庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

相模原市

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ネット上での情報がほとんどない旧「津久井郡」の庚申塔は風化や盗難、廃棄で消える一方です。できるだけ記録を残そうと思い立ちました。追加情報をお持ちの方がおられましたらご協力ください。
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旧津久井郡の庚申塔-15


イメージ 1沼本・内郷・坂下
文字庚申塔/寛政12

資料に記載はあったものの、場所が全く判らず見つけるのを諦めていたもの。
沼本はダムに沈んだ集落で、移転はしているが、庚申塔などはもう無いと思っていた。
江戸時代に使われていた沼本村へ下る道を降りきった場所、ダム湖畔沿いに道祖神などがまとめて移設されており覆屋が付けられているが、その崖上3mほどに平場を作ってあり、石仏が3基あった。
とても登れそうにないが、中央にあるのが「庚申塔」と彫った角柱塔でした。
見つけたときは本当に嬉しかったです♪





イメージ 2沼本・坂の上
定印阿弥陀/延宝7
93×26×25

上記角柱文字塔がある坂道を登る途中、朽ちた石段が作ってある横道が薮に隠れている。
「通称坂の上と呼び、女坂とも呼ばれる。かつては坂の曲がり角に掛け茶屋があり、岩間に湧く清水に旅人はのどを潤した」とネット資料にあるが、茶屋があったらしき平場は現存している。
この定印阿弥陀と似た庚申塔は他に2基ある。
















イメージ 3阿津東大道北・上阿津・天満宮
文字庚申塔/寛政9
62+29+22

小さな川と橋がある場所。国道412号ができる前はこの天満宮の前を通る細い道がメインだったのではないかと思わせてくれる良い風景。








イメージ 4寸沢嵐900
合掌青面金剛/元禄17
85×25×24

現在は日神社境内にある。ネット資料では「右手に宝刀、左手に宝玉を掌に乗せ、上位に庚申像を刻む風変わりの形状」とあるが、左上手は宝玉ではなく法輪のデフォルメのような気もする。風化と汚れで下手に何を持っているのか不明。
この庚申塔は所在地が異なる情報が複数ある上に、採寸情報も69×25×21というものがあり、他の庚申塔があるのかと思っていた。
それもこれも寸沢嵐900という現存しない地番情報が原因だったが、どうやら日神社裏手にあった空き地を指しているのだと見当がついてやっと解決したもの。
採寸の違いは笠が以前付いていたようで、その有無で異なっているのだと推測。
なお、同所には他に
合掌二臂青面金剛、宝永6
笠付合掌阿弥陀、延宝5
この2基の情報もあるのだが同所には現存しない。
阿弥陀は写真が残っており、沼本・坂の上のものと酷似している。
合掌二臂青面金剛については、文字情報のみで現存しているのかどうかも判らない。





イメージ 5寸沢嵐・西原・清光寺
合掌青面金剛/享保7
66×28×20

日神社の合掌青面金剛と酷似している。
日神社は元禄17(1704)
こちらは享保7(1722)
同じ石工か系統と思われる。
日神社では下手が不明だったが、こちらでは右下手に蛇、左下手に索なので、日神社も同様と判った。
なお、ネット資料では観音像としているが、合掌六臂の青面金剛で間違いないと思う。






















イメージ 6寸沢嵐・立道・道志館
合掌青面金剛/享保4(1719)
65×28×23

極めて状態が良いが、これも上記2基と同系。
右上手に剣、左上手に玉、右下手に蛇、左下手に索。
高さ65cmとなっているが笠がついており、全体の見た目は大きい。
状態の違いは手入れの違いで、地元の人々が大切にしていると思われる。
なお、この庚申塔は「上の山城」への登城口にあたる場所にあり、地名の立や館はいずれも「たて」と読み、城を持っていた土豪の居住地だったのでしょう。

撮影した日は晩秋でしたが、城に登ったところ、イノシシと遭遇して焦りました。
この界隈では他にもイノシシの足跡や土を掘り返した痕跡、ヌタ場らしきものも見つけていました。
特にこの秋は熊もかなりの数が出没しており、用心はしていたのですが、民家の真裏だったので油断していました。
旧津久井郡の庚申塔は古い山道にもいくつかあるので、以降は棒を拾ってバシバシ音を立てながら探索するようになりました(笑)。

道志川沿い
イメージ 1青根・荒井
青面金剛像/明和2
95+24+19
前手は合掌だが上手に剣と蛇を持つ珍しいタイプ。
状態も極めて良い。石の質が伏馬田の享保16年塔と似ているので、石工も高遠系かもしれない。
三猿は→●←。

