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天明□年6月5日 寛□□酉年2月16日 施主□左衛門 中央遥拝の二猿。 釈迦堂は地元の人に教えられただけで、地図や風土記稿にも掲載がなく、正確な名称かどうか不明。二猿なので山王信仰の可能性もありますが、山王社も風土記稿には記録がありません。 たぶん資料未掲載塔です。 紀年銘が2つある珍品ですが、年の特定困難な状態で残念。 天明9年は1月24日までなので、天明元~8年のどれか。天明年間に6月5日の庚申日はありません。天明の次、寛政年間だとすると酉年は元年と13年ですが、寛政13年は2月4日まで。どちらも2月16日は庚申日ではありませんでした。 所在地は菅生5-10-26の北隣。 |
川崎市
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神奈川県立公文書館で面白い史料を入手しました。
庚申塔移設願いを出した内容です。 公文書館からブログ使用許可を得られたので一部UPします。 要約すると 當村(稲田村)登戸在住の吉田安次郎ほか2名による庚申塔移設の出願です。 明治3年に安次郎の先代である金平が街路の適当な空き地に建てた庚申塔を移したいというもの。 元位置がどこかは書いていませんが「庚申塔あるを以て官地塚となしたる次第」というのが面白い。横浜市南区にある几号付庚申塔(明治に測量基準点の几号が付け足された)でも判りますが、路傍の石仏は明治初期まで基本的に不動のものだったようで、道路拡張工事があっても官地の塚として処理していたのでしょう。 登戸界隈に現存している庚申塔で明治3年は小泉橋付近にあり、往古は富士講の人々の集合場所になっていたとされるものだけです。 古文書の庚申塔が該当なのか、奉納者名を調べないと判りません(ノーチェックでした)。そのうち調べに行こうと思っていましたがTATSUZOさんのブログで奉納者部分が掲載されていて、先達が吉田□□(金平)だと判ったので確定できました。 古文書はご覧の通り筆文字で担当者によっては解読困難なページもあり、許可が出たのかまでは不明でしたが、役人の反応は「取り調べするにしても、そもそも、当初は建立許可を得ているのか?」「往時の文書を持ってこい」といった類いで、杓子定規さが満載。 今も小泉橋付近にありますし、移せた結果現在地(多少転々としていますが)なのか、もっと他に移す予定だったのかは不明。 でも、当初の場所選びの背景や、移すだけでも一苦労あったと判る面白い史料です。 |
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川崎市多摩区東生田の安立寺。
境内に文化年間の青面金剛塔があります。 紀年銘ははっきりしていません。 左側面に題目。 右側面に石橋供養の銘。 合掌で日月を持つバンザイ型です。 もう1基、丸彫1猿塔があったそうですが 昭和年間に盗まれて逸失。 明治44年の造塔で、かなり立派なものだったそうです。 この石塔は帝釈天堂の前に立っていますが、帝釈天の解説は以下。 ここにある「安置し奉る帝釈天」が木像の青面金剛。 安立寺は日蓮宗なので庚申の本尊は帝釈天ですが、青面金剛は帝釈天の使い、あるいは仮の姿ということになるのかもしれません。 帝釈天は柴又の板本尊の姿が正式になるようです。 こちらの木像青面金剛は拝観できます。 前左手の持ち物は逸失。 邪鬼の下の磐座の、さらに下に蓮弁座的なものがあったそうで、その下の基台は残っていました。 三猿もあったと推測されており、基台と磐座の間にあったのか、あるいは別に三躰あったのかは不明で探しているそうです。 鎌倉時代初期の一木造りには見えませんが、三代将軍実朝が守庚申をしていたのは吾妻鑑に記録があるので、何かが伝わっており、それをどこかの時代に造り直した、あるいは新造したのかもしれません。 これが青面金剛だという証拠は特にないようですが。 拝観にあたって、御真言を質問しましたが、日蓮宗なので真言はなく、 お題目を三回唱えると教えて頂きました。 オンディバとかマイタリとかではなくても、 南無帝釈天くらいは唱えるかと思っていました。聞かないと判らないものです。 安立寺の庚申堂は「稲毛の庚申」、「登戸の庚申」とも呼ばれ、江戸府内からの参拝者もいたそうです。 往古は日蓮宗独特の文字曼荼羅の前に設置されていたと推測され、 本堂に日月と天蓋がついた文字曼荼羅(板)が掛けられています。 日蓮宗としてこの形は通常ありえないものだそうで、天蓋の下に青面金剛が立っていたのではないか、とのこと。 お札も出していて今も頂くことができます。 これは木像を写しているようです。 邪鬼だけで二鶏三猿はいないので、 もともとこれだけだったのかも。 |
