「社もなく塔のみ建り」と合致するのか微妙。
イメージ 6







































三面に猿。銘文等は風化で判読不可能。
引越した際に山にあったものを一緒に移したとのこと。


もちろん大磯町に現存している庚申塔はこれだけではなく、寺の境内にあったり辻にあったりと色々です。
実はこれをやってみようと思い立った最大の理由は、山中にある庚申塔が他地域と比較して多かったから。
あくまでも「と、思われる」の世界ですが、上に出したリストの6つの内、山中に現存するのは3ヵ所。番外とした西久保は以前は山に設置してあったそうですし、平塚の下吉沢も同じエリアなので、山中にあった「山王」系が実に多いこと判ります。
山王信仰は天台宗の守護神と認識されがちですが、実は山の信仰と結びついた山王信仰があったそうですし、相模国の場合(他県は調べていません)「山王」の山号が付く寺院に天台宗は無いという調査結果もあり、宗派を超えた普遍的な信仰だったと考えられているようです。

これを書いていて、庚申塔の記録が無かったので未訪の日枝山王社があることが判明しました。
大磯町の石仏資料は丁寧なのでそうそう漏れはないと思いますが、そのうち訪問しなければ〜。
※境内と拝殿の中、覗ける範囲ではありませんでした。
ちょっと裏山が気になりましたが登ってはいけない雰囲気でしたので自粛。

庚申縁起

庚申縁起は各地に残っていますが、全文をネットで探すとうまくヒットしないことも多いので、大坂四天王寺系の庚申縁起を出してみます。
これを知っておくと庚申塔を観察するときにちょっとだけ役に立ちます。

最古級らしい宇佐八幡所蔵の「庚申因縁記:推定1496年」は内容を知りませんが、どれも大筋は大差ないとされています。
しかし、色々読むと拝む仏尊が違っていたり、閻魔が出て来たり、中には青面金剛の前世が某国の王子で、両親も日本に生まれ変わり、父は役行者、母は江ノ島弁財天という修験道の影響の濃さが判るアレンジバージョンなどもあります。
神道にも庚申縁起があり、さらにアレンジを加えた内容です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
抑日本国我朝人四十二代文武天皇の御宇 大宝元年の庚申の日 四天王寺行法尊記上人の庵室へ 年の頃十六、七ばかりの童子浄衣を着し忽然と来り給いて 僧都に告げてのたまわく 我はこれ帝釈天より天下りたり 当寺は仏法最初の霊地也 しかるが故に 庚申の法を善く広めよとの勅旨なり 天竺震旦にも専これを修行し おがむなり 夫れ三界の衆生は迷多く覚りは少なし是によりて 現世にも災難を受け後生に悪道に沈む 此の儀を憐み給ひて 庚申を待ち尊むものは 現当二世の諸願を成就すべしとなり。
庚申と云うは年中六度あり。
年の始めの庚申は地獄道の苦患をまぬがれ
第二度の庚申は餓鬼道の苦しみを遁れ
第三度の庚申は畜生道の苦を遁れ
第四度の庚申は修羅道の苦しみを遁れ
第五度の庚申は人間の八苦の罪を滅し給う。されば 人間は富貴貧窮高位下賤女人いろこそ変われど罪業まくねんの作らぬものはない 此の故に現世の災難後生の苦しみを助けんためなり
第六度の庚申は天上の五衰躰沒の苦しみを救わん為なり。
しかれば庚申の日は精進潔斎して垢離をかかり 衣裳を改め 南の方に棚をこしらへ申の刻より申上るなり。則ち帝釈天是をしろしめし 高さ三十丈の宝塔の内に納め給て かの塔は三重也。過去現在未来を守る事也。仞て灯明を参らせ香を焚きよき花を立て 珍しき菓と御供を供へ奉り 夜半に丸き供物と御酒を奉るべし。其の夜は荒き雑談せず 腹を立てず 欲心の事を云わず 男女の事を思はず 四足二足五辛のたぐいを喰べからず。
庚申待始めたる人は たとへ重服の身なりとも是をいとはず 垢離をかかり心を浄め待ち奉るべし。経に曰く 庚申の夜もし眠るならば三尸九虫以て害をなすと云へり。此の文の心は人の内に三尸九虫とて十二の虫あり 此の虫の仕業にて癩狂 癩瘡 狂気 この病となり 此の虫を退治する文に曰く「彭候子 彭常子命児子 悉入窈冥之中 去離我身」と 正南に向ひ拝して 三遍唱ふべし。
又此の歌をも誦すべし。「夜もすがら 我はねざるの此の床に ねたるも ねぬぞ しんはまさるぞ」と歯を鳴し三遍唱ふべし。
是即ち本尊の躰を見せ給て 青面金剛とて 身の色青く 頂上に五色の虵躰をいただき 四臂とて四つの手を顕し 右の二手には輪どうと索の縄を持ち給ふ。左の二手には鉾をつき 次に金剛のしもつ(杖)を持ち給ふ。しもつの上に白き蛇まとえり 四つの手首と両足には白き蛇まとえり 大龍二匹を以て帯にし 骸骨を貫き 首には一切の諸行は無常なる相を示し給ふ。盤石の上に二力士をふまえ 阿吽の息を継しめり 面に忿怒の相を顕し 不信懈怠の衆生を罰し 内心には慈悲柔和の相をたたえ 信心の行者を守護し給ふ。
赤衣の童子二人香炉を持ち 左右の脇士とし 赤黄白黒の四人の夜叉神を眷族とし 各兵具を帯して 悪魔の降伏のいきをしづめ 是則帝釈天の変化なりとて 童子は紫雲に乗じ異香を薫じ音楽を奏し 天に上りたまひけり。
民部の僧都この旨を承り 身躰を絵像に写し木像に作り 堂を建て 諸国にこれを信仰の輩は今生にては 無病息災 子孫繁昌 寿命長延の楽を得 当末にては 極楽浄土のさとりを得るものなり。庚申の夜は宵より経を読み念仏を唱へて 色々の頌文有りと云えども 在家の俗人は六字の名号にすぐれたるはなし。其故に阿字十万三世仏 弥字一切初菩薩 陀字八方諸聖教 皆是阿弥陀仏と云へり。亦曰 一念弥陀仏 即滅無量罪 現世無比楽 後生生浄土なり。
されば 暁寅の時鶏の鳴を限りて 三十三度の礼拝を致すべし。頌文に曰「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」と唱ふべし。
一座と申すは三年に十八度なり。両三年目には供養致すべし。供養というは道のほとりに塚を築き 四方正面の卒塔婆を立て 供物をととのへ 往来の旅人に到る迄是を施し 外聞たしなみ懈怠なく待ち奉れば 七難即滅 七幅即生と云ふ事有。七難とは悪事災難の事也。七幅と云ふは福徳の事なり。心に勇み人にすすめ待ち奉れば いよいよ冥加に適い 富貴自在 知恵増進すべき者也。
所願成就 皆令満足 仍而庚申の縁起如件 敬白
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イメージ 1



















