こちらは集落中央部の石仏群にある。















イメージ 9青根・荒井
二臂青面金剛?/享保13
112+46
剣と宝珠?持ちの二臂像。
似た像容は旧藤野町の庚申石祠中尊にもあるが、青面金剛かどうかはよくわからない。
旧津久井郡の庚申塔主尊は何なのか特定しずらいものが多々ある。
これも、三猿が付いていなかったら庚申塔とは思わなかった。

















イメージ 2青根・荒井
百番供養塔/安永7
庚申塔ではないが、珍しい石仏。
百番供養塔自体はよく見かけるし、刻像塔もあるが、このような装飾が施されているものは初見だった。
塔の左右に「南無阿」「弥陀仏」。
主尊は聖観音か。
天蓋や下部に花が彫られていて、仏壇をそのまま写したのでは、と想像。
















イメージ 3青根・東野
青面金剛/宝永7
137+27+23
全体的に風化しており、顔も半分が欠け、それをセメントで補修してある。残っている顔は端正と言っても過言ではない。昔は美品だっただろう。
道志道の大きな交差点にあるが、山間部にもかかわらず交通量が多いので、排ガス被害は進行する一方。

隣にあるのは丸石。
山梨県まで2km強の地点で、丸石を見れば道祖神を連想するが、他の集落ではほとんど無い。



旧津久井郡の旧津久井町エリアはこれで終了。
実はこの先にある上青根、音久和にも庚申塔の記録はあるのだが、
2回探しても見つけられていない。←その後、音久和は発見UP済(資料とは別の紀年銘)。

旧津久井町エリアの行方不明は以下。
●青根、上青根。青面金剛、宝永7/5。59+26+23。
●青根、音久和。青面金剛、延宝5/霜。59+26+23。
●青山、共進。自然石文字塔、元文2/11。100+65+50。
●太井、小網。文字塔?、寛延元。70+29+23。
●中野、大沢。文字塔、文化6/11。50+21+16。
●三ケ木、野尻/旧道。延享年間。54+25+18。
●三井、名手/川坂前。宝暦6/8。サイズ不明
この他、逸失が確実な塔が2基ある。

いずれも複数回探したが見つけられていない。
上青根は虚空蔵堂にあったとT氏が記録しているが、
虚空蔵堂自体が集落に現存せず、田んぼにしてしまった場所にお堂があった、
という証言を得ている。
音久和はバス停から上がる道沿いにあるとT氏資料にあるが、
該当しそうな場所はあったものの庚申塔はなく、他は薮道となっていたため
草が枯れないと探すのは難しいと判断した。

音久和の石仏群には興味深い石仏があった。
イメージ 4イメージ 5










地蔵/明和6
護念経地蔵
□普門品石
書写供養之

信列高遠三原(列は州か?)
石工
伊藤義右□□

高遠石工の作で見事な彫り。
同所には自然石馬頭観音塔や刻像塔が
あるが、この地蔵は際立って状態が良い。
今まで青面金剛のデザインから、信州や甲州の青面金剛と似た傾向があると
思ってはいましたが、これで高遠石工が来ていた、あるいは高遠石工の作品が流通していたことが明らかになりました。


音久和の青面金剛は延宝5(1677)であり、高遠石工が出稼ぎを
始めたのは元禄年間(1688以降)からとされているので、どのような
像様なのか見てみたいものです。

しかし、青根は神奈川県の西端でしかも延々と上り道。
自転車で行くには少々きついので再訪する気力が…(笑)

以下は道志川沿い、旧津久井町ではなく旧藤野町エリアになります。

イメージ 6藤野町、大河原、賽の神
四臂青面金剛/宝永4
86+19+15

風化気味で像様がぼやけているが
憤怒相で右上手に剣/左上手に鈷杵。
右下手に蛇/左下手に索。
銘文は全く読めず、資料による。

大河原集落は道志川に面しており、
対岸の青根と交流はあったらしい。
しかし地名「塞の神」は集落上方の
山道口にあり、石仏群となっている。
主な交流は牧野側の山間部集落だったことが判る。