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3、4位
ここからは明確に好きな順です。 左は3位の宇宙人顔。 他に類例が無いデザインです。青面金剛のオールバックにした頭髪の生え際が珍しい表現ですが、何よりも邪鬼の耳か角の表現が、マンガの宇宙人に見えてしまい、宇宙人を踏みつけるヒーローみたいだと思ってしまいました。細かいことですが鶏が外向きなのも珍しいです。 右は4位の昭和塔。 耳たぶや頬の垂れ具合が印象的です。日月捧げ持ち。造塔が少なくなった昭和の建立ですが、これを建立した講は「小田急有志の会」で、これに驚きました。村や町の住人ではなく、株式会社内の有志による造塔は、他に例があるのか知りませんがかなり珍しいと思います。(追補:これはバスの運転手の方々が造塔したものだそうです。高度経済成長期に道路の拡張によって失われた庚申塔が複数あったらしく、その供養のためらしいです) 2位 風化し切った青面金剛塔です。 こんな状態に残ることは稀にありますが、なんと言っても美しいです(笑)。 しばらく見とれてしまいました。ここまで風化しても日月のあったこと、 合掌六臂だったこと、三猿がいたことが判ります。 そして、庚申堂内にちゃんと祀られていることが、何より嬉しいことでした。 1位 堂々の1位です。 丸彫り青面金剛。享保10年。 奉納した講の名は台石にあったかもしれませんが、 塔を壊しそうでのぞき込めませんでした。 市の調査員が確認しに来たそうですので、文化財指定になるかもしれません。 庚申塔は全国に数あれど、ここまで見事なのはそうないと思います。 川崎が誇る逸品と言ってよいと思います。 |
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青面金剛編です。
トップ2は別にして、順位にあまり意味はありません。 造立年も省略します。 造形だけで選びました。 9、10位 左は動きのある彫りが好み。 江戸後期は文字塔が増えますが、刻像塔は凝っているものが多く、見て楽しいです。全体的に動きのある表現で、反閇のような脚の形、左上手は宝輪のはずですが、どうみてもボールで投げつけて来そうに感じました。 右はシンプルさが好み。 青面金剛が猿のようで、これでは四猿の庚申塔じゃないかと笑ってしまったことを覚えています。全体的にシンプルで余計な装飾がなくすっきりした印象が好みでした。 7、8位 左はかなり個性的。 素朴な感じですが、川崎市内の青面金剛塔の中で異彩を放つ1つでした。多くの青面金剛塔は細かい違いはあっても、全体のデザインにそう大差はありません。この青面金剛塔は類似するものが他にない逸品でした。 右は頭部が髷のようで面白かったもの。 パッと見たとき、帝釈天かと思いました。ヒゲがあるように見えるからですが、これは接着剤によるものでした。頭部の表現も髷のようで珍しいです。まるで蛇が髪をまとめているかのよう。不言猿の「ちょっとちょっと」というような仕草も面白い。 5、6位 左は銘文が貴重。 造形としてはよくある形ですが、側面の銘文に貴重な情報がありました。「元禄五申年信仰_天保十四卯年十月建之」と彫ってあります。庚申信仰を開始したのが1692年ということで、この界隈に庚申信仰が広まったのがその頃かもしれません。建立したのが1843年で、151年の開きがあります。庚申待を3年ほど続けたら建立するなど、庚申塔を建立するタイミングは色々ありますが、151年後の建立にはどういう理由があったのかを想像すると興味が尽きません。 右は釈迦かと思ってしまったもの。 頭髪のデザインが釈迦象のようで驚いた青面金剛塔です。胸にドクロの瓔珞。腰に龍が巻き付き、着衣には獅子頭。この組合せ自体はたまにありますが、大抵は憤怒相です。これは顔が釈迦のようで、記憶に残りました。 4位から先は、その4で。 |