横浜市戸塚区、蔵田寺にある庚申塔です。
明暦2年11月
銘文はかなり薄いので間違っている可能性はありますが、
「庚申為二世安楽」
「現世安楽後生善生」
とあるように読めます。
追記------------
資料(こちらが正解)
「庚申供養之地蔵」
「現世無比楽 後生清浄土」
うひゃー。こんなに間違えていたとは(汗
しかも「地蔵」とあるなら、地蔵で確定でしょう。
なぜ阿弥陀三尊種字なのかは知識が無いのでもう諦めます(笑)
---------------
上部にいるのは二猿。
ちょっと珍しいタイプで、神奈川県にはおそらくこれ1基。
他には千葉県にもあるようです。

ところでこの庚申塔、主尊はいったい何だと思うでしょうか。
戸塚区の文化財調査報告書では、確か地蔵になっていたように覚えています。
石仏の先達諸氏も地蔵と見ていることが多いですが、
実は上部に「キリーク・サク・サ」が彫ってあるので合掌の阿弥陀という可能性もあり、私は阿弥陀だろうと思っています。
イメージ 3
もっとも、錫杖持ち地蔵の上部にキリークがついていることもあるので、自信はありません。

このような僧形の合掌像は、頭がツルツルの場合は地蔵と見られ、
髪の毛がある(螺髪)場合は阿弥陀(たまに薬師)と
見られることが多いように思います。
※あくまでも「思っている」だけで、正解は知りません(笑)。

これは合掌ではなく印を結んでいる場合も同様で、特に定印の場合、石仏はぼんやりしてしまっていて、阿弥陀なのか釈迦なのか、大日なのかと、よく判りません。
何か見分ける方法があるのかと、某郷土資料館の学芸員さんに質問したこともありますが、プロでも判らないそうです。
私のブログのプロフィール写真のものも、定印阿弥陀座像と資料には記載されていますが、違う可能性はあるのだと教えてくれました。

ところで、判別しにくい石仏の地蔵や阿弥陀etcですが、これは間違いないだろうというのもあります(よね)。
錫杖持ちの地蔵や来迎印の阿弥陀です。
これと、合掌、ぼんやりした定印、その他の如意輪、聖観音等が主尊の庚申塔がどう分布しているかをマッピングしてみました(文字の南無阿弥陀仏は除外)。

数が膨大すぎるので横浜市限定です。
青が錫杖持ち地蔵。
緑が来迎印阿弥陀。
赤が合掌(に見える)主尊。
黄が定印を含むその他の主尊。

イメージ 2





































横浜の北部は実感として地蔵が多く、地蔵を見れば庚申塔とも言えるくらいの密度のエリアもありましたが、こんなにくっきり別れるとは思っていませんでした。
石仏全般ではない庚申塔だけなので、大雑把な分析ですが、鶴見川沿いのエリアは地蔵信仰が強かったのかもしれません。
また、戸塚区界隈は赤(=合掌)が多く、中にはキリークやカの種字が付いているものもありますが。確かに悩むことが多々ありました。
錫杖持ち地蔵が多いエリアと、そこから南のエリアの間に空白地帯があります。
ここは庚申塔自体が少ない丘陵地、江戸期は山林で区切られていたのでしょう。