イメージ 7

藤野町、長俣、せいのかみ
四臂青面金剛/紀年銘不明(寛政9)
62+28+18

上欠だが四臂で下手は蛇と索を持っているので、大河原の四臂青面金剛と同タイプと思われる。
ネット資料では住所が牧野11179となっているが、ネットで調べるとその住所は存在していない。それも当然で写真に
イメージ 8
見える家は廃屋。さらに、ネット資料では他の住所も示されており、集落東口にも2基あると掲載されている。
地元の方に石仏の所在を訊ねたが、ご存知なく、「せいのかみ」と言ったところ、所在地を思い出してくれた。しかし東口については「?」との反応だった。
大河原と同様、山道の旧道口にあると推測して探したが、薮に覆われていて諦めた。
なお、この石仏群の脇に見える踏み跡はキャンプ場へ繋がっており、近日中に拡張工事をし、石仏郡はお祓いをしてどけるとのことだった。
単純に移動するだけなら良いが、集落の人も忘れているような石仏群なので、廃棄される可能性もある。
いずれにしても、この写真が最後のものとなる。
写真は向って右から自然石百番供養塔/文政9。百番供養塔/寛政3、種字バクに読めるので主尊は釈迦座像?。四面地蔵塔。不明文字塔。丸彫り地蔵塔/念仏講。庚申塔。上欠の墓碑。
こんな山奥の集落でもちょっとしたことで退けられてしまうのは、全ての石仏の信仰が終わっているからだが、集落の歴史を物語る文化財としてもったいない気がしてならない。

※工事後に再訪。様子に大きな変化はありませんでした(UP済)。



旧津久井郡の庚申塔-13

道志道沿い篇

イメージ 1
青野原・長野・諏訪神社
自然石文字塔/文政7
73+30+14
諏訪神社は長野集落の中央部にあり、道志道に面している側に多数の石仏が建立されている。
もともと諏訪神社にあったのかは微妙なところ。長野集落の場合、入口部分には石仏群が無く、出口にはあるので、もしかすると移築されたのかもしれない。
なお、諏訪神社を長野神社とする資料もある。




















イメージ 2
青野原・長野・諏訪神社
青面金剛塔/享保15
73+28+24
三面に三猿
風化が進んでいる。そう遠く無い将来に、下原の三猿のみ残る主尊不明塔と同様になると思う。
余談ながら、井原寺がある下原集落からここの長野集落の間には上原集落がある。
上原集落は出入り口に小さな石仏群がある。
ただし庚申塔は無い。




















イメージ 3イメージ 4







青野原・長野出口
青面金剛塔/延宝5(T氏資料より)
71+36+12
「奉造立庚申尊」
主尊はほぼ剥離しているが二童子、三猿、二鶏の痕跡は残っており、青面金剛と考えられる。
詳しい所在地が不明だったもの。
それも当然で住所がない路傍にあった。
草に埋もれた石塔の上部が目に入らなければ通り過ぎたと思う。草をむしって全体が判った。




なお、同所と思われるが、以下は見つける事ができなかった。
文字塔/紀年銘不明
38+18+9
同所には風化した馬頭観音や不明塔などがほとんど埋まるように並んでいた。
全部調べるには掘り返す道具が必要なため断念。



イメージ 5青野原・西野野
青面金剛塔/享保15
136+27+25
主尊は僧形もしくは地蔵や阿弥陀に見えるが、六臂に見えるため青面金剛とした。
六臂に見えるというのは、苔をどけると八臂の可能性もあるからで、前手の合掌の下に薬壷のようなものを持つ前手があるようも見える。
足元に風化した三猿か。
基壇に
「善男都合」
「庚申供養」
「貳拾九人」
とある。
タワシを持って行けば良かったと反省。















以下は道志道沿いではない。
道志川の対岸になります。

イメージ 6
牧野・伏馬田
青面金剛塔/享保16
102+29+29
奉造立庚辛供養立塔為郷内安穏
「庚申」ではなく「庚辛」。
青面金剛が日月を捧げ持つ。
統計を取っていないが、青面金剛の上手は矛と宝輪を持つタイプが多いと思う。しかし上手が日月を捧げ持つタイプもある。
どこに多いのかは調べていないが、武蔵や相模などの関東一円、甲斐、信濃、越後でも見た事はある。ただ、関東が中心のローカルなタイプと思っていた。
しかし九州薩摩にもあるようで、全国の分布がどうなっているのか興味深いところ。

石川博司氏は「万歳型」と呼んで論考をインターネット上で公開しているので、興味のある方はご参考に。

個人的には妙見菩薩が日月を捧げ持つことがあるので、そこからの影響ではないかと思っています。










イメージ 7
牧野・石砂山登山道
自然石文字塔/紀年銘無し
85+35+27
道標
右 やまみち
左 ○○○の方
なんとも大雑把な道標で思わず笑ってしまった。現代においては登山者しか使わないが、往時は生活道路だったのだろう。山道を探せば馬頭観音も出て来そうな雰囲気だった。

山道に庚申塔はめったにありませんがゼロでもありません。これには、道の安全を祈るというだけでなく、山域の境界争いなど色々な思惑があったようです。









あともう1回行けば旧津久井郡の津久井町エリアは終了するのですが、そろそろ梅雨入りで、旧津久井郡へは行けなくなりそう。
どうなることやら。























旧津久井郡の庚申塔-12

道志道沿い篇

イメージ 1
鮑子・入口
青面金剛/享保11
102+43.5+40
三面に三猿。
「奉造立庚申供養二世安全」
「青山江鮑子村 南呂 吉辰」
山梨や長野でも見られる僧形の六臂で、
青面金剛と見られている。
ここは道志道の旧道、それも車道ができる前の道志道にある。
現在の車道は直線だが、昔は沢を高巻き風に通っており、沢を渡って鮑子に入った瞬間の場所に設置されている。
酒が供えられているのが嬉しかった。
















イメージ 2鮑子・出口
定印阿弥陀/元禄2
125+25+24.。
三猿剥落、両脇に鶏。
資料によって所在地情報が異なる。
古い資料では鮑子平。
ネット資料では集乳所前。
高木氏は観音堂跡としている。
集乳所は旧津久井郡で乳牛飼育が盛んだった頃、集落ごとにあった施設らしい。今も残っている場所はあるものの、鮑子では撤去されている。
道志道を走っていると、樹の下に並ぶこの石仏群は目立つ。
排気ガスでやられているのか風化がひどく、笠を針金で留めている。

















イメージ 3前戸・前戸神社
文字塔/文化8
74+30+30。
前戸集落の東にある鮑子集落は集落の出入り口あたりに庚申塔があるが、前戸集落は、集落の中央にある神社に設置されている。
庚申信仰に対する考え方が違うようだ。
道切りというか塞神というか、外からの魔を払う意味ではなく、単なる信仰行事としての造塔だったと想像できる。
同じ街道筋なのに隣の集落との違いがある点が面白い。



















イメージ 4梶野・旧道分岐
不動明王座像/明和5
92+36+31。
修復保存されていて読みやすいが、不動明王座像は風化しきっている。
不動明王付の道標庚申塔は100%と言ってもいいくらい大山道標で、写真の裏側には大山道と彫ってある。
正直、甲州に近いこんな山間部に大山道標があるのは予想外で驚いたが、もっと甲州寄りにも大山道標があった。
江戸時代の道志道はさびれた山道に過ぎないと思い込んでいたのだが、間違っている事に気がつかされた。
この庚申塔は旧道志道と「とずら峠」への分岐に当たるらしい。
道切り、集落の中央、これとも違う庚申塔の設置方法となる。








イメージ 5

イメージ 6






















下原入口・2基

自然石文字塔/寛政2
119+84+42。
石仏群にある大型の自然石文字塔で目立つ。
石工銘があると資料にあったが、探してもどこに石工銘があるのか判らなかった。この庚申塔の裏、下草に隠れて以下があった。
主尊不明/紀年銘不明
主尊部分は逸失。三猿部分のみ残っていた。確認した資料のどれにも未掲載。
文字を確認したかったが、民家の壁にへばりつかないと無理そうで諦めた。

この場所は下原集落の入口に当たり、100mほど手前に、青野原関所跡の案内板が設置されている。そこには、甲州街道と東海道の脇街道として道志道が機能していたが、昼は2人、夜は4人の村民が関守に当たり、近郷の住民以外は通さなかったと解説されていた。
江戸時代の旅行記を読むと、箱根の関所は出女に厳しかったため、足柄越えをしていたことが書かれている。しかし江戸市中や八王子あたりからだと道志道を使う方が近い。また、大山道標が複数設置されていることから見ても「住民以外は通さない」というのが建前だったと判る。もちろん関所をまともに通れば咎められただろうが、ほとんどの場合抜け道があり、金を払えば案内してもらえたようだ。


イメージ 7
下原・井原寺脇参道
自然石文字塔/明治13
57+39+12
この脇参道は道志道旧道沿いから上がる石積みの参道で趣がある。
庚申塔の隣に大型の題目塔が立っているが、庚申塔については井原寺ご住職も把握してなかった。

井原寺には、鎌倉時代、湘南の大磯にあったとされている小磯城の2代目城主のとき、敵に火攻されて丹沢山中に逃げ落ち、さらに流れてこの地へ辿り着き、再興を期して軍事訓練をしていた、という説明書きがある。
江戸時代は下原集落のほとんどが寺領だったようだ。
ご住職は、集落内の石造物については一切動かさないようにしていると仰っていた。