ちなみに横浜市よりもっと南になると地蔵や阿弥陀はほとんど見なくなります。
これもマッピングしてみると面白い結果が見えて来るかもしれません。
イメージ 1先日、千葉県香取市の側高神社で見た庚申塔。
文化3年12月
「御庚申尊神」

香取市には「庚申神」塔がいくつかありますので、その系統だろうと、写真だけ撮って立ち去りかけてしばし。
下の空きスペースが妙…。

同行の石仏マニア氏と、元は三猿が付いていたのかもしれないと結論しました。

明治になって削られたのではないかと。

香取市は庚申塔が多く、ごく一部しか見ていないので乱暴な結論ですが、間違っていても別に怒られはしません(笑)。











庚申塔がらみの改刻で有名なのは埼玉県行田市と熊谷市にある「塞神」三猿塔でしょう。
旧忍藩領に多いようですが、復古神道の平田篤胤門下生が主導して庚申塔を神式あるいは別のものに変えてしまった例です。

類似した改刻塔
イメージ 2「塞神三柱」

新宿区にあるものです。
元は何だったか判りませんが、あきらかに表面を削ってあります。


この表面を削るというのは、見れば判るだろうと思いきや、本当に改刻or転用なんですか?と言いたくなるものも。


















イメージ 3超有名な新宿区築土八幡神社の2猿塔。
寛文4年(側面)

庚申塔と見なされているようですが、本当にそうなのでしょうか…。というのは置いといて、寛文4年に梨地仕上げをするのか?。
上の日輪月輪から下だけ梨地なのは何故だ?。光背型塔の側面に紀年銘を彫るのは変だ。などなど、時代と作の違和感によって議論があるそうです。

個人的には、猿や桃のボリュームからして、これが改刻or転用だとすると、前のものから4、5cm彫り込まなければならず、そうなると上部の日月輪の部分が変なことになると思うのですが、正直よく判らないケースでした。



この時代観が合わないという理由で改刻or追刻だと見られている例はもう1つ。

渋谷区東福寺の庚申塔
イメージ 6イメージ 7





















足元に三猿が付いています。
文明2年(1470)。


いくらなんでも紀年銘が古過ぎる、ということで庚申や石仏の先達諸氏が調査しまくり、「文」の上に宀(うかんむり)らしきものが見えるし、年号部分が少し窪んでいるということで、改ざんだろうと結論されている有名な庚申塔です。
隣には贔屓(亀みたいな像)の上に乗った(※)オベリスクのような3m近い尖角柱文字庚申塔があり、それも文明2年銘です。
どちらも寛文2年と考えられているそうです。
※2011年の東日本大地震で倒壊しました。現在は修理されているのか不明。
(追補:修理されていました)

しかし、そう言われて見ても、現状では目視だと正直よく判りません。

判りやすい例
墓塔と思しき石塔を転用して改刻したもの。
イメージ 4イメージ 5























如意輪は元のまま、戒名らしき文字を雑に削って「山吹之里」を彫っています。
このくらい大雑把だと私にもすぐ判ります(笑)。


庚申塔に限らないかもしれませんが、この他に再供養もあって、
紀年銘が2つ以上入っているのも珍しくはありません。

イメージ 8横須賀市久里浜、住吉神社
猿田彦大神、三猿
宝暦7年
文化10年
安永8年

これは3つの紀年銘入ですが、6つなんてものあります。
お金が無くて、同じ庚申塔を3回使ったのか、それとも3回建て直したのかは判りませんが、6つ入っているのは6回供養しなおしたと判っているそうです。



















ところが、再供養かと思うと、どうも怪しいのも。
というかこれが本題なのですが(笑)。
イメージ 9川崎市宮前区、八雲神社
寛文11年
享保12年

「青面金剛庚申供養塔」の向って左に、薄く風化気味に「自享保十二丁未十一月願焉」と入っているようです。
HIROSE99さんのブログを見るまで気がついていませんでした。

寛文はくっきりしているのに、新しい享保が薄く風化気味。
三猿の横に何か文字が。
全体も表面を削られたように白っぽい。
塔としては寛文期もあり得るタイプなのですが、軽く調べた範囲では、川崎で文字にしても像にしても青面金剛が出て来るのはこれが初出。







白っぽいのはタワシで擦られているからだと思っていましたが、実は違う銘が入っていたのを削って、享保に青面金剛銘を入れ直したのではないかと思えて来ました。

仮にこれが当所から青面金剛と入っていて、享保の年号は追刻されただけだとすると、青面金剛銘の初出となり川崎の庚申塔としてエポックな存在になるのですが、そうは見られていないようです。
中山正義氏が作られた「神奈川の初期庚申塔」リストにこの寛文塔は入っていません。享保で見られているのでしょう。


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事