旧津久井郡の庚申塔-11

お名前を挙げるのは差し障りがあるかもしれないのでT氏と略す。
T氏は旧津久井郡の津久井町(現在は消滅)在住の名士で、
津久井町の石仏ならT氏といわれるほど詳しかったそうだ。
昔の町が発行した石仏調査資料をベースに個人で悉皆調査を行い、
200基以上の追加を書込んだ手書き資料を残されている。
既に鬼籍に入られており、家族の方が資料を提供しておられるとのこと。

相模原市立博物館の津久井町史編纂室で閲覧可能とのことで行ってみた。
手書きといっても、既存の資料をコピーしたものに手書きの註釈を入れ、
同じスタイルで手書きの表を作ってあるので見やすいものだった。

とりあえず掲載されていたものを手書きで写し取っただけだが
今まで見た資料には未掲載の庚申塔が5基ほどある気がしている。
逆に、T氏資料には未掲載の庚申塔もいくつか現存している。
町といっても旧津久井町は広い。合併前の相模原市より広かった。
どこかにそんな人がいるのではないかと期待してはいたが、
実際にその成果を目にすると驚嘆するしかなかった。
それでも漏れがあるのはやむをえない。
やはり1人や2人の調査では限界がある。

T氏資料で困ったのが大字、小字の名称を使っている点。
庚申塔に記されている村の名前などと比較するためにはその方が良いのだが、
土地勘のない余所者が探すには範囲が広過ぎる。
T氏は範囲を絞るためと思われるが、
地元で昔から使われている小字以下の地名で所在地を記していた。


名手
川坂前 旧名手道右側、杉の根本
宝暦六丙子八月吉祥日 
63 23 21.5
三猿付の文字庚申塔模写(線描き)

字の名手は判るが、川坂前がさっぱり判らず、資料室の職員に質問してみたが
「うーん」と考え込み、津久井町の地名を記録した本を提示してくれた。
この本は小字以下の地名をリストUPしたもの。
大字>小字>地名の順で調べられる。
ところが「川坂」は川へ下る道の一般名称で、川坂地名は1つや2つではない。
そして名手には川坂の地名がリストに無かった。
となると、名手から川へ下る道のどれかで旧道を探すしかない。

旧名手道は津久井湖や相模湖ができる前にあった道で、現存しておらず、
これまた「津久井町の旧道」を調べた本の概略図で
おおまかなルートは判ったが、非常にややこしいことに
川坂が地名として今も使われている他の小字を通過していた。
両方を調べれば良いだけだと、とりあえず川坂地名があるエリアを探してみたが
杉の木はどこにもなく、ただ住宅地が密集しているだけだった。

他の新規追加庚申塔はうまく見つけられるといいのだが。
T氏資料で新規に見ることができた庚申塔はまだ1基。


イメージ 1串川・川坂 川坂地蔵
文字塔/寛政11
41cm
川坂地名が今も使われているが名手ではなく、津久井湖対岸の串川地区。
写真の裏に見えている緑はもう津久井湖への傾斜地で、道は付いているが下ってもダム湖へ出るだけになっている。念のため傾斜地を下る手前に付いている道を進んで、杉の木下に三猿塔がないか探してみたが見当たらなかった。
川坂地蔵は子宝に験があり、今も信心する人が多いとのこと。立派な堂宇がついている。



















イメージ 2以下は旧津久井郡
城山町の庚申塔

広田・小松薬師堂
自然石文字塔/紀年銘無し
僧侶の墓石らしき卵塔や二十三夜塔などとともに。
平成21年2月、宅地造成のため川尻3981番地から移築した旨の石碑があった。





















イメージ 3川尻・明観寺
文字塔/大正14年
城山町では大正まで庚申講が活動していた証拠にはなるが、他はこれといって特長はない。もともとは街道沿いにあったのではないかと思う。
明観寺は真言宗寺院で、本堂前に「一言願い観音」像が建っている。
なにやら一言主を思わせるので、修験が関係していた寺院かもしれない。






















イメージ 4川尻・明観寺
石祠/延宝7
庚申銘はついていないが、三面に三不猿がついている。
石祠内には何も無いが、往古は何か主尊が納められていたかもしれない。石祠型の庚申塔は神奈川県西部に比較的多い。
この時期の真言宗寺院に三不猿がついた石祠があるのは興味深い。
なお、この隣に補陀落渡海=熊野信仰を連想させる船乗り石祠がある。

イメージ 5













